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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第53話】 ひと皿は、宿の外で変わる

 その日の市場は、妙に軽かった。


 雨でもない。

 暑すぎるわけでもない。

 ただ、人の動きが少し早く、声もどこか乾いている。


 朝の鍋を終えたあと、恒一とミアは苦香根の台へ向かう前に、屋台の並ぶ通りを少しだけ回っていた。


「……ねえ」

 ミアが小さく言う。


「何だ」

 恒一が聞く。


「あれ」


 通りの端、小さな焼き台の前に、見覚えのある土色が見えた。


 苦香根だ。


 薄く切って、何かの串焼きの脇へ添えている。

 香りは立っている。

 でも、立ち方が違う。


 強い。

 前へ出すぎている。

 苦香根の“あとに残る”感じが、ただの癖の強さに寄っていた。


「……」

 恒一は何も言わずに近づいた。


 屋台の若い男がこちらを見て、一瞬だけ目を逸らす。

 前に苦香根をそのまま煮て失敗していた、あの男だ。


「やってるんだな」

 恒一が言う。


「悪いかよ」

 男が言う。

「悪くない」

 恒一は答えた。

「ただ、だいぶ別物だ」

「……」

「苦香根って分かるようにしたかったんだろ」

「分かるか」

「分かる」


 男は少しだけ口を尖らせた。


「前みたいに地味だと、誰も気づかねぇ」

「……」

「だから、匂いを立たせた」

「その結果、前へ出すぎた」

「……」

「でも売れてるなら、それはそれで正解だ」


 若い男はそこで少しだけ黙った。


 否定されると思っていたのかもしれない。


「……お前んとこのみたいにはならなかった」

 男が言う。


「そうだろうな」

 恒一は答える。


「でも、こっちはこっちだ」

「それもそうだ」


 ミアはそのやり取りを横で聞きながら、少しだけ眉を寄せていた。


 屋台の皿としては、あれでも成立している。

 でも、灰白亭の苦香根とはもう違う。


 同じ食材。

 でも、別の出口。


 それは頭で分かっていた。

 でも、こうして実際に見ると少しざわつく。


「……ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「これ、ちょっと嫌」

「うん」

 恒一も頷いた。

「分かる」


 苦香根そのものを盗まれたわけじゃない。

 レシピを奪われたわけでもない。

 でも、灰白亭の外で、苦香根という食材の印象が少し別の方へ動く。


 その感覚は、思ったより落ち着かなかった。


 苦香根の台へ着くと、老婆はすぐに二人の顔を見た。


「見たかい」

 開口一番だった。


「見た」

 恒一が答える。


「早いわね」

 ミアが言う。


「市場は狭いからねぇ」

 老婆は鼻を鳴らす。

「一回誰かが使い方を見つけると、次は皆がそれぞれの都合でいじくり回す」

「……」

「でも、同じにはならない」

「そうね」

 ミアが言う。

「ならなかった」


 老婆は木箱を整えながら続ける。


「それが嫌かい」


 ミアは少しだけ黙った。


「……嫌っていうか」

「うん」

「落ち着かない」

「……」

「うちの皿だったものが、うちの外で別の顔になる感じ」


 老婆は、そこで小さく笑った。


「そりゃそうさ」

「どうして」

 ミアが聞く。


「食材ってのは、皿の中だけのもんじゃないからね」

「……」

「一回動き出したら、誰がどう使うかまでは止められないよ」


 その言い方は、残酷でもあったが正しかった。


 灰白亭が作ったのは、食材の出口だ。

 だが、出口を作れば、その先の行き先まですべては選べない。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「それでも、うちの苦香根は残ると思う?」

 老婆は少しだけ目を細めた。


「残るさ」

「……」

「だってあんたらは、苦香根を前へ出してるんじゃなくて、宿の夜に置いてる」

「……」

「屋台じゃ真似できない残り方だよ」


 その言葉に、恒一は小さく頷いた。


 そうだ。

 苦香根の皿は、食材だけで成立しているわけじゃない。

 食堂の空気。

 時間帯。

 旅人の腹具合。

 部屋へ上がる前の静けさ。


 それら全部の中に置いて、ようやく“灰白亭の苦香根”になる。


「でも」

 ミアが言う。

「全部の客がそこまで分かるわけじゃない」

「それもそうさ」

 老婆が答える。

「だからこそ、宿の方は崩すな」


 その一言は、短かったが重かった。


 帰り道、ミアはずっと少し黙っていた。


 市場のざわめきの中で、いくつかの屋台を目で追っている。

 苦香根の串。

 塩の強い焼き物。

 昼前の匂い。


「……ねえ」

 ようやく彼女が言った。


「何だ」

 恒一が聞く。


「前はさ」

「うん」

「渡せるものと、渡せないものって考えてたでしょ」

「うん」

「でも、渡したものって、その先で変わるんだね」

「そうだな」

「それ、思ったより怖い」


 恒一は少しだけ考えてから答える。


「怖いな」

「うん」

「でも、止められない」

「……」

「味を外へ出すって、そういうことでもある」

「……」


 その時、ベルノの屋台の前を通りかかった。


 今日は客が少し途切れていて、本人もこちらを見る余裕があった。


「暗い顔してんな」

 ベルノが言う。


「誰のせいよ」

 ミアが返す。


「俺じゃねぇ」

 ベルノは肩をすくめた。

「何見た」

「苦香根の串」

「……ああ」

「知ってたの?」

「そりゃな」

 ベルノは言う。

「この街、今それが一番話が早い」


 ミアは少しだけ睨んだ。


「面白い?」

「半分」

 ベルノが答える。

「もう半分は?」

「まあ、面倒だな」


 その返しが妙に正直で、ミアは少しだけ力が抜けた。


「……ねえ」

 ミアが聞く。

「何だ」

「こうやって外で変わるの、どう思う?」

 ベルノは少し考えてから言った。


「止められねぇなら、残し方で勝つしかないだろ」


「残し方」

「そう」

 ベルノは頷く。

「同じ食材を使ったって、“あれは灰白亭の方が残る”って思わせりゃいい」

「……」

「真似されないことより、比べられて残ることの方が強い」

「……」


 その言葉は、かなりベルノらしかった。

 一撃で腹を掴む屋台の人間なのに、残り方の話になると妙に本質を言う。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何」

「それ、かなり嫌だけど、かなり分かる」

「だろ」

 ベルノは笑った。

「面倒な話ほど、だいたいそうだ」


 灰白亭へ戻ったあと、ミアは帳面を開いた。


 しばらく迷ってから、静かに書く。


 渡したものは、外で変わる


 その下に、もう一行。


 だから、残り方を守る


「いいな」

 恒一が言う。


「ほんと?」

 ミアが聞く。


「かなり」


 ミアは少しだけ笑った。

 でも、その笑いは軽くなかった。


「ねえ」

「何だ」

「これ、ちょっと分かったかも」

「何が」

「外に出す怖さ」

「……」

「でも、それで全部閉じたら、うちの鍋も狭くなる」

「そうだな」

「だったら」

 ミアは帳面を見る。

「閉じない。でも、残り方は守る」

「……」

「それが今の灰白亭なんだね」


 その答えは、かなり今の宿らしかった。


 壺も、布も、やり方も、食材も。

 外へ出れば少しずつ変わる。

 でも、それでもなお灰白亭として残るものを持つ。


 それが、残る宿の強さなのだろう。


 食堂には、夜の仕込み前の静けさが少しだけ降りてきていた。

 苦香根の匂いは、もう市場だけのものではない。

 でも、灰白亭の夜に置かれた時の残り方は、まだここにしかない。


 そのことが、少しだけ頼もしかった。

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