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伊勢神宮参り。寄進の2万文は快く受け取ってもらえるも店の話は通らない。だが九鬼の話と港飯には食いつきあり。目玉料理を高値で売る世界観に衝撃を受ける

伊勢神宮へ向かう道に入ると、博之は自然と口数が少なくなった。

参宮の人々が行き交い、道の空気もどこか松坂とは違う。店の呼び声や旅人のざわめきはあるのに、

その奥に、触れてはいけないものがあるような静けさがあった。

「神宮は、なんか厳かな感じがするなあ」

 博之がぽつりと言うと、隣を歩く侍が頷いた。

「そらそうでしょう。日の本のきっかけみたいな場所ですからね」

「日の本のきっかけか」

 博之は軽く息を吐いた。

「そら、飯屋がいきなり踏み込む場所ちゃうわな」

「だからこそ、今日はまずお参りです」

「せやな」

 一行は紋付き袴を整え、まずは神宮に参った。

 博之は手を合わせながら、何を願うべきか少し迷った。

 金が増えますように、というのは違う気がした。

 商いがうまくいきますように、というのも少し露骨すぎる。

 結局、心の中でこう呟いた。

 今年も、飯を食えない者が少しでも減りますように。

 それからもう一つ。

 変な失敗をして、皆を路頭に迷わせませんように。

 参拝を終えると、博之は神宮に関わる者へ取り次ぎを頼んだ。

「伊勢松坂屋の博之と申します。松坂で飯屋を営んでおります。神宮様へ寄進をさせていただきたく、

 ご挨拶に参りました」

 しばらく待った後、取り次がれた者の前で、博之は深く頭を下げた。

「本日は、二万文ほど寄進をさせていただきたく参りました」

「二万文か」

 相手は少し目を細めた。

「飯屋と聞いたが、なかなか大きな寄進をする」

「おかげさまで、松坂の方で商いが回っております」

 博之は包みを差し出した。

「松坂では北畠様のお許しをいただき、松坂の町場、港、街道筋で飯屋をやらせてもらっております。

 近ごろは伊勢の郊外でも小さく店を出しております。先ほど、そちらの領主様にもご挨拶を

 させていただきました」

「ほう」

「ゆくゆくは、こちらの方でも、端で構いませんので、飯を出させていただければと思い、

 まずはご挨拶に参りました」

 その言葉に、神宮方の者はすぐには頷かなかった。

 むしろ、少しだけ厳しい顔になった。

「心がけはよい」

「ありがとうございます」

「だが、こちらで店を出すのは、まだ早いのではないか」

 博之は黙って頭を下げた。

「伊勢の郊外で、まずしっかりやりなさい。領主筋への筋も通す。寺社にも顔を立てる。

 町の者とも揉めぬようにする。それが先だ」

「はい」

「それに、港も押さえねばならん」

「港でございますか」

「そうだ。伊勢に入るなら、陸の道だけでは足りぬ。港から入る物、人、海産物。

 その筋を扱えるだけの余力がなければ、神宮近くで商いなど簡単にはできぬ」

 その言い方は少し偉そうにも聞こえたが、博之は腹を立てなかった。

 むしろ、その通りだと思った。

 伊勢神宮の周りは、松坂の城下とは違う。客も多い。昔からの商いもある。半端な飯屋が

 一軒増えたところで、簡単に受け入れられる場所ではない。

 博之は静かに答えた。

「九鬼様とは、松坂の港筋でご縁をいただいております」

 相手の表情が少し動いた。

「九鬼と?」

「はい。年末年始のご挨拶にも伺いました。そこで、いくつか課題をいただいております」

「課題とは」

「普段あまり値のつかない魚や、捨てられがちなものを、飯に変えることです」

 博之は言葉を選びながら続けた。

「アジやイワシの端をすり身にして揚げる。魚のあらを大根や生姜と炊く。伊勢海老の殻から出汁を取る。鮪の赤身の端をねぎや生姜と大鍋で煮る。そういった港飯を、松坂の港横丁で試しております」

「鮪を煮るのか」

「はい。まだ試しでございますが、港でその日のうちに煮れば、飯になると考えております」

「……面白いことを考える」

 神宮方の者は、先ほどより少し興味を持ったようだった。

「九鬼はそれを認めたのか」

「まだ完全に形になったわけではございません。ただ、それが商いになるなら、津や伊勢の港で

 横丁を出す際に口添えしてもよい、というお言葉をいただきました」

 その場が少し静かになった。

 神宮方の者は、博之をじっと見た。

「気難しい海の者が、そういう話をしてくるのは、なかなかのことだぞ」

「ありがたいことでございます」

「ただの田楽屋、団子屋、握り飯屋なら、ここでは敷居が高い」

 相手はゆっくりと言った。

「昔からの店もある。参宮客相手の商いもある。そこへ松坂から来た者が、いきなり横丁を

 作るのは難しい」

「承知しております」

「だが、海産物を使った目玉になる飯なら、少し話は違う」

 博之は顔を上げた。

「目玉でございますか」

「参宮客は、珍しいものを好む。道中で食った飯、神宮近くで食った名物、そういう話を

 帰ってからべらべら喋る」

「なるほど」

「高く売れるぞ」

 神宮方の者は、少し商人めいた顔で言った。

「ここは松坂の城下とは客の値段が違う。三倍の値でも通ることがある。

 一軒、二軒、端の方で名物を出すだけでも、かなり違う」

 博之は内心で驚いた。

 横丁をいきなり作ることばかり考えていた。

 だが、神宮近くでは、まず一軒か二軒の名物屋でいいのかもしれない。

 蜂蜜饅頭。

 すり身天。

 海老出汁飯。

 港の珍しい揚げ物。

 参宮客向けの弁当。

 横丁全体ではなく、名物を立てる。

「では、伊勢の城下、あるいは港の方で、まず筋を通し、港飯を形にした上で、改めてこちらへ

 ご挨拶に伺ってもよろしいでしょうか」

「それがよい」

 相手は頷いた。

「出来たばかりで来るより、ある程度筋道が見えてから来なさい」

「はい」

「九鬼の口添えがあり、伊勢の郊外で揉め事なく商いが回り、港の飯が評判になる。

 そこまで見えたなら、端の方で一軒二軒出す話は聞けるかもしれん」

「ありがとうございます」

「ただし、神宮近くで騒ぎを起こすな。値のつけ方も気をつけろ。安売りで周りを潰すような

 真似はするな」

「心得ております」

「名物として出すなら、安く出す必要はない。むしろ安すぎると困る」

 その言葉に、博之は少しだけ笑いそうになった。

 松坂では、安くうまく食わせることを考えてきた。

 だが、神宮近くでは、逆に安すぎることが問題になる。

 まったく別の土地だった。

「参宮客が、帰ってから話すような飯を作りなさい」

 神宮方の者は言った。

「そういう飯なら、神宮の耳にも入る」

「肝に銘じます」

「寄進はありがたく受けよう。今後も、まずは地道にやりなさい」

 博之は深く頭を下げた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」

 話が終わり、神宮を後にすると、博之はしばらく黙って歩いた。

 ヨイチが横から覗き込む。

「旦那、どうでした」

「松坂とは全然違うな」

「そうでしょうね」

「ここは、安く広げる場所ちゃう。名物を高く出す場所や」

 博之は腕を組んだ。

「横丁を作るにしても、いきなりではない。一軒二軒、端で目玉飯を出す。そこから評判を取る」

「神宮の人、なかなか厳しかったですね」

「厳しかったけど、道は教えてくれた」

 伊勢郊外を固める。

 港を押さえる。

 九鬼の口添えを得る。

 港飯を名物にする。

 それができれば、神宮の端で一軒二軒。

「すり身天、海老出汁飯、蜂蜜饅頭、港弁当」

 博之は小さく呟いた。

「値段は松坂の三倍でも通るかもしれん」

 ヨイチが笑った。

「旦那、顔が商人になってますよ」

「飯屋や」

「同じようなもんです」

「違うわ」

 博之は神宮の方を振り返った。

 荘厳な空気は、まだ背中に残っている。

 簡単には入れない。

 だが、完全に閉ざされているわけでもない。

 飯で名物を作れば、道はある。

「まずは港やな」

 博之は言った。

「鮪鍋を形にする。海老出汁も安定させる。伊勢の郊外も固める」

「やること多いですね」

「多いな」

 それでも、博之の顔には少しだけ笑みがあった。

 伊勢神宮の敷居は高い。

 だが、その高さの向こうに、今までとは違う商いが見えた。

 安く食わせる横丁ではなく、参宮客が語りたくなる名物飯。

 伊勢松坂屋の次の形が、また一つ見え始めていた。

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