【第43話】灰白亭の外で、灰白亭を守る
その朝、灰白亭の食堂は少しだけ遅れて落ち着いた。
鍋は空になっている。
持ち帰りの壺も、今日は多めに出た。
しかも、返却された壺のうち三つは、口の縁へ新しく布が巻かれて戻ってきた。
「……これ」
ミアが壺を見ながら言う。
「何だ」
恒一が聞く。
「うちで巻いた布じゃない」
たしかにそうだった。
色も質も違う。
よく見ると、布屋で切り落とされた端切れをうまく巻いて使っている。
リナだろう、と二人ともすぐに分かった。
「持ちやすくしたんだな」
恒一が言う。
「こっちで先にやりたかった」
ミアは少しだけ悔しそうに言う。
「でも、助かる」
「そうだな」
壺は宿の道具だ。
でも、いったん外へ出れば、使うのは街の人間だ。
宿の中だけで正解を決めても、外で本当に使いやすいとは限らない。
その当たり前のことが、最近の灰白亭ではいちいち新しい。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「私たち、まだ店の中で考えすぎてるのかも」
恒一は壺をひとつ持ち上げ、巻き布の具合を確かめた。
「それはあるな」
「うん」
ミアは頷く。
「持ち帰りが増えてから特に」
「……」
「壺は外で使われる」
「うん」
「朝粥は現場や店の裏で食べられる」
「うん」
「だったら」
ミアは少しだけ考えてから言った。
「宿の外の使い方まで見ないと、宿の中も整わない」
その言葉は、かなり第3部らしかった。
灰白亭の外で起きていることが、結局は灰白亭の鍋へ返ってくる。
今はもう、それがはっきり見え始めている。
朝の片付けが一段落したあと、二人は市場へ向かった。
今日は仕入れより先に、会う相手がいた。
リナだ。
布屋の裏手で、彼女は帳簿と荷の間に挟まれながら動いていた。
朝より忙しそうだが、こちらに気づくと少しだけ手を止める。
「早いね」
リナが言う。
「壺の布」
ミアが開口一番で言う。
「あれ、ありがとう」
リナは少しだけ目を丸くした。
「あ、気づいた?」
「気づくわよ」
ミアが壺を持ち上げる。
「かなり助かる」
「ならよかった」
「なんで巻いたの?」
「うちの親方が熱いって言ってたから」
「……」
「でも、布巻いたら持ちやすかった」
「そうね」
「だから、どうせ毎日使うならこっちの方がいいかなって」
ミアは少しだけ黙った。
悔しいわけではない。
でも、店の外で先に答えを出された感じがして、少しだけくすぐったいのだろう。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何」
「今度から、持ち帰り用の布、ちゃんと分ける」
「うん」
「色か、手触りで分かるようにしたい」
「それ、いい」
リナが言う。
「急いでる時、壺だけだと熱いの分かんないし」
「……」
「外で使うなら、見た目でも分かった方が楽」
「なるほど」
ミアはすぐに帳面へ書きつけた。
「持ち帰り用、布を変える」
「仕事早いね」
「宿の人なので」
「最近ほんとそれ好きだね」
その会話を横で聞きながら、恒一は少しだけ思った。
こういうのだ。
宿の外で拾った答えを宿の中へ持ち帰る。
その往復が、灰白亭を少しずつ強くしている。
そのあと、二人はドノヴァンの現場へも寄った。
休憩前の時間で、まだ手は動いている。
ペトルが先に気づいた。
「また来たんですか」
「また来た」
ミアが言う。
「今日は何です?」
ペトルが聞く。
「ちょっと見に」
恒一が答える。
ドノヴァンは木材を置き、水をひと口飲んでからこちらへ来た。
「どうだ」
恒一が聞く。
「何が」
ドノヴァンが返す。
「朝の粥の持ち」
「……」
「前より昼まで楽か」
「楽だ」
ドノヴァンは短く答えた。
「でも、暑い日は少し重い」
「……」
恒一とミアが同時に反応する。
「暑い日?」
ミアが聞く。
「今みたいな日はまだいい」
ドノヴァンが言う。
「でも、もう少し気温が上がると、朝の終わりにあれだけ腹へ入ると少し重い」
「……」
「悪いってほどじゃねぇ」
「うん」
「でも、働く前に“ちょうどいい”の位置は少し変わる」
それは、かなり大きい情報だった。
朝の粥は万能ではない。
季節や気温で、ちょうどよさが変わる。
「ねえ」
ミアが小声で言う。
「何だ」
「これも、外で聞かないと分かんないやつだよね」
「そうだな」
恒一も頷く。
宿の中では、出した時点で終わる。
でも、宿を守るには、その先でどう効いたかまで見なければいけない。
それは、料理というより運用に近かった。
「……」
ミアは少しだけ黙ってから言う。
「これ、外で聞くの、地味に大事だね」
「かなりな」
ドノヴァンが、二人の顔を見てぼそりと言った。
「店の中だけ見てても、飯は育たねぇぞ」
その一言は、職人らしく短かった。
でも、かなり核心だった。
市場へ戻る途中、ベルノの屋台の前を通る。
今日は客が少し途切れていて、本人も珍しく手を休めていた。
「よう」
ベルノが言う。
「よう」
恒一が返す。
「また外回りか」
ベルノはミアを見る。
「だんだん宿屋っぽくなくなってきたな」
「逆よ」
ミアが答える。
「宿屋っぽくなってきたの」
「どういう意味だ」
「店の中だけじゃ足りないってこと」
「……」
「壺の布も、粥の重さも、外で使われた時に初めて分かる」
「……」
「だったら、外を見ないと宿を守れない」
ベルノは少しだけ黙って、それから小さく笑った。
「いいじゃねぇか」
「何が」
ミアが聞く。
「やっと“守るために外へ出る”顔になってきた」
「……」
「前は、ただ市場を見てるだけだった」
「今は?」
恒一が聞く。
「市場を使おうとしてる」
ベルノは答えた。
「いい意味でな」
その言い方は、少しだけ嬉しかった。
競合で、別の正解を持つ屋台主。
でも、だからこそ、その一言には変な甘さがない。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これって、結局何なんだろうね」
「何が」
「店の外で動くこと」
「……」
「仕入れのためでもある」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
「うん」
「宿を守るために、外へ出てる感じ」
「……」
「なんか変」
「変か?」
恒一が聞く。
「うん」
ミアは小さく笑った。
「でも、かなりしっくりくる」
その言い方は、かなり今の灰白亭らしかった。
食堂の中だけに閉じた宿ではない。
市場と、壺と、現場と、配達の裏で、少しずつ鍋を育てている宿。
それは派手ではない。
でも、残る宿のやり方としてはかなり正しかった。
帳面を開く。
ミアは短く書く。
宿の外で、宿を守る
「そのまんまだな」
恒一が言う。
「今日はそれでいいの」
ミアが答える。
「かなり大事だから」
ベルノが横から覗き込む。
「いいな」
「でしょ」
「うん」
「かなり?」
ベルノは少しだけ笑った。
「かなりだ」
市場のざわめきは、前より少しだけ近く感じた。
怖くないわけじゃない。
面倒も増える。
でも、灰白亭の鍋はもう宿の中だけで育つものではなくなっている。
それをミアも恒一も、ようやく同じ言葉で掴み始めていた。




