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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第9話 無彩災の街と、色を失くした恋人たち

 北西の交易都市は、地図の上では賑やかに見えた。

 三本の街道が交わり、川が湾曲して港へと注ぐ。穀物の倉庫と染物工房、香辛料の市場、旅籠。そこに来れば、誰でも少しは豊かになったと昔は言われた。けれど今、門番の顔には色がない。肌の色ではなく、表情の温度が抜けている。私に向けられる問いも、台帳の墨も、乾いたまま音を立てない。


 門の内側に一歩入ると、目が戸惑った。

 白と灰と薄い茶色だけで街が成り立っている。露店の果物箱は丸く、重みもあるのに、赤も緑もない。魚屋の桶に浮かぶ鱗は光らず、花屋の鉢は形だけを主張する。匂いが消えている。市場でいちばん先に届くはずの香りが、どこにもいない。人の声はあるが、言葉の端に乗る感情が滑って落ちる。笑い声が笑いにならず、怒鳴り声が怒鳴りにならない。声の形だけが通りを往復する。


「記録士の方ですか」

 灰いろの外套の女が、薄い声で話しかけてきた。袖に市役所の印。

「はい。北西局から回されました。無彩災の詳細と、発生地点の案内を」

 女は頷き、道の真ん中を歩いた。人々は自分の影に足を合わせるみたいに、互いを避けて進む。肩が触れても、誰も振り返らない。振り返ったほうが疲れる、と体が知っているようだった。


 市役所の広間にも色はなく、壁の掲示も線ばかりだ。

「三日前、最初の違和がありました」と女は紙をめくった。「魚の匂いが薄い、と店主が言い出した。翌日、色の抜けが目立ち、食べ物の味が消え、次に感情の伝達が鈍った。今日は、相手の存在を認識できても、温度が分からない、と住民たちは言います」

「けが人は」

「喧嘩は減りました。代わりに、店と家の行き来だけが増えました。怒らない街は、働くことに慣れてしまう。けれど、何かが崩れている」

 女は窓の外を見た。広場の中心に、古い時計塔。針は正しく動いているように見える。鐘は定刻に鳴る。鳴っているはずだが、音には重さがない。


「発生源は、時計塔周辺と見ています」

 女の声が小さくなった。「そこに、二人の若者がいる。婚約者同士でした。昨日まで、広場の端で向かい合って立つだけだったのが、今日は塔の階段で動かなくなっている。互いに言葉を交わしているのに、届いていません。どちらも、相手の温度を掴めないらしい」

「名前は」

「カイとマリナ。染物工房の娘と、時計職人の見習いです」


 私は頷き、羽ペンのキャップを外した。

 魔導文字はここでは派手に光らない。光は色に寄り添うから。代わりに、紙の繊維が正直に震える。震えが頼りになる場所で、私はよく書ける。


 時計塔へ向かう道は、昔の祭の名残の旗で飾られていた。旗は淡い灰のまま風に揺れ、意味を持たない揺れだけが広場を掃く。階段の一段目に、若い男が座っている。髪は淡い茶。瞳は灰に沈む。彼は私に気づくが、表情は変わらない。変えようとするほうが傷つく、と知ってしまったひとの顔。


「カイ?」

 声をかけると、彼はゆっくり頷いた。

「君が記録士。話を聞く。いや、話しかける。届かないけど」

「届かない、とは」

 彼は塔の中を指さした。扉は半開き。内側の冷たい空気が階段に座る彼の膝を撫でる。

「中にマリナがいる。階段の踊り場。ここから話せば返事はある。言葉は言葉の形をして戻ってくる。でも、温度がない。俺の声は俺の声で、彼女の声は彼女の声なのに、温かくも冷たくもない。凍ってもなく、燃えてもいない。ただの音。彼女の存在が、光らない」

「触れましたか」

「触れない。俺の手は彼女の肩の手前で止まる。ここに、壁があるみたいに」

 彼は空中で指を止めた。指先の前に、色のない薄膜が在る。見えないのに、確かに邪魔をする。


 塔の中へ入ると、少しだけ色が戻った気がした。

 白と灰の間に、薄い青が滲む。塔の石は冷え、階段は急だ。踊り場に、女の人影。マリナだ。肩までの髪。染物工房のエプロンの形だけが残っている。色は抜け、染料の匂いは消えた。彼女は私を見て、うなずいた。うなずくという動作に、感情は落ちない。落ちない仕組みが今はここにある。


「マリナ。私はリュミエール。記録士です」

「記録士。書く人。あなたの筆で、何が戻るの」

「分かりません。見ます。聞きます。書きます」

「書くと、痛い?」

 彼女の問いは急に幼い。

「痛いときもあります。でも、今日は痛くないほうがいい」


 踊り場と階段の境目に、薄い揺らぎがある。

 目を細めると、そこに細い線が走っているのが見えた。魔導回路に似た痕跡。白亜の書庫で見た結界の節に似ている。薄い、けれど確かに塔の中心へ向かう線。王都の「平穏化の儀」の副結界が、ここで暴走しているのだろう。都市の時計塔に信号が送られ、時刻とともに感情の振幅を鈍らせる。戦のときに誰かが仕掛け、戦の終わりに誰も外さなかった。外し忘れた副結界が、今になって、街ごと色を奪っている。


 私は階段に紙を広げ、羽ペンを握った。

「カイ。マリナ。あなたたちの間にあるものを、私の紙に地図にします。地図にすれば、見える。見えれば、渡れることがある」

「地図」

「感情の見取り図。あなたたちがこれまで通ってきた道。幼い頃の記憶、初めて手を繋いだ冬、市場で分け合った甘いパン。思い出すだけでいい。私が書きます」


 マリナが一歩、揺らぎの手前まで下がった。

「幼い頃。川で遊んだ。カイは泳げないふりをして、わたしを笑わせた。わたしは染料の染みだらけで、母に叱られた」

 私は、川、泳げないふり、染料の染み、母の叱責、と短い言葉に切り分け、線で繋いだ。線と線の間に、小さな丸。そこで笑いが生まれた印。

 カイの声が上から落ちてくる。

「冬。市場の隅で、屋台の湯気に指を伸ばした。手袋を忘れて、俺は彼女の手を自分のポケットに入れた。手が冷たかったのか、俺の心臓が早かったのか、分からない冬」

 私は、冬、湯気、手袋の忘れ物、ポケット、鼓動、と書き、矢印を波線にした。波線は、言葉が形を探すときの線。

 マリナが続ける。

「甘いパン。半分こ。砂糖が指についた。わたしが舐めたら、カイは顔を真っ赤にして逃げた。追いかけた。人混みの中で、手を離したくなくて、強く握った」

 私は、甘いパン、砂糖、逃げた、追いかけた、握った、と書いて、握ったの文字に丸を二つ重ねた。丸が重なる箇所は、熱が残る。残った熱は、色のない街でも、紙の上なら温度を持ちやすい。


 書き続けるうちに、紙の上に街路のような線ができる。河岸、冬の市場、工房の裏庭、雨の日の軒下。二人の歩いた足跡が、言葉の形で並ぶ。並んでいるのに、今の二人はそこへ入れない。だから私は、紙から塔の床へ、薄い糸を引いた。魔導文字の細い糸。見取り図の丸と丸を、床の揺らぎに向けて結ぶ。結んだ端に、インクの点を置く。点は小さい。小さいが、塔の中心へ向かって、わずかに光った。


「これで、触れられる?」

 マリナの声が震える。私は首を振る。

「まだ足りない。あなたたちの今朝の言葉を」

「今朝」

 彼女は目を閉じた。「ここまで走ってきた。昨日の夜、カイの家の灯りが灰になっていて、怖くなった。今朝、塔で会う約束をしていないのに、足が塔へ来た。カイが階段の下にいた。私は踊り場に立って、同じことを言った。『好き。あなたのことを好き。』」

「俺も言った」とカイが上から続ける。「好きだ。好きだけど、今は温度がない。この言葉に温度が戻るまで、ここにいる」

 私は、好き、温度、と二語だけを書き、二つの文字の間に空白を作った。空白は、埋めるためにあるわけではない。空白は、声が響くための空だ。そこに、反転の鍵を挿せる。裏表紙が静かに熱を帯びる。私の指は、まだ鍵に触れない。触れずに、紙の空白へ指先だけを置く。置いた指の下で、インクが呼吸をした。


 塔の針が、一瞬だけ遅れた。

 遅れというより、躊躇。躊躇は針の仕事ではない。けれど、躊躇がここでは必要だ。躊躇があるから、別の選び方ができる。副結界の節が、紙の糸の先で揺れた。私はそこで、裏表紙に軽く触れた。見えない紋が指先に重なり、地図の空白にゆっくり影が落ちる。影は黒ではない。色のない街の影なのに、温度を持つ薄い影。影と影が重なり、好きの語の間に、細い線が一本通った。


 マリナが、呼吸を飲み込む音を立てた。

「カイ」

 彼女の声が、階段を降りた。降りるというより、近づいた。距離の問題ではない。彼の胸の手前の見えない壁が、薄くなった。カイの指が空中で止まっていた位置から、ほんの少し進む。壁が逃げる。逃げた壁の向こうに、彼女の肩の温度がある。高くない。低くない。冬の市場でポケットの中にあった手の温度。

「マリナ」

 カイの声が、熱を取り戻すのに時間はかからなかった。彼は自分の声だと確認できた瞬間、喉の奥がほどけた。

「好きだ。温度がある。今、ある。ここで」

 彼の指先が彼女の肩に触れた。触れた途端、塔の針が、また一度だけ遅れ、次に、きちんと進んだ。鐘は鳴らない。鳴らさない。鳴らすには早い。けれど、広場の空気が色にやさしくなった。露店の布の端が、薄い青に戻る。果物の皮に、少しだけ赤が滲む。匂いはまだ戻り切らないが、湯気に甘さが混ざる。


 二人は泣き笑いした。

 涙は頬の半分ではなく、顎の線まで落ちた。落ちた涙が、塔の石をやさしく濡らす。濡れたところに、灰ではない影ができる。影は細く、しかし確かだ。

 私は紙の上で、最後の線を引いた。地図の端から端へ、彼らの今朝の言葉を通す線。

「これで、あなたたちは自分で辿れる」

「辿る」

 マリナが繰り返す。「忘れたら、また思い出す」

「思い出せる」

 カイが頷いた。「だって、ここに道がある。道に温度がある」


 塔の内側の揺らぎは、完全には消えない。

 副結界は、まだ塔の奥に残る。街全体の色は戻りかけで止まり、匂いは部分的だ。私は裏表紙から指を離し、息を吐いた。私の反転の鍵は、街全体を救うための術式ではない。私が起動できるのは、人と人の間に引く細い橋だ。橋を渡るのは、彼ら自身。渡って戻って、また渡る。繰り返しの中で、街の節は少しずつ角度を変える。王都で学んだ数式では説明できない。けれど、耳と指では確かに分かる。


 外へ出ると、空に薄い雲がかかっていた。

 広場の端で、女の売り子が布を広げている。青に戻りかけた布を、彼女は静かに撫でる。撫でる手に、少し力が戻っていた。市場の隅の屋台では、湯気が列を描く。行列は短い。短いが、並ぶという行為が戻っている。並ぶ人の背に、互いの距離の温度がある。温度があると、人は前へ進みやすい。


 市役所の女が走ってきた。走るという行為に迷いがないのは久しぶりなのだろう。

「どうしたの。色が」

「全部は戻っていません」

 私は首を振った。「時計塔で、二人の道を結びました。街の節に少しだけ角度がついた。これから、市の中心から順に、人と人の間に小さな地図を作ってください。昔の噂話でもいい。誰かと誰かが同じものを食べた話でもいい。それを言葉にして、紙に置いて、広場に貼る」

「貼るだけで」

「貼るだけで、思い出す人が増えます。思い出した人の温度が、次の人の温度になる。結界は弱っている。弱っているからこそ、人の側からも手を伸ばせる」

 女は頷き、頬に手を当てた。「頬が熱い。久しぶり」

「熱は悪くない」

 私は微笑んだ。「熱があると、人は眠れる。眠れたら、朝に歩ける」


 カイとマリナが塔から出てきた。

 二人は手を繋いでいた。手の繋ぎ方は不格好で、強すぎず、弱すぎない。彼らは私の前で立ち止まり、言葉を選ぶ。選ぶという行為に時間がかかるのは、丁寧な証拠だ。

「ありがとう」とカイ。

「あなたが書いたもの、わたしたちで持っていく」とマリナ。

「持っていく先は、二人で決めて」

 私は見取り図の紙を二つ折りにして渡した。街の誰かが迷ったとき、道を尋ねるように、これを渡せばいい。紙は重くない。重くないものは、遠くへ行ける。


 日が傾くと、広場の影は長くなった。

 影の線に、薄い色が戻る。影に色が戻るというのは、奇妙だ。けれど、影にも温度はある。温度があるものは、色を持ちやすい。私は宿に戻る道で、紙屋に寄り、安い紙を束で買った。市役所の掲示板に貼るための空白だ。空白は誰のものでもない。誰でも埋めていい。埋めたあと、また空白に戻せばいい。


 夜、宿の机で、私は記録帳を開いた。

 今日の見取り図の端に、短い行を足す。

「感情は奪えない。奪われたように見える夜があるだけだ。取り戻すのではなく、思い出す。」

 書いたあと、私はしばらくペンを持ったまま、窓の外の通りを見た。猫が塀を歩き、子どもが眠り、誰かが静かに笑う。笑い声は小さい。小さいが、温度がある。温度のある声は、壁に当たっても消えない。壁の向こうにいる誰かの耳に、遅れて届く。


 明け方、露が路地の石に降り、薄い光を持つ。

 この光に、名前を付ける必要はない。名はあとから追いついてくる。名前を付ける前でも、私はこれを覚えていられる。覚えていられるのなら、次に会う誰かに、同じ光の話をできる。話せば、誰かが思い出す。思い出した人の目に、色が戻る。


 私は記録帳を閉じた。裏表紙の紋は眠っている。

 鍵は、使わない夜があっていい。使わない夜に、言葉は静かに太る。太った言葉は、次に必要な場所で、少しだけ長く燃える。燃えた跡は、黒ではない。色のない街で見た、薄い影の色だ。


 窓を半分だけ開けると、遠くの屋台から甘い匂いがした。

 戻りきっていない匂い。けれど、思い出せる匂い。

 私は小さく笑って、宿の廊下を降りた。

 今日の朝食のパンが甘ければ、街の朝は昨日よりも長く続く。

 甘くなくても、紙がある。紙に道がある。

 道があるなら、人は歩ける。


 色は戻った。――思い出したから。

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