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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第56話】 まだ遠い匂いを近くで試す

 港町の紙片は、まだ帳面の後ろに挟まれたままだった。


 引き出しの奥ではない。

 でも、すぐに飛び出していく場所でもない。


 その距離が、今の灰白亭と港町の距離だった。


「……ねえ」

 ミアが言った。


「何だ」

 恒一が答える。


 朝の鍋はきれいに空になっている。

 持ち帰りの壺もひと通り出て、食堂は昼前の静けさに戻っていた。


 帳場の上に、仕入れ帳。

 壺の返却記録。

 そして、その横に小さく置かれた港町の紙片。


「行きたい?」

 ミアが聞く。


 恒一は少しだけ考えた。


「行ってみたい」

「うん」

「でも、今じゃない」

「……」

「今の鍋を崩してまで行く場所じゃない」

「そうよね」


 ミアは紙片を指で押さえて、それからまた帳面の後ろに挟み直した。


「でも、忘れたくない」

「うん」

「今の鍋をちゃんと回した先にある話、って感じする」

「そうだな」


 その整理はよかった。


 港町は夢じゃない。

 でも、今すぐ飛びつく未来でもない。

 今の灰白亭がもう少し厚くなった先にある、次の匂いだ。


「じゃあ」

 恒一が言う。

「今の街で寄せるか」

「何を」

「港の匂いを」

「……」

「行けないなら、近くで試す」

「それ、かなり灰白亭っぽい」

「そうかもな」


 その日の市場で、二人は乾物の通りを少し長く歩いた。


 目的は買い物というより確認だ。

 この街に流れ込んでくる“港の気配”がどの程度あるのか。

 今の鍋を壊さずに触れられるものがあるのか。


 塩気の強い魚。

 乾いた小魚。

 薄い貝柱みたいなもの。

 海藻に似た、黒く縮れた乾き物。


「……前より、匂いが分かる」

 ミアが言った。


「何が」

 恒一が聞く。


「“今のうちには強すぎる匂い”と、“ちょっとなら使える匂い”」

「……」

「前なら全部一緒に“魚臭い”で終わってた」

「いいな」

 恒一が言う。

「宿の人っぽい」

「最近それ好きよね」

「事実だからな」


 食材帳の上で、イーリスが静かに文字を浮かべる。


 ――港由来食材:少量流入を確認

 ――現段階では補助用途が妥当です


「補助用途」

 ミアが読む。

「主役じゃないってことね」

「うん」

「それなら今のうちにも合うかも」

「そうだな」


 二人の足が止まったのは、乾いた黒い海藻の束の前だった。


 細い。

 薄い。

 そのまま噛めばたぶん固くてしょっぱいだけだろう。

 でも、水へ戻せば匂いが少し開きそうだった。


「これ」

 ミアが言う。


「うん」

 恒一も頷く。


 店番の男がこちらを見る。


「それ、汁に入れると少し海の匂いが出るぞ」

「強い?」

 恒一が聞く。

「戻し方次第だな」

 男が答える。

「多けりゃ全部海になる」


 その言い方が、逆によかった。


 全部を変えるほど強いものは、今の灰白亭にはまだいらない。

 欲しいのは、今の鍋の端に、少しだけ遠い匂いを置けるものだった。


「少しだけ」

 恒一が言う。


「また少しだけ」

 ミアが笑う。


「灰白亭はそういう宿だろ」

「うん」

「いきなり港町までは行かない」

「うん」

「でも、遠い匂いは忘れない」

「それ、かなり好き」


 厨房へ戻る。


 海藻を水へ落とす。

 すぐには何も起きない。

 でも少し置くと、細い黒がゆるみ、匂いが開いてくる。


「……海だ」

 ミアが言った。


「うん」

「でも、強すぎない」

「そう」

「これなら」

 彼女は少し考える。

「干鱗魚の底に重ねられるかも」

「それだな」


 干鱗魚だけでは、底は深くなるが少し閉じる。

 そこへほんの少しだけ海藻の匂いを足せば、底を広げられるかもしれない。


 主役ではない。

 でも、宿の中の一皿に、遠い港の気配を少しだけ混ぜることはできる。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「これ、港町そのものじゃない」

「うん」

「でも、港町の匂いを忘れないための一歩にはなる」

「そうだな」


 イーリスの文字が静かに並ぶ。


 ――評価:妥当

 ――遠方要素を近距離で試す段階として適切です


「今日は言い方が硬いわね」

 ミアが言う。


「必要だからです」

 イーリスが答える。


「うん、そこは知ってる」


 小さな椀へ、試しに一口ぶんだけ注ぐ。

 干鱗魚の底。

 その上に、ほんの少しだけ海藻の戻し。


 匂いは前に出ない。

 でも、飲み込んだあとに遠くの塩の気配が残る。


「……」

 ミアが目を細める。


「どうだ」

 恒一が聞く。


「すぐ“海”って分からない」

「うん」

「でも、いつもの底より、少しだけ遠い」

「いいな」

「うん」

「これ、かなり灰白亭っぽい」

「どういう意味だ」

「いきなりどこかへ行かないで、ここから少しずつ触る感じ」

「……」

「宿のやり方って、たぶんそういうことなんだね」


 その言葉はよかった。


 遠いものを遠いまま憧れるだけでは終わらせない。

 でも、今の鍋を壊してまで飛びつかない。


 灰白亭が残る宿であるなら、進み方もそうでなければならない。


 夕方、食堂の灯りが入る頃、ミアは帳面を開いた。


 港町の紙片の横に、短く書く。


 まだ遠い匂いを近くで試す


「いいな」

 恒一が言う。


「ほんと?」

「かなり」

「今日はその“かなり”、素直に受け取る」

「成長だな」

「そっちが言う?」


 ミアは少しだけ笑って、紙片を帳面の後ろへ戻した。


 前より少しだけ近い場所へ。

 でも、まだ今ではない場所として。


 港町の匂いは、まだ遠い。

 でも、その遠さはもう、灰白亭の鍋の外にあるだけの夢ではなかった。


 ちゃんと、今の鍋の続きをしている遠さだった。

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