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帳簿の話が一息ついたのち博之はぼやく。半月で3割辞める現象はどうにかならんのか?

帳簿を閉じたあと、博之はふと別の帳面を見た。

 採用の記録である。

 誰をいつ雇ったか。どこの出身か。どの店に入れたか。どれぐらい続いたか。辞めた理由は何か。

 それを見て、博之は顔をしかめた。

「それにしても、半月で三割辞めるのは、なんとかならんのかね」

 ぼやくように言うと、古参の者たちが顔を見合わせた。

「そんなに厳しくしてんのか」

 博之が聞くと、古参の一人が首を振った。

「いや、厳しくはしてないです」

「ほんまか」

「むしろ、昔に比べたらだいぶ丁寧に見てますよ。飯もある、寝床もある、湯浴みもある。

 読み書きまで教える言うてるんですから」

「じゃあ、なんで辞めるんや」

 すると、別の古参が少し苦笑しながら言った。

「最終面接で、みんなキラキラしたことばっかり言うんですよ」

「キラキラ?」

「はい。伊勢松坂屋で働きたいです。店を持ちたいです。いつか港に行きたいです。

 人を助けたいです。そういうことは言うんです」

「ええことやん」

「でも、薪をくべるとか、串を刺すとか、魚に塩を振るとか、団子を丸めるとか、

 そういう仕事をちょっと下に見てるところがあります」

 博之は眉をひそめた。

「なるほどな」

「最初は団子屋や魚の串焼きから始める。そこから豚汁を覚える。港へ行くなら、あら汁の作り方を

 覚える。すり身も覚える。漬物も見る。そうやって現場を一通り知って、ようやく

 店の流れが分かるんです」

「せやな」

「でも、そこを飛ばしたがるんです」

 古参は続けた。

「いきなり店主見習いをしたい。帳面を見たい。紋付き袴を着て挨拶に行きたい。

 そういう気持ちが先に来てる」

「うちが大きくなりすぎたか」

 博之は腕を組んだ。

「外から見ると、うちはええ暮らしに見えるんでしょうね」

 ヨイチが言う。

「飯が食えて、寝るところがあって、湯浴みがあって、給金も出る。古参は紋付き袴着て挨拶に行く。

 店を任される者も出る。そら、きれいなところだけ見ますわ」

「でも実際は薪くべるところからや」

「そこが見えてないんです」

 お花も静かに言った。

「松坂の城下で雇う者は、少し薄い気がしますね」

「何がや」

「飢え方というか、切実さです」

 博之は黙った。

 自分やヨイチたちは、飯が食えないところから始まっている。働けるだけでありがたかった。

 薪をくべることも、鍋を洗うことも、飯に近づけるなら何でもやった。

 だが、今の伊勢松坂屋は大きくなりすぎた。

 最初から「整った場所」に見える。

「それでも、前は五割辞めてたのが、今は三割やろ」

 ヨイチが言った。

「そこは良くなってるんちゃいますか」

「そうか?」

「うちがでかくなったからです。根性ある者が残ったというか、欲に目がくらんだ者が残ったというか」

「欲に目がくらんだって」

「悪いことではないです。欲があるから続く者もいます」

 古参の一人が頷く。

「郊外は相変わらずですけど、松坂では名前が通ってます。炊き出しもしてますし、

 寺社にも寄進してますし、伊勢松坂屋なら食えるっていう噂もあります」

「それで三割か」

「はい」

 博之は、さらに難しい顔になった。

「伊勢や津になったら、また五割辞めるかもしれんな」

「ありえます」

 ヨイチが即答した。

「松坂なら名前が通ってるから、三割で済んでるだけです。伊勢や津では、また一からです」

「それは困るな」

「でも、採用基準は下げられません」

 お花が言った。

「飯を扱う。銭を扱う。寺社に頭を下げる。土地の者と話す。人を雇う。そこまで行くなら、

 ただ人数を集めればよいわけではありません」

「せやな」

 博之はため息をついた。

「採用を甘くすると、あとで揉める」

 辞めるだけなら、まだいい。

 だが、金を持ち逃げする者、地元と揉める者、食材を雑に扱う者、寺社への挨拶を

 軽んじる者が出れば、拠点ごと信用を失う。

「難儀やな」

 博之はぼやいた。

「人を雇うって、ほんま難儀や」

「旦那、今さらですか」

「今さらや」

 少し笑いが起きた。

 博之はさらに続けた。

「古参の者も、給料をもらいすぎてる嫌いがある」

「それ、言います?」

 ヨイチが笑う。

「いや、言う。実際、かなりもろとるやろ」

「まあ、もろてます」

「だから、その銭をため込むだけではあかん。よその土地へ行ったら、その土地で使え。

 神社や寺に寄進する。飯を食う。布団を買う。茶屋に入る。珍しいものを買う。

 そうやって銭を落とさな、土地に馴染まへん」

「給金を上げるだけでは駄目ということですね」

「そうや。使い方まで教えなあかん」

 博之は少し呆れたように自分で笑った。

「どこまで面倒見なあかんねん」

「旦那が始めたことです」

「分かっとるわい」

 伊勢については、少し見通しがあった。

「伊勢なら、まだ使い道はある」

 博之は言った。

「神宮周りで飯を食う。高い茶屋に入る。珍しいものを見る。そこで聞いた話を松坂に

 戻って皆に聞かせる。それだけでも意味がある」

「参宮客向けの値段も見られますしね」

「そうや。伊勢は高い。そこで何がいくらで売れるか、見てくるだけでも勉強になる」

「津は?」

 ヨイチが聞くと、博之は少し黙った。

「津はまだよう分からんな」

 津には港がある。長野様への挨拶もした。九鬼様の口添えも期待できる。だが、松坂とも伊勢とも

 違う空気があるはずだ。

「津は、港の飯から入るしかないかもしれん」

「鮪鍋、すり身、あら汁ですか」

「そうや。まず港で飯を出して、そこから地元に馴染む。けど、人を入れるなら、

 かなり慎重にせなあかん」

「五割辞める前提ですか」

「最初はそれぐらいで見とく」

 古参たちは少し重い顔になった。

 人を雇う。

 辞める。

 また雇う。

 教える。

 また辞める。

 その繰り返しは、飯を作る以上に疲れる。

 博之は採用帳面を閉じた。

「わしらも、見る目が贅沢になったんかもしれんな」

「それはあります」

 ヨイチが言った。

「最初は、飯食いたい者なら誰でもよかったですからね」

「そうや」

「でも今は、飯を作るだけでは足りない。字も読め、数も見ろ、挨拶もできろ、地元と揉めるな。

 求めるものが増えてます」

「それで辞めるのも、ある意味当然か」

「はい。でも、基準を下げると、今度は店が壊れます」

 博之は大きく息を吐いた。

「結局、教育やな」

「読み書き、算用、現場の下働き、挨拶回り」

「あと、薪くべを馬鹿にせんことや」

 博之は少し強く言った。

「火を見られへんやつは飯屋になれへん。串を刺せへんやつは、魚も肉も売れへん。

 鍋を洗わんやつは、店を任せられへん」

 お花が頷く。

「そこを最初に伝えないといけませんね」

「採用の時に言う」

 博之は決めた。

「うちは、まず薪くべと串刺しからや。そこを馬鹿にするやつは取らん。

 いきなり店主にはなれん。飯は下から覚えろ」

「厳しくなりましたね」

「厳しくせな、人が増えすぎる」

 ヨイチが笑った。

「でも、それで三割辞めるのが二割になるかもしれません」

「ならええけどな」

 博之は採用帳面を横へ置いた。

 金は増えた。

 店も増えた。

 だが、結局いちばん難しいのは、人だった。

 飯を作る人。

 飯を売る人。

 飯を支える人。

 そして、飯に向き合う覚悟のある人。

「飯屋って、人の商売やな」

 博之がぼそりと言うと、ヨイチが笑った。

「今さらですか」

「今さらや」

 部屋にまた笑いが起きた。

 だが、その笑いの奥で、博之は頭を抱えていた。

 松坂では三割。

 伊勢や津では五割かもしれない。

 それでも人を雇わなければ、次の横丁は作れない。

 伊勢松坂屋は、飯だけでなく、人を育てる店になりつつあった。

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