比叡山の僧に長刀を首にあてられ血を流しても引かない。比叡山が欲しがっている1000万文、六角と三好に送る。根無し草からここまで来たんや。舐めるな
一千万文。
僧兵の口からその数字がにじんだ時、博之は、妙に腹が据わった。
重たい数字である。
普通なら、震える。
店をいくつも建てられる。人を何年も食わせられる。船も作れる。寺を直せる。
米も味噌も布団も山ほど買える。
だが、博之は笑った。
「一千万文。それは重たい数字や」
僧兵たちは、博之が折れたと思ったのか、にやりとした。
「分かっとるなら、素直に納めればええ」
「わしもな、根なし草からやってきたんや」
博之は、壊された会場を見た。
踏まれた飯。
割れた器。
蹴り倒された台。
散らばった竹串。
「ボロ小屋で飯を炊いて、そこから始めた。子どもらに飯食わせて、
女衆に働いてもろて、道を作って、店を作って、なんやかんやここまで来た」
僧兵の一人が鼻で笑う。
「だから何や」
「今まで、運が良すぎたんやと思う」
博之は静かに言った。
「これも仏様のお導きやったんかな、と今思った」
僧兵の顔が、少し明るくなる。
「そうや。それが分かっているなら、寄進すればええ」
「朝廷に一千万文も払えるんやったら、うちにも払えるやろう、という話やな」
「分かっとるやないか」
「払えんことはない」
博之は、はっきり言った。
その一言に、僧兵たちの顔がさらに緩む。
だが、次の言葉で空気が変わった。
「けど、その一千万文は、三好と六角に払うことにした」
僧兵たちの笑みが消えた。
「……何やと」
「わしは、飯を汚す奴を許さん」
博之の声は低かった。
「器を割るのも許さん。飯を踏むのも許さん。客を脅すのも許さん。
さらに、うちの従業員を脅す奴は、もっと許さん」
ヨイチはすでに後ろで記録していた。
お花は、避難させた女衆と料理人たちの方を確認している。
博之は続けた。
「そんなに銭が欲しいんなら、銭をほうぼうに撒き散らしてやろうかという気持ちで、今いっぱいや」
「貴様……」
「まず一千万文。三好と六角に五百万文ずつ。頼むのは戦やない。おたくらみたいに、
領内で暴れ回って飯を踏む奴を取り締まってくれ、というだけや」
僧兵たちがざわつく。
「それとな」
博之は、地図を見るように空を指でなぞった。
「比叡山、坂本。その北の堅田でも、うちは市をやる」
僧兵の顔つきが変わった。
「堅田やと」
「大津でやる。京都郊外でもやる。草津でもやる。堅田でもやる。
飯を出す。布団を置く。逃げてきた者には仕事を出す。なんぼでも荒らしたらええ」
「お前、何を言うとる」
「うちは立ち上がるだけや」
博之は笑った。
「根比べしようか」
その笑みは、穏やかではなかった。
「うちは今、畿内全域で三十拠点ほどある。荒らしたいんなら、好きなだけ荒らしに来い。
京都郊外、大津、草津、堅田、松阪、白子、大湊、津、奈良、堺。全部回るんか?」
僧兵たちは黙った。
「飯屋やぞ、うちは。兵は持たん。槍も持たん。城も持たん。けど、飯は出す。
人は雇う。寝床は用意する。銭は出す。おたくらには出さんけどな」
「なめておるのか」
僧兵の一人が、ついに怒鳴った。
「お前、延暦寺をなめておるのか!」
別の僧兵が薙刀を構え、博之の首筋に押し当てた。
お花が息を呑む。
ヨイチが前に出ようとしたが、博之が片手で制した。
刃が首筋をかすめる。
薄く皮が切れ、赤い血が一筋流れた。
周囲が凍りついた。
だが、博之は動かなかった。
「まだ分かってへんな」
博之は、薙刀の刃を見ずに、僧兵の目を見た。
「こちらが本当に失うものがないということを、まだ分かってへん」
「失うものがないやと? 店も銭も人もあるやろうが」
「ある。今はな」
博之は静かに言った。
「でも、二年半前の俺は、無一文の根なし草やったんやぞ。その意味、分かるか」
僧兵は答えなかった。
「店がなかった。銭もなかった。寝床もなかった。誰も俺の名なんか知らんかった。
そこから飯炊いて、ここまで来た」
博之の声は、だんだん静かになっていった。
「つまりな。店を焼かれても、俺はまたボロ小屋から始められる。荷を取られても、
また握り飯から始められる。器を割られても、椀一つから始められる」
刃が、さらに少し首へ食い込む。
血がもう一筋流れた。
お花の顔が青ざめる。
それでも博之は、笑った。
「命さえあればな」
その笑みに、薙刀を持った僧兵の手がわずかに揺れた。
「何や、お前……」
「だから言うてる。殺すなら、ここで殺せ」
周囲の空気が止まった。
博之は続けた。
「けど、殺したらどうなるやろな。伊勢から来た大膳亮が、大津の催しで飯を出してる時に、
延暦寺の僧兵に首を落とされた。飯を踏まれ、客を脅され、最後に殺された。これを、
山科様はどう記すやろな」
ヨイチが一歩前に出た。
静かに帳面を掲げる。
「すでに、日時、場所、人数、神輿、破壊された品、逃がした人数、怪我人、発言、
すべて記録しています」
僧兵たちの顔色が変わる。
博之は言った。
「その記録は、三好にも六角にも、公家筋にも、寺社にも回る。うちの拠点にも全部回る。
松阪にも、白子にも、大湊にも、堺にも、奈良にもな」
薙刀を持つ僧兵の手が、また揺れた。
「おたくらが欲しかった一千万文は、うちからは出ない。代わりに、うちを荒らした記録と一緒に、
三好と六角へ行く」
「黙れ」
「黙らん」
博之は、血をぬぐいもせず言った。
「飯屋をなめるな」
その一言は、大声ではなかった。
だが、妙に響いた。
「うちは兵で勝てん。だから兵では戦わん。銭で道を作る。飯で人を集める。仕事で人を逃がす。
おたくらが一つ荒らすたびに、うちは二つ飯場を作る。おたくらが一つ脅すたびに、
うちは三つの寺に飯を持っていく。おたくらが銭をよこせと言うたびに、
うちは別のところへ銭を撒く」
僧兵たちは、押し黙った。
今、目の前にいる男は、武士ではない。
武器もない。
護衛も多くはない。
首筋に刃を当てられて、血まで流している。
それでも、折れていない。
むしろ、目が据わっている。
普通の商人なら、ここで震えて銭を出す。
普通の寺なら、ここで詫びる。
普通の飯屋なら、逃げる。
だが、博之は逃げもしないし、詫びもしない。
自分の店が焼かれることまで前提にして、次の飯場を考えている。
僧兵の一人が、低く言った。
「狂っとる」
博之は笑った。
「根なし草やったからな」
ヨイチが、そこで小さく笑った。
「旦那様、やっぱり戻ってますね」
「戻ってへん。思い出しただけや」
お花は泣きそうな顔で怒っていた。
「笑ってる場合じゃありません」
「すまん」
博之は、ようやく少しだけ首を引いた。
薙刀の刃が離れる。
血が襟元へ落ちる。
僧兵たちは、完全に困惑していた。
脅しが効かない。
いや、効いている。
怖がってはいる。
だが、怖がったうえで、銭を出さない。
その上、出すはずだった銭を、別の勢力へ回すと言っている。
これは厄介だった。
殺せば大事になる。
脅せば記録される。
荒らせば、敵に銭が流れる。
銭を取ろうとすればするほど、相手は飯場を増やす。
僧兵の中に、明らかに動揺が走っていた。
「今日のところは、飯と器を壊された」
博之は言った。
「これは記録する。怪我人が出てないことだけは、ありがたいと思っとく」
僧兵は返事をしない。
「で、最後にもう一度聞く」
博之は、首筋の血を指でぬぐいながら言った。
「いくら欲しかったんや」
誰も答えなかった。
博之は、静かに笑った。
「答えられへんなら、今日は帰り」
その一言に、僧兵たちの空気が変わった。
屈辱だった。
だが、これ以上ここで暴れても、博之が折れる感じはない。
むしろ、暴れれば暴れるほど、記録が増える。
やがて、僧兵の一人が神輿の方を振り返った。
「……引くぞ」
「おい」
「今日は引く」
そう言って、僧兵たちはゆっくりと会場を離れ始めた。
去り際、一人が振り返り、博之を睨んだ。
「後悔するぞ」
「もうしてる」
博之は答えた。
「飯を踏ませたことをな」
僧兵は舌打ちをして去った。
神輿の列が遠ざかる。
ざわめきだけが残った。
お花が駆け寄り、博之の首筋を布で押さえた。
「何をしてるんですか!」
「すまん」
「本当に、何をしてるんですか!」
「いや、ちょっと刃が当たった」
「ちょっとじゃありません!」
ヨイチは、壊された会場を見ながら言った。
「人は無事です」
「客、料理人、手伝い、全員逃げています。軽い擦り傷程度はありますが、重傷者はなし」
「なら勝ちや」
博之は言った。
お花が睨む。
「旦那様は怪我してます」
「これぐらいは負けに入らん」
「入ります」
ヨイチは静かに帳面を閉じた。
「本日、大津催し、延暦寺筋により妨害。神輿と僧兵。会場破壊。飯と器への狼藉。
大旦那負傷。人的被害は軽微。要求額は明言せず。ただし一千万文への関心あり」
博之は頷いた。
「三好と六角への文、準備やな」
「はい」
「あと、堅田にも文を出す。市をやる。飯も出す」
「承知しました」
ヨイチが、壊れた竹串の箱を拾い上げた。
「根比べ、始まりましたね」
博之は血のにじむ首筋を押さえながら、少しだけ笑った。
「飯屋に喧嘩売ったら、飯屋のやり方で返されるってことを、覚えてもらおう」
お花は、泣きそうな顔で怒りながら言った。
「その前に手当てです」
「はい」
大津の催しは壊された。
飯は踏まれ、器は割られた。
だが、人は死ななかった。
そして、比叡山の僧兵たちは初めて知った。
この飯屋は、銭で脅せば折れる相手ではない。
むしろ、脅した銭を別の道へ流し、飯と仕事で囲い返してくる。
武器を持たない飯屋。
だが、だからこそ厄介な相手だった。




