伊勢の港回りの神社とお寺さんにあいさつ回り。それぞれ1万文ずつ寄進し、頭を下げて回る
伊勢の港で最初の飯を配り終えると、博之はすぐに寺社回りへ向かった。
港の顔役に一万文。
ここから寺と神社に、それぞれ一万文。
合わせれば三万文である。
博之は包みを手にしながら、思わずため息をついた。
「三万文か。なかなかの出費やな」
ヨイチが横で言う。
「でも、ここをケチったら後で高くつきます」
「分かっとる」
「旦那の好きな、敵を作らないための銭です」
「好きちゃうわ。必要なだけや」
そう言いながらも、博之は紋付き袴を整え、まず港に近い寺へ向かった。
寺では、住職が丁寧に迎えてくれた。
「伊勢松坂屋の博之でございます。本日より、港の端の方で、横丁のような形で飯屋を
始めさせていただきます。まずはご挨拶に参りました」
博之は深く頭を下げ、一万文の包みを差し出した。
「こちら、ささやかではございますが、お納めください」
「一万文とは、これはまた」
住職は少し驚いた顔をした。
「松坂屋さん、なかなか大きく商いをされておるようですな」
「おかげさまで、松坂の方でなんとかやらせていただいております」
「九鬼様の紹介で、船から来られたとか」
「はい。九鬼様には松坂の港でお付き合いをいただいておりまして、今回もお力添えをいただきました」
「それは、だいぶ信用を得ておられますな」
「ありがたいことでございます」
博之は少し照れたように笑った。
「最近では、飯の商いだけでなく、縁談まがいのこともさせてもらうようになりまして」
「縁談ですか」
「はい。うちには女衆も多くおります。もともと身寄りのない者、未亡人、流れ者、戦で家族をなくした者も多くて。松坂では、町の若い衆や港の男衆と、弁当を食べながら話す会などを始めております」
「飯屋が縁を作るとは、面白いことをされますな」
「飯を間に置くと、話がしやすいもので」
住職は穏やかに笑った。
「今、どれほどの所帯なのですか」
「松坂の方では、今三百人ほどの状態になっております」
「飯屋で三百人ですか」
住職は、さすがに目を丸くした。
「それはもう、ただの飯屋ではございませんな」
「私もそう思う時がございます」
博之は苦笑した。
「松坂では、城下、郊外、港、街道沿いでやらせてもらっております。伊勢でも、
今は街道沿いに小さく店を出し、郊外に拠点を作り始めております」
「伊勢の郊外にも?」
「はい。養鶏場や漬物の仕込みも少しずつ始めております。物資を、この伊勢の港まで
つなげられるようにしたいのです」
「なるほど。松坂からすべて運ぶのではなく、こちらでも回すわけですな」
「はい。ただ、まだ伊勢の城下と神宮さんを通っているわけではございません。郊外、街道、港、
それぞれがまだ点でして、連携はよちよち歩きでございます」
博之はもう一度頭を下げた。
「ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
住職は一万文の包みを見て、静かに頷いた。
「最初にここまで筋を通してくださるなら、こちらも多少の口利きはいたします」
「ありがとうございます」
「それに、売っているものも珍しいと聞きました。食えぬと思われていたものを、
食えるようにするのだとか」
「鮪の端を煮た鍋、魚のすり身を揚げたもの、魚のあら汁、海老殻の出汁などでございます」
「九鬼様が気に入られたのも、そのあたりでしょうな」
「ありがたいことです」
「松坂屋さんの話は、こちらにも少し聞こえております」
住職は言った。
「松坂で無一文同然から始め、今は勢いに乗っている飯屋があると」
「無一文同然は、本当でございます」
「しかし、勢いに乗る者ほど、挨拶を忘れがちです。こうして寺社に顔を出し、銭を置き、
飯に困る者の話まで聞こうとされる。旦那さんは、なかなかの人格者ですな」
「いやいや、人格者ではございません」
博之は慌てて手を振った。
「もともと私が飯に困っておりました。飯が食えない辛さは少し知っております。
それに、松坂では受け切れないほど人が集まり始めてしまいました。だから伊勢でも、
細々と根を張れたらと思っているだけでございます」
「それでも、立派なことです」
「こちらで飯に困っている者、働き口のない者がいれば、うちで雇わせていただきます」
博之は続けた。
「ただ、今のうちは最初の頃とは違い、読み書きと数の計算ができる者も必要になってきております。
飯を作るだけではなく、帳面を見られないと拠点が回りません」
「算用ですな」
「はい。ですので、読み書きや算用を教えてくださる方、あるいは先生になれる方がおられれば、
ぜひご紹介いただきたいのです」
「それも覚えておきましょう」
住職はそう言ってくれた。
寺を出ると、博之は少しだけ肩の力を抜いた。
「一つ目は、まあまあやな」
「上々です」
ヨイチが言う。
「旦那、ちゃんと人格者みたいに見えてましたよ」
「見えてただけや」
「見えるのも大事です」
次に向かったのは、港近くの神社だった。
そこでも博之は同じように頭を下げた。
「本日より、港の端で飯屋を始めさせていただきます。伊勢松坂屋の博之でございます」
一万文を納めると、神社の者も目を見張った。
「最初から、なかなか丁寧にされますな」
「この土地で商いをさせていただく以上、まずはご挨拶をと思いまして」
「九鬼様の船で来られたとか」
「はい。九鬼様には松坂の港でよくしていただいております」
「なら、筋は通っているということですな」
「まだまだでございます。港の皆様、寺社の皆様、地元の方々に馴染ませていただいて、
ようやく商いができます」
神社の者は、少し興味深そうに聞いていた。
「松坂屋さんの飯は、すでに少し噂になっております。鮪を煮るとか、魚をすり身にして揚げるとか」
「はい。今日、港の端で少し振る舞わせていただきました」
「食えぬものを食えるようにする、というのは良いことです。海のものを無駄にしない」
「それを名物にできれば、伊勢の港にも少しは貢献できるかと」
「ただし、昔からの商いもあります。安売りで荒らすようなことはなさらぬように」
「心得ております」
博之は深く頭を下げた。
「うちは、安く売って周りを潰すつもりはございません。むしろ、今まで値がつきにくかったものに
値をつけ、港の方々にも銭が回る形を作りたいと思っております」
「それならよい」
神社の者は頷いた。
ここでも博之は、働き口のない者がいれば紹介してほしいこと、読み書きや算用を教えられる者を
探していることを伝えた。
「うちは三百人ほどになりましたが、元は身寄りのない者が集まった店です。伊勢でも、
飯に困る者がいれば、できるだけ食い口を作りたいと思っております」
「その志は、よろしい」
「ただ、正直に言えば、人が増えすぎて帳面が追いついておりません。読み書きと数を
教えられる方がいれば、本当にありがたいのです」
神社の者は笑った。
「飯屋が算用の先生を探すとは」
「飯屋も大きくなると、飯だけでは回りません」
「それはそうでしょうな」
話は穏やかにまとまり、神社でも一万文を受け取ってもらえた。
二か所を回り終えた頃、博之は少し疲れた顔をしていた。
「三万文、飛んだな」
「でも、三万文で港の口が少し柔らかくなるなら安いです」
「お前も言うようになったな」
「旦那に似ました」
「それは悪いことや」
ヨイチは笑った。
伊勢の港では、まだ伊勢松坂屋はよそ者だった。
だが、九鬼の紹介があり、港の顔役に一万文を納め、寺と神社にも一万文ずつ置いた。
飯も振る舞った。
鮪鍋とすり身天の味も見せた。
働き口と読み書き算用の話もした。
まだ根を張ったとは言えない。
だが、最初の杭は打った。
「ここからやな」
博之は港の方を振り返った。
「飯と銭と頭下げで、どこまで入れるか」
ヨイチが頷く。
「松坂と同じようで、松坂とは違いますね」
「違う。けど、やることの根っこは同じや」
「飯を出す」
「銭を落とす」
「頭を下げる」
「人を拾う」
「帳簿を見る」
最後の一つをヨイチが言うと、博之は嫌そうな顔をした。
「それは言うな」
「一番大事です」
「分かっとる」
伊勢の港に、伊勢松坂屋の名がほんの少しだけ刻まれた。
港の端で揚がるすり身天の匂いと、寺社に置いた三万文。
その二つが、この土地での最初の挨拶だった。




