ゴロゴロしながら北伊勢に目を向ける。津を素通りするとキレられるといわれていたら長野家から使者が来るwww
博之は、また座敷でごろごろしていた。
帳簿を見るたびに銭が増える。
増えるたびに怖くなる。
怖くなるたびに、どこかへ撒きたくなる。
「北伊勢の港、ちょっと見てもええかな」
ぽつりと言うと、ヨイチがすぐに反応した。
「また余計なことを考えていますね」
「余計ちゃう。津の北や。白子とか四日市とか、港があるやろ。九鬼様も信楽焼きを北伊勢に
流したがってるし、金も余ってるし、ちょっと撒いて地ならししてもええかなと」
お花が苦笑した。
「そんなことを言っていたら、また津の方から使いが来ますよ」
「なんでやねん」
「まだ津の城下に出していませんから」
「出せるほど人が足らんやろ」
博之は起き上がった。
「港町は、長野の若い衆が頑張ったから、ようやく二つ目が立ち上がった。あれはこれから乗ってくる。
郊外も、そろそろ二つ目の横丁を考えてる。設備も人も、松阪や伊勢と同じ水準でやってるんや。
時期が来たら津の城下もやる。けど、それはこっちのペースや」
「はい」
「なんで向こうのお殿様の機嫌を、こっちが取り続けなあかんねん」
そう言ったところで、店の者が顔を出した。
「旦那様、長野様の方からお使いでございます」
博之は、ぴたりと止まった。
「……ほら来た」
お花が言った。
「なんでほんまに来るねん」
やがて、いつもの調整役が入ってきた。顔にはまた、見慣れた冷や汗が浮かんでいる。
横には、以前松阪で怒鳴り込んできた若い衆の一人もいた。
だが、以前とは様子が違う。
若い衆は、入るなり深く頭を下げた。
「先日は、まことに申し訳ございませんでした」
博之は少し目を丸くした。
「おお。えらい素直になりましたね」
調整役が苦笑する。
「港で揉まれまして」
若い衆は、頭をかいた。
「はい。港の者たちに、だいぶ小馬鹿にされながらやっております」
「まあ、あれだけ騒いだら、しばらくは言われるでしょう」
「はい。けれど、港の横丁を回って、店の場所や荷の通り道、夜の警備、顔役への
話通しをしているうちに、ようやく少し分かってきました」
「何がですか」
「飯屋を一つ立ち上げるのに、どれだけ人と筋がいるかです」
博之は、少しだけ表情を和らげた。
「それが分かったなら十分です」
若い衆は続けた。
「定期便も増やしていただき、ありがとうございます。港の者も、伊勢松坂屋の荷が増えるならと、
少しずつ一緒に回ってくれるようになりました」
「それは良かった」
「港の二つ目も、なんとか形になりつつあります」
「なら、結果的には喜ばれると思いますよ。最初に小馬鹿にされても、飯が出て、銭が落ちて、
仕事が増えれば、見る目は変わります」
博之がそう言うと、若い衆の表情が少し曇った。
「実は、その件で……」
「嫌な言い方ですね」
ヨイチが小さく言った。
調整役が、さらに汗を拭く。
「お殿様が、早く津の城下に横丁を作れと、強くおっしゃっております」
博之は、天井を見た。
「ほら来た」
「港で食べた者たちが、揚げたてのすり身や鮪鍋の話を城下でしてしまいまして」
「そらするでしょうね」
「お殿様が、“わしも城下で食いたい。城まで持ってこいとは言わんから、城下に早く作れ”と」
「言うてること、少し成長してるようで、結局同じですね」
「私どもも、揚げ物はその場で揚げた方がうまいというのは、港で見て分かりました。冷めたものを持っていくより、店を作った方がよい。それは分かるのですが……」
「人が足らん」
「はい」
「焼き手も、揚げ手も、売り子も、帳面役も、荷運びも、警備もいる。
城下はさらに武家筋の顔色も見ないとあかん。そんな簡単に増やせません」
「その通りです」
若い衆が、苦しそうに頷いた。
「私らもそう説明しているのですが、殿様はどうにも待ちきれないご様子で」
博之は、額を押さえた。
「津は津で、港と郊外を厚くしてから城下や。順番があるんです」
「はい」
「港は魚がある。郊外は人と荷を置ける。そこが回ってから城下。いきなり城下に出したら、
また“城まで持ってこい”に戻る」
調整役は、深く頭を下げた。
「その通りでございます」
「で、他にもあるんでしょう」
博之が言うと、調整役はさらに苦い顔をした。
「はい。九鬼水軍様が、津を通り越して北伊勢の方でごそごそ動いておられることも、
殿様のお耳に入りまして」
「ごそごそって」
「白子、四日市、桑名方面で、信楽焼きを流す話が出ているとか」
「まだ本格的にはやってませんよ。買い付けも細いし、うちも一人一個制限してるぐらいです」
「ですが、殿様は“なぜそれが津に回ってこない”と」
「はあ」
博之は、深いため息をついた。
「信楽焼きは、まず松阪と伊勢の店で使う分、従業員向け、九鬼様の北伊勢試し売り、
上野の横丁分。全然足りてへんのです」
「はい」
「津には津で、必要なものを回してるでしょう。魚、紙、草履、味噌、油、棚売り。
定期便も一万から増やしてる」
「はい。そこは大変ありがたく」
「なのに、九鬼様が北伊勢で少し動いたら、また怒るんですか」
調整役は、申し訳なさそうに縮こまった。
「面目ございません」
若い衆も頭を下げた。
「私も、以前なら殿様のお気持ちの方に立っていたと思います。ですが、今は分かります。
物には順番と量がある。信楽焼きも、欲しいと言えばすぐ出てくるものではない」
「分かってくれただけで、だいぶ助かります」
博之は少しだけ笑ったが、すぐにまた嫌そうな顔になった。
「けど、その分、今度はあなたらが板挟みですね」
「はい」
「港では小馬鹿にされ、城ではせっつかれ、こっちへ来たら私に嫌な顔をされる」
「まったくその通りです」
調整役が苦笑した。
「大変ですねえ」
「旦那様、他人事みたいに言わないでください」
ヨイチが刺す。
「だって面倒なんやもん」
博之は腕を組んだ。
「分かりました。返事としてはこうです。津の城下はやる。ただし、港と郊外の動きがもう
少し安定してから。人が育ってから。時期を急かされても、質が落ちたら意味がない」
「はい」
「信楽焼きは、今すぐ津へまとまった量を回すのは無理。まずは少量、見本としていくつか渡す。
城下向けというより、殿様への話の種として」
調整役の顔が少し明るくなる。
「それは助かります」
「ただし、これを見て“もっと寄こせ”と言われても困る。これは道が細い。皿は魚と違って割れる。
伊賀の者たちが命がけで運んでる。そこをちゃんと説明してください」
「承知しました」
「それと、九鬼様が北伊勢へ回す分は、九鬼様の商いでもあります。津が全部押さえる話ではない。
そこを勘違いされると困ります」
若い衆が、真剣に頷いた。
「私からも、できる限り説明いたします」
博之は、少しだけその若い衆を見直した。
「港で小馬鹿にされながら学んだ分、今のあなたの言葉は前より通るかもしれませんよ」
「そうだとよいのですが」
「大丈夫です。失敗して笑われた人間の言葉は、うまく使えば重くなります」
若い衆は、少し驚いた顔をした。
「そういうものですか」
「たぶん」
博之は笑った。
「私も、あちこちで笑われてますから」
お花が横から言う。
「旦那様は、今も笑われています」
「そこは言わんでええ」
少しだけ場が和んだ。
だが、博之の胸の中には、じわじわと嫌な重さが残っていた。
津の城下。
信楽焼き。
九鬼水軍の北伊勢。
長野の殿様の機嫌。
また道が絡む。
また帳簿が増える。
また誰かの顔を立てなければならない。
「はあ」
博之は、もう一度深く息を吐いた。
「飯屋やのに、なんでこんなに外交みたいなことしてるんやろ」
ヨイチが即答した。
「旦那様の飯屋が、ただの飯屋ではなくなったからです」
「嫌な答えやな」
「事実です」
博之は、長野の使いたちを見ながら、しぶしぶ頷いた。
「分かりました。城下の話、見本の信楽焼き、港と郊外の安定。順番を守るということで、
また一つ文を書きます」
「ありがとうございます」
「ただし、次に“すぐ城まで持ってこい”になったら、私また伊勢へ連れて行きますよ」
若い衆が苦笑した。
「それは、もう勘弁してください」
調整役は汗を拭きながら、それでも少し安心した顔をしていた。




