博之45歳。四月二週目、信楽を発って草津へ
四月二週目。
信楽の工房を一通り見て回った博之は、その日の夕方、宿へ戻るなり人を集めた。
「ほな、明日から草津、京都郊外の方へ向かおか」
「信楽はもうよろしいんです?」
「十分見た。見すぎたぐらいや」
机の上には、今日見て回った信楽焼の中でも特に出来のよい茶器がいくつか並んでいた。
「これな、山科様へ一つ送ろ」
「贈答ですか」
「そう。比叡山の件も一段落したし、あの時いろいろ世話になったからな」
信楽から直接人を走らせる必要はない。
亀山から草津方面へは、伊勢松阪屋の荷駄が定期的に動いている。
「その帰りの荷に乗せたらええ」
「分かりました」
「書面も俺の名前でつけといて」
博之は少し考えてから付け加える。
「あと、帰りに機会あったらお茶でも、って書いといて」
「お茶?」
「最近作った饅頭持ってくからさ」
小豆餡の甘い饅頭。
肉餡の饅頭。
蒸籠から出したばかりなら、それだけでも話の種になる。
「俺、京都のど真ん中で偉い人に囲まれてるより、郊外でぷらぷらしながら茶飲んでる方が好きやねん」
「それ、書面には書きませんよ」
「書かんでええわ!」
さらに茶器をいくつか選ぶ。
「三好にも一つ」
「はい」
「六角にも」
「はい」
「浅井にも一個」
「北近江ですね」
「朝倉にも」
「敦賀方面まで行かれるつもりですか?」
「行けるところまでな」
全部豪華な一揃いにする必要はない。
一品。
簡単な挨拶状。
それだけでいい。
「『近くまで来ております』『日頃商いさせていただいてありがとうございます』ぐらいでええ」
「旦那様、こういうところだけは妙にまめですね」
「こういうところだけは、は余計や」
「普段との差が」
「当たり前やろ。これで飯食っとんねん」
博之は笑った。
伊勢松阪屋は、北畠だけを相手に商いをしているわけではない。
織田。
三好。
六角。
浅井。
朝倉。
寺社。
商人。
どことも深く入りすぎない代わりに、どことも雑には扱わない。
「細かい商談は師範とか番頭に任せたらええねん」
「はい」
「でも頭が挨拶する時は、俺の名前で出した方が話早いやろ」
「そこは確かに」
「俺が何でもやる必要ない。でも俺がおる意味までなくしたらあかんからな」
必要な手配を済ませると、博之は満足そうに伸びをした。
「ほな明日、草津やな」
「歩きます?」
「乗る」
即答だった。
「もう歩かないんですか?」
「十分や」
「伊賀越え一回で?」
「今年の歩く目標、達成」
「四月ですよ」
「ええねん」
翌朝。
博之は堂々と荷車へ乗り込んだ。
「楽やなあ」
「大旦那、顔が全然違いますね」
「人間はな、文明を使わなあかん」
「昨日まで自分の足で道を見るとか言ってたでしょう」
「見た。見たから終わり」
信楽を離れ、ゆっくり草津方面へ向かう。
道中では、お花やヨイチとも合流する予定だった。
「旦那様、比叡山にも寄るんですよね」
「寄る」
「坂本も?」
「見たいな」
「その先は?」
「行けるなら今津とか、その先もな」
博之は荷車の上から景色を眺める。
「せっかくここまで来たんやから、北の線も見たい」
「また歩くことになりません?」
「ならんように考える」
「それで道作るとか言い出すんでしょう」
「もう言わへんぞ」
「ほんまです?」
「言わへん」
少し間が空く。
「でも水場ぐらいは――」
「ほら」
「今のなし!」
皆が笑った。
伊賀では、地元の者が本当に喜んでくれた。
信楽でも歓迎された。
飯を出せば人が集まり、話を聞けば道や物流の問題が見えてくる。
「まあ……行ってよかったとは思うよ」
「でしょう?」
「思った以上に喜んでくれたしな」
「では、また来年」
「それはない」
「即答ですか」
博之は自分の足をさすった。
「喜んでくれる気持ちと、俺の足腰を天秤にかけたらやな」
「はい」
「今年は俺の足腰の勝ちや」
「何の勝負です?」
「大事な勝負や」
荷車がゆっくり進む。
信楽で選んだ茶器は、それぞれ違う方向へ送られていく。
山科へ。
三好へ。
六角へ。
浅井へ。
朝倉へ。
博之自身は、その荷とは別に草津へ。
「なんか、俺が歩かんでも物だけどんどん動いていくな」
「それが今の伊勢松坂屋でしょう」
「そう考えたら、やっぱ俺が歩く必要なかったんちゃう?」
「伊賀でそれ言ったら怒られますよ」
「黙っとこ」
そんなくだらない話をしながら。
博之は久しぶりに足を休ませ、荷車に揺られながら草津へ向かった。
伊賀越えという今年最大の個人的な難事は、ひとまず終わった。
だが旅そのものは、まだ半分も終わっていなかった。




