【第47話】クルトの条件、灰白亭の条件
クルトがまた灰白亭へ来たのは、前回から五日後の昼だった。
朝の鍋は終わっている。
壺もひと通り出切り、食堂は昼の静けさに戻っていた。
帳場の前では、ミアが返ってきた壺の布を外して分けている。
持ち帰り用の布。
店内用の布。
返却時にほどけやすかったもの。
洗い直しても匂いが残るもの。
前ならただの片付けだった。
今はもう、立派な宿の仕事だった。
「いらっしゃいませ」
ミアが顔を上げる。
「こんにちは」
クルトはいつもの穏やかな顔で頭を下げた。
「少し、時間をいただけますか」
前より、遠慮の仕方が薄い。
用件があると分かっている顔だ。
「今日は何の話?」
ミアが聞く。
「前回の続きです」
クルトが言う。
「“今はまだ”とおっしゃっていたので」
恒一は厨房からそれを聞きながら、小さく息を吐いた。
来ると思っていた。
しかも、今回はただ探るだけじゃない。
条件を持ってくるはずだ。
「座って」
ミアが言う。
「どうも」
クルトが席へ着く。
ミアも帳場から離れて向かいへ座った。
恒一は少し後ろの位置で立ったまま聞く。
「で」
ミアが言う。
「今回は何を持ってきたの」
クルトは、前より少しだけ具体的に話し始めた。
「全部は預かりません」
「……」
「黒麦も豆も、全部うちを通せとは言いません」
「へえ」
ミアが少しだけ目を細める。
「代わりに、絞ります」
クルトが続ける。
「乾物、保存用の塩漬け、持ち帰りに向く包材」
「……」
「そのあたりだけなら、うちで安定して回せます」
「包材?」
ミアが聞く。
「布です」
クルトは答えた。
「壺に巻く布。熱を逃がしにくく、手に持ちやすいもの」
「……」
そこは、ちょうど灰白亭が今困っているところだった。
リナの布。
持ち帰りの温度。
返却された壺の使いやすさ。
やり方が見られるようになった今、そこを先に押さえに来るのはかなり商売人らしい。
「安くなる?」
ミアが聞く。
「まとめれば」
クルトが答える。
「今のばらばらの端切れよりは、揃えた方が回しやすいでしょう」
「……」
「それと、持ち帰り向けに少量の乾燥菜も付けられます」
「乾燥菜?」
「朝の鍋に使うなら、水分の調整が利きやすい」
「……」
言っていることは、かなりまともだった。
しかも今回は、鍋の芯そのもの――黒麦や豆――にはまだ触れていない。
外側から入ってくる。
その慎重さが、逆にうまい。
「ねえ」
ミアが言う。
「何ですか」
「それ、うちにかなり都合よく聞こえるんだけど」
クルトは少し笑った。
「都合よくしてますから」
「……」
「だって、受けてもらわないと意味がないでしょう」
その素直さは、前回より少しだけ信用できた。
でも、信用できることと、すぐ受けていいことは別だ。
「恒一」
ミアが聞く。
「何だ」
「これ、どう思う」
恒一は少し考えてから答えた。
「前よりは悪くない」
「前よりは?」
「うん」
恒一は言う。
「全部の鍋を握る話じゃない」
「……」
「宿の外で使う部分から来てる」
「……」
「そこはうまい」
クルトが、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「褒めてない」
恒一は即答した。
クルトは少しだけ笑った。
「でも、見てはいるでしょう?」
「見てる」
ミアはそのやり取りを聞きながら、帳面を開いた。
そこへ短く書く。
鍋の外側から来る提案
「……」
しばらく黙ってから、彼女は顔を上げた。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「もし受けたら」
「はい」
「うちは何を渡すことになるの?」
「……」
クルトはそこで初めて少しだけ真顔になった。
「継続です」
「継続?」
「ええ」
「包材と乾物を一定量以上はうちから取ってもらう」
「……」
「大きな利益じゃなくてもいい」
「……」
「でも、“灰白亭はうちとつながっている”状態を作りたい」
その言い方で、ようやく本音の形が見えた。
金だけではない。
灰白亭とつながっているという事実。
それが市場の中で価値になるのだ。
「なるほどね」
ミアが言う。
「“うちが支えてる宿”が欲しいんだ」
「言い方としては、そうです」
クルトが答える。
そこで食堂が少し静かになる。
悪いことではない。
でも、軽いことでもない。
つながるということは、外から見た時に一緒に数えられるということだ。
「……ねえ」
ミアが言った。
「何ですか」
「もしそれを受けるなら」
「ええ」
「こっちの条件もある」
クルトの目が、少しだけ細くなる。
「聞きましょう」
ミアは帳面の新しい頁を開いた。
「まず」
「……」
「鍋の芯は渡さない」
「……」
「黒麦、豆、端肉。そこはうちで見て買う」
「……」
「預けるのは、その外側だけ」
「包材や乾物ですね」
「そう」
ミアはさらに言う。
「それと、仕入れ量はこっちが決める」
「……」
「“これだけ取ってください”じゃなくて、“今の灰白亭に必要な分だけ”」
「……」
「あと」
少しだけ間を置く。
「いらなくなったら切る」
クルトは少しだけ黙った。
驚いたのだろう。
宿の娘がここまで条件を出してくるとは、たぶん思っていなかった。
「ずいぶん強いですね」
彼が言う。
「宿の人なので」
ミアが答えた。
前より、かなりその台詞が自然だった。
宿を守るための線引きとして、ちゃんと使えている。
「……悪くない」
クルトがぽつりと言う。
「ほんと?」
ミアが聞く。
「ええ」
クルトは頷いた。
「全部を受ける宿より、長く付き合うならその方が安全です」
「……」
「それに、今の灰白亭はたぶんそういう宿でしょう」
「どういう宿?」
「ちゃんと選ぶ宿です」
その言葉は、かなりよかった。
何でも受けるのではなく、
見る。
試す。
切る。
残す。
それはたしかに、灰白亭がここまで積み上げてきたやり方だった。
「じゃあ」
ミアが言う。
「今すぐ全部じゃなくて」
「はい」
「布から」
「……」
「あと、乾燥菜を少しだけ見せて」
「少しだけ」
「そう」
「うまくいかなかったら?」
「切る」
ミアが即答する。
クルトは少しだけ笑った。
「分かりました」
「うん」
「その条件なら、こちらも乗れます」
「……」
そこで、食堂の空気が少し変わった。
受けるか、断るか。
その二択ではない。
線を引いた上で、一部だけ受ける。
それはかなり、今の灰白亭らしい進み方だった。
「ねえ」
ミアが言う。
「何ですか」
「これ、協力って言っていいの?」
クルトは少し考えた。
「ええ」
それから答える。
「ただし、依存ではない形の」
その言葉をミアはかなり静かに受け取った。
依存ではない形の協力。
それは、この宿が今ちょうど欲しかった答えに近い。
「……ねえ」
ミアが帳面を見ながら言う。
「何だ」
恒一が答える。
「今の、ちょっと好き」
「何が」
「全部断らなくていいけど、全部渡さなくてもいいってやつ」
「……」
「それ、かなり宿っぽい」
恒一は少しだけ笑った。
「そうだな」
クルトが立ち上がる。
「では、布と乾燥菜の見本を持ってきます」
「お願い」
ミアが答える。
「でも、鍋は変えないから」
「分かっています」
クルトは少しだけ笑った。
「そこを変えない宿だと、今日よく分かりました」
扉が閉まる。
静かになる。
ミアは帳面を開いたまま、しばらく動かなかった。
「……ねえ」
「何だ」
「ちょっとだけ、怖くなかった」
「何が」
「協力」
「……」
「前は、“受けたら全部取られる”って感じがしてた」
「うん」
「でも今は、“線を引いたまま受ける”もあるんだね」
「ある」
恒一が言う。
「だから条件が要る」
「……」
「で、今日はちゃんと出せた」
「うん」
ミアは小さく頷いて、帳面に一行だけ足した。
受ける前に、線を引く
「いいな」
恒一が言う。
「かなり?」
ミアが聞く。
「かなり」
その返事に、ミアは少しだけ笑った。
灰白亭は今日、また一つだけ外とつながった。
でも、自分たちの鍋を手放さない形で。
それは派手ではない。
けれど、この宿が残るためにはかなり大事な一歩だった。




