【第55話】 この宿の味は、ここから渡す
その朝、灰白亭の帳場の上には、巻き布がきれいに三種類並んでいた。
ひとつは店内用。
ひとつは持ち帰り用。
そしてもうひとつは、クルトが持ってきた試作用の布だ。
色も手触りも少しずつ違う。
見ただけで用途が分かるように、ミアが昨日の夜に並べ直した。
「……こうしてると、ちょっと店っぽい」
ミアが言う。
「今さらだな」
恒一が鍋を見ながら答える。
「前は壺に布巻くなんて、ただの雑用だったのに」
「うん」
「今はちゃんと意味がある」
「そうだな」
壺を包む布。
乾燥菜の小袋。
返却の流れ。
言葉のかけ方。
味そのものではない。
でも、味が宿の外でちゃんと届くために必要なものたちだ。
鍋の中では、黒麦と豆がいつも通りにほどけている。
朝の粥はもう、宿の土台としてぶれなくなってきた。
「今日は試す?」
ミアが聞く。
「布か」
「うん」
「試す」
恒一が答える。
「でも、鍋は変えない」
「そこは変えないのね」
「変えない」
「いいと思う」
ミアは頷いた。
「今のうちの線だものね」
その言い方が、かなり自然になってきた。
線を引く。
守る。
渡す。
そういう言葉が、もう無理なくミアの口から出る。
朝の流れはいつも通りに始まった。
ドノヴァンとペトル。
ガド。
リナ。
それから見慣れない顔が二人。
そのうちの一人は、紙屋の奥さんの妹――エナだった。
今日は客としてではなく、壺を一つ抱えて立っている。
「……ほんとに持ってきたのね」
ミアが言う。
「そりゃそうでしょ」
エナが答える。
「“布は試しで一枚だけ”って言われたから」
「そうだった」
「で、これ」
エナは巻き布を見せた。
「昨日教わった巻き方で、自分なりに少し変えてみた」
「……」
「だめ?」
ミアは壺を受け取り、布を指でなぞった。
厚すぎない。
でも前より端が少し長い。
指が引っかけやすい。
「……」
「どう?」
エナが聞く。
ミアは少しだけ黙ってから答えた。
「悪くない」
「ほんと?」
「かなり」
ミアが言う。
その返しに、自分でも少しだけ笑ってしまう。
前なら“うちのやり方と違う”で止まっていたかもしれない。
今は違う。
線を引いたうえで、外から返ってきた工夫を見られるようになっている。
「これ、うちでも試す」
ミアが言う。
「え?」
エナが目を丸くする。
「持ちやすいから」
「……」
「教えたものが、良くなって返ってくるなら悪くない」
「……」
「でも全部は渡さないわよ」
「分かってる」
そのやり取りをリナが少し離れたところで見て笑った。
「前よりだいぶ宿の人になったね」
「前から宿の人よ」
ミアが返す。
「今は“残すために回す”顔になったって意味」
「……」
「それ、ベルノっぽい」
「ちょっとだけね」
持ち帰りの流れが一段落した頃、クルトが顔を出した。
今日は中へ入るというより、試した布や乾燥菜の様子を見に来た顔だ。
「どうです」
彼が言う。
「布は悪くない」
ミアが答える。
「乾燥菜は、もう少し」
「もう少し?」
「戻り方はいい。でも、今の灰白亭の鍋には少し匂いが立ちすぎる」
「……」
「うちに合う形まで落としたい」
「なるほど」
クルトは頷いた。
「それなら、別の戻し方のものも持ってきましょう」
「お願い」
ミアが言う。
「でも、鍋は変えない」
「分かっています」
クルトは少しだけ笑う。
「そこはもう、よく分かりました」
それだけで十分だった。
全部預けない。
でも、渡せるところは渡す。
その線が、ようやく相手にも通じ始めている。
昼前、食堂が少し静かになった頃、ミアは帳場の横へ壺を並べ直した。
巻き布の違い。
返却された壺。
店内の器。
乾燥菜の小袋。
どれも小さい。
でも、どれも宿の外とつながる道具だ。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
恒一が聞く。
「前は、外へ出るって怖かった」
「うん」
「変わるし、真似されるし、薄まる気がして」
「……」
「でも今は、ちょっと違う」
「どう違う」
ミアは壺をひとつ持ち上げた。
「ここから出るなら、って感じ」
「……」
「どこから出るかを選べるなら、そんなに怖くない」
「そうだな」
それはかなり大きな変化だった。
外へ出すか、閉じるか。
その二択ではなくなった。
灰白亭から出ていく以上、灰白亭の線を持ったまま出せる。
その感覚が、ようやく手に入ったのだ。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、なんて書こう」
「帳面か」
「うん」
「……」
少しだけ考えてから、恒一が言った。
「この宿の味は、ここから渡す」
「……」
ミアはその言葉を一度心の中で転がすように受け取った。
「いい」
やがて彼女は言う。
「かなりいい」
「そうか」
「うん」
「じゃあ書け」
「書く」
帳面を開く。
新しい頁に、ゆっくりと書く。
この宿の味は、ここから渡す
書いてから、ミアはしばらくその字を見た。
朝の粥。
夜の皿。
持ち帰りの壺。
巻き布。
乾燥菜。
全部が少しずつ、この宿の外へ出ていく。
でも、灰白亭そのものはここに残る。
その線を持ったまま渡す。
それが今の、この宿のやり方だった。
夕方、返ってきた壺を見ながら、ミアは小さく笑った。
「……なんか、前より怖くない」
「何が」
恒一が聞く。
「渡すこと」
「うん」
「全部じゃないって、ちゃんと決めたからかも」
「そうだな」
恒一は鍋の蓋を少しだけずらした。
まだ少しだけ湯気が残っている。
その湯気は、前ならここで終わっていた。
今は違う。
壺に入り、布に包まれ、人の手を通って、街の朝へ渡っていく。
でも、その始まりは必ず灰白亭の鍋だ。
「……これでいこう」
ミアが言った。
「うん」
「全部は渡さない」
「うん」
「でも、ちゃんと届くようにはする」
「それでいい」
その答えに、もう迷いは少なかった。
灰白亭は、今日また一つだけ前へ進んだ。
広がるためではなく、残るために。
第四部「湯気の行き先を選ぶ」ここまでです。
読んでくださってありがとうございます。
灰白亭の味ややり方を、何を渡して何を残すのか―その線を少しずつ引いていくところまで書けました。
次はいよいよ最終部です。
引き続きよろしくお願いいたします。




