【第21話】 市場の値段と、眠っている食材
翌朝の灰白亭は、いつもより少しだけ早く朝を終えた。
鍋はきれいに空になっている。
持ち帰りの壺も、一つ残らず出た。
ドノヴァンとペトルは仕事へ向かい、リナも二つの壺を抱えて市場へ戻っていった。ガドは「俺も市場ついていこうか?」と言って、即座に断られたあと、ぶつぶつ文句を言いながら去っていった。
食堂には、洗い終わった器の匂いと、鍋の底にわずかに残る豆の甘い香りだけが残っている。
「……終わった」
ミアが言う。
「終わったな」
恒一が答える。
「でも、今日から本番よね」
その言葉に、恒一は小さく頷いた。
第20話で決めた通りだ。
灰白亭は、朝に人を整え、夜に人を休ませる宿として立ち直る。
なら、その朝を支える仕入れをそろそろ場当たりから抜けさせなければいけない。
「帳面、持った?」
ミアが聞く。
「持った」
恒一は食材帳を軽く持ち上げた。
「そっちじゃなくて、金の方」
「それもある」
「大事なのはそっちよ」
「わかってる」
ミアは少しだけ呆れた顔をして、帳場の引き出しを閉めた。
「今日は“見る日”だから」
「買わないのか」
「買うけど、先に見る」
「……」
「今までは“足りないから買う”だったでしょ」
「そうだな」
「でもこれからは、“続けるために何をどこで買うか”を見る」
「宿の人っぽいな」
「今さら?」
二人は灰白亭の扉を閉め、市場へ向かった。
市場は、朝を過ぎたあたりから顔を変える。
朝いちばんは勢いだ。
売る側も、買う側も、声と足で動く。
けれど一段落した頃、市場には別の空気が流れ始める。
売れたもの。
残ったもの。
今日の値。
明日の不安。
そういうものが、少しずつ表へ出てくるのだ。
「……やっぱり、今日も灰色ね」
ミアが小さく言う。
「うん」
恒一も頷いた。
市場の通りには、相変わらず同じ匂いが流れている。
濃いタレ。
焦げた粉。
獣脂。
急いで腹を塞ぐための朝飯の匂い。
それは悪い匂いじゃない。
でも、どれも少しずつ似ている。
「ここってさ」
ミアが言う。
「食材はいっぱいあるのに、出口が少ないのよね」
「そうだな」
「黒麦は粥か固いパン」
「うん」
「豆は煮るだけ」
「うん」
「安い肉は塩辛くして終わり」
「うん」
「だから、全部同じ色になる」
恒一は少しだけ笑った。
「よく見てるな」
「見てなかったら宿なんかやれないわよ」
その言い方は、かなりよかった。
市場を半周し、まず黒麦を見る。
値は昨日と変わらない。
だが質はぶれる。
一番安い粉は、香りが弱すぎる。
一番高い粉は、今の灰白亭にはまだ重い。
「この真ん中」
恒一が言う。
「やっぱりそこ?」
ミアが聞く。
「朝粥に必要なのは、高級さじゃない」
「香りと腹持ち」
「そう」
「それが残るやつ、ね」
ミアは帳面へ書きつけた。
黒麦:中値/香りが残るもの/朝粥優先
次に豆。
割れの少ないものは少し高い。
安いものは煮崩れやすい。
でも夜の汁へ回すなら、そこまで神経質になる必要はない。
「これは二種類で見る」
ミアが言う。
「二種類?」
恒一が聞く。
「朝用と夜用」
「……」
「朝は形が残る方」
「うん」
「夜は多少崩れてもいい」
「いいな」
「でしょ」
ミアは少しだけ得意そうに言う。
「宿の人なので」
そこで、食材帳のページが淡く光った。
イーリスの文字が静かに浮かぶ。
――分類方針:妥当
――用途別仕入れは安定化へ有効です
「珍しく早いわね」
ミアが言う。
「今日は市場なので」
イーリスが答える。
「最近、この子も市場だと元気よね」
「得意分野なんだろ」
恒一が言う。
次に鳥の端肉を見る。
店主はいつものように箱を出したが、今日は明らかに質が揺れていた。
脂の多い部分と、筋ばかりの部分。
いい日の箱と、悪い日の箱。
「これ、同じ値段?」
ミアが聞く。
「同じだ」
店主が答える。
「でも、使い勝手は違うだろ」
「かなり」
恒一が言う。
ミアはしばらく考えてから、帳面へこう書いた。
鳥端肉:値段より箱の中身を見る
「いいな」
恒一が言う。
「昨日までなら、たぶん値段だけ見てた」
ミアが言う。
「でも今は、それだと鍋がぶれる」
「そうだな」
市場は広い。
でも、今日の二人は少しずつ見るべきものが揃ってきていた。
その時だった。
恒一の足が、自然に市場の奥で止まった。
「……やっぱり見るのね」
ミアが言う。
「見る」
恒一は答える。
通りの奥、日当たりの悪い角。
木箱に積まれていたのは、見慣れた土色の根だった。
苦香根。
もう初めて見る食材ではない。
灰白亭では、夜の皿として少しずつ形になり始めている。
だからこそ今日は、“見つける”のではなく、“どう流れているか”を見に来た。
店番の老婆が、二人の顔を見るなり鼻を鳴らした。
「また来たのかい」
「また来た」
恒一が答える。
「今日は少し高いよ」
ミアがすぐに反応する。
「なんで?」
「見に来るのが増えた」
老婆は木箱を指で叩いた。
「前は誰も気にしなかったのに、最近は“それ、どう使うんだ”って聞いてくる」
「……」
「買うやつはまだ少ない。でも、良さそうなのから減るようになった」
恒一は箱の中を見た。
たしかに前より、太さの揃ったものが減っている。
香りの残りそうなものは少なく、黒ずみの強いものが目立った。
「動いてるな」
恒一が小さく言う。
「動いてるわね」
ミアも頷く。
「これ、うちのせい?」
老婆は肩をすくめた。
「全部じゃないさ。でも、あんたらが皿にしてから、少なくとも“ただの売れ残り”じゃなくなった」
その言葉は、思っていたより重かった。
灰白亭はまだ小さい。
一軒の宿にすぎない。
それでも、使い方ひとつで、市場の食材の見られ方が少し動く。
ミアが帳面を開く。
苦香根:既に流れが動き始めている
良品から減る
前みたいに“安いから買う”は通用しない
「……これ、ちょっと怖い」
ミアが言う。
「うん」
恒一が答える。
「でも、見ないふりはできない」
「そうね」
「だから今日は、良いやつだけ抜かない」
恒一は箱の中へ手を入れた。
「中くらいのも混ぜる。使い道を分ける前提で取る」
ミアは少しだけ目を細めた。
「市場に読まれないため?」
「それもある」
恒一は答える。
「でも一番は、これからも続けるためだ」
老婆が、そこで少しだけ笑った。
「やっと買い方が商売人になってきたねぇ」
ミアは銅貨を出しながら言う。
「宿の人よ」
「同じようなもんさ」
苦香根の袋を受け取る。
前と同じ食材。
でも、前と同じ買い方ではもう守れない。
市場の朝はまだ灰色だった。
けれど、灰白亭の湯気は、その灰色の一部をもう動かし始めていた。




