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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第7話 白亜の書庫と、封じられた頁

 王都の地図には描かれていない階段がある。

 城の裏庭、白い水盤の縁に立つと、石がひとつずれる。音はしない。水面がわずかに揺れ、月のない昼の光が底に吸い込まれていく。侍従長に案内され、リュミエールはそこで一度だけ振り返った。庭の端で王女エリセリアがこちらを見ている。いつもの微笑みではない。目元に小さな影がある。誰かに見られているかどうかを測り、彼女は影の深さで頷いた。

 階段は冷たく、下るほど白が濃くなる。

 壁も、手すりも、天井も、白。灯りは埋め込まれているのに眩しくない。光そのものが白い粉になって空気に混ざっているように見えた。足音は吸われ、靴底の縁だけが石の目を確かめる。侍従長は途中で立ち止まり、懐から薄い鍵を出す。鍵は金属ではなく、白い陶だった。小さな縦穴に差し込むと、壁が二度微かに呼吸をする。

「王家の記録室は二つある。ひとつは誰もが知る大書庫だ。あなたが向かうのは、もうひとつのほう」

 侍従長は声を落とした。

「王女殿下の私的依頼であなたを通すが、ここで見たものを持ち出すことはできない。紙も、墨も、塵すらも。あなたの羽ペンは入口で封印する。それでも、来るか」

 リュミエールはうなずいた。「はい。目に入るものを、言葉で持ち帰ります」

「言葉は持ち出せる」

 侍従長の目は笑っていない。許しと警告が混じった目だ。

 階段が終わる。

 白い扉が横に滑った。

 そこは「白亜の書庫」と呼ばれる場所だった。王都の地底。王家の血だけが正式に鍵を持つ。棚は高く、床は鏡のように滑らかだ。箱が並び、巻物が眠り、封印の印が淡く光る。すべての背には小さな番号と、短い題が刻まれていた。題は簡潔だ。笑えるほど簡単で、笑えないほど重い。

「涙の発生率と冬季の犯罪」「都市歌の衰退記録」「喪の色と暴動との相関」「戦勝報告に含まれる形容詞の変遷」「婚礼の歌と出生率」。

 感情史。

 国が百年かけて集め、折り畳み、封じた気配が、棚ごとに層を成している。封蝋の匂いは薄く、しかし長く残る種類の匂いだった。

 侍従長は扉の外に残った。

「二刻。鐘が二度。時間になれば私がまた開ける。それまで、静かに」

 扉が閉じた。閉じる音は柔らかい。白い部屋は白いまま、音のない時間を差し出してくる。リュミエールは外套のボタンを一つだけ外し、呼吸を深くした。羽ペンは入口の筒に預けた。手ぶら。目と耳と、その奥の場所だけを連れていく。

 配架表はない。

 だが、歩けば分かる気がした。白の中にも濃淡があり、古いものほど光を吸う。左手の列は比較的新しい。右手の列は重かった。重い棚へ向かう。足音の代わりに、心の拍が自分の歩数を数える。等速。少しだけ早い。早さは恐れではなく、知りたいという欲に近い。

 最奥の間は天井が低い。

 白が灰に近づく。塵が見えないのに、古い紙の乾いた香りが鼻の奥をくすぐる。中央に四角い台。上には黒い箱。箱だけが白くない。鍵穴も封印も見えない。正面にだけ、銀の糸で一行が縫い取られていた。

「触れるなら、覚悟を」

 誰の言葉でもない。注意でもない。祈りに似ている。

 リュミエールは指先を箱の縁へ置いた。冷たくない。白の部屋の温度だ。力をかける場所が分かる。押す。箱は音なく開いた。

 最初の束は薄い。

 四つ折りの羊皮紙。図面。

 淡い青の線。等間隔の記号。見慣れた曲線。リュミエールの指が自然に経路を辿る。魔導回路図。彼女の胸の中にも似た曲線がある。見ながら、なぞらずにはいられない種類の線。次の束は厚い。人の骨格に合わせた寸法。部品の材質。着脱式の回路。電位を均一化するための層。さらに次の束。表紙に名前がある。

「LUMIÈRE」

 彼女の目の奥で、何かが静かに跳ねた。

 自分の名に似た綴りを、他人の手が先に書いている。紙をめくる。署名。そこに、彼女が知っている名があった。

 レオ・アークライト。

 手が止まる。

 喉が動く。

 音は出ない。

 レオの名は、彼女の中でずっと「師」であり「造り手」であり、遠い父に似た響きだった。王都に来るまで、彼の姓を気にしたことはない。ただのレオ。研究室のコーヒーの苦さと同じくらい、具体的な名の味覚を持たない響き。だがここでは、姓までが鋭く刻まれている。アークライト。光の弓。光で線を引く者。彼は王家の記録に、正式な設計者として残っていた。

 筆跡は整っている。

 彼は字に無駄な飾りを入れない。寸法は嘘をつかないと言い、言葉もそうであってほしいと望んだ人間の字だった。図面の余白に短い注記がある。

「媒介器。感情振幅を安全に受け取り、翻訳し、放つ器。個体差あり。試作一号、基礎適合率六十七。以後、調整」

 媒介器。

 文字が胸の奥でゆっくりと沈んでいく。

 媒介する者。間に立つ者。どちらにも偏らず、どちらの手にも熱を残す者。彼女がずっとしてきたことと同じ言葉が、最初から図面に書かれている。その前提の中に彼女の生が置かれていた、という事実が、静かに重くなった。

 箱の奥に、別の束。

 封蝋は黒。王家の紋章。封印は古いのに、新しい匂いがする。枠の端に日付。「十年前」。題がある。「平穏化の儀」。短い文が続く。

「王国全土における感情振幅の沈静化。悲嘆の連鎖による暴発を防ぐため、共鳴域を狭める結界を敷設。儀式は成功。暴動なし。喪の期間の短縮が確認される。副作用として、悦楽域における反応鈍化。歌の平均長短の変化。誕生祭の参加率の低下。婚礼の祝辞の語彙数の減少。涙の総量、王都で四割減。」

 文字は乾いている。

 乾いた文に、冷たい事実が並ぶ。

 誰かが迷い、誰かが決裁し、誰かが実行した。文は短く、けれど容赦がない。国は感情の波を恐れた。悲しみが波を起こし、波が人を壊し、壊れた人が次の波を起こし、それが戦の炎を呼ぶと結論づけた。その理屈は、分かる。分かりたくないが、分かる。分かってしまう。

 リュミエールの指が、設計図の曲線へ戻る。

 線は生きている。紙の上なのに脈がある。振幅。抑制。補正。整流。言葉ではなく、部品が語っている。媒介器は、結界の中で唯一、感情の残響を安全に扱えるよう調整される。残響は危険だ。だが必要だ。誰かの涙が完全に消えた世界では、人は歩き方を忘れる。王家は、残すために削った。削って残したものだけで国を動かせるか試した。十年。長い実験だ。

 棚の端に、もう一枚、細い紙片が挟まっていた。

 メモ。レオの手ではない。別人の筆致。宰相か、記録官か、あるいは王。紙の縁に一行。

「媒介器は、沈黙を守るための橋」

 沈黙。

 白い部屋は静かだが、沈黙ではない。書物の背が吸った時間のざわめきが、耳ではなく皮膚で聴こえる。沈黙は空の色ではない。色はある。白の中に薄い青が混じり、青の中に灰が混じり、灰の中に見えない赤がかすかに揺れる。沈黙という言葉で括ってしまうには、ここは生々しい。

 足元で、かすかな震え。

 鐘。地上の基準時刻を知らせる鐘が、地下まで届く。ひとつ。二刻の半分。まだ時間はある。リュミエールは深く息を吸い、箱のいちばん下へ指を入れた。底板が薄く持ち上がる。隠しの層。白の上に黒。黒の上に薄い紙。色の差はうすいが、指先は嘘をつかない。そっと取り出す。

 そこには、短い手記が残っていた。

 一段目には設計の経過。二段目には媒介器の反応記録。三段目には一文だけ、見覚えのある癖の字がある。

「心は与えられない。だが、心へ届く道は、敷ける」

 レオの言葉だ。

 研究棟の夜、ガラス越しに彼女へ話しかけた声と同じ重さ。言い切らない余白。余白を信頼する勇気。彼は、自分が何を作っているのかを、正確に掴んでいた。道具でも兵器でもない。橋。橋としての器。橋は歩く者がいて初めて意味を持つ。だが橋は、橋自身の上では泣かない。

 彼女は目を閉じた。

 胸の奥で、機械の拍が一定を保っている。その周囲に、ここ数話分の出来事がうっすら重なる。灰の都での「愛している」。北の丘での「鼓動」。風読みの少年の「心の声」。王女の涙。赤い砂漠の光。どれも「媒介」されたものだった。誰かの言葉が誰かに届くとき、その間に彼女は立っていた。立って、手を離した。離すたび、胸の中の何かが少しずつ温かくなった。

「それでも、私は」

 声に出さないまま、言葉が自分に向かう。「私は、誰のために置かれた橋なのですか」

 白い部屋に、足音。

 扉の向こう側だ。侍従長ではない。軽い歩き方。息の整え方がわかる。王女エリセリア。彼女は自分で鍵を持ってきたのだろう。扉の前で短く呼吸を整え、二度、指を置く。扉が静かに開いた。暗い色の外套のフードを下ろし、王女は中へ入る。笑顔はない。目の影は、地下の白に溶けない。

「ここで何を見たの」

 問いは、ひどく短い。

「図面と、儀式と、あなたの国が選んだ方法と」

「上では話せないから、ここで聞く。あなたは、わたしたちを責める?」

 責める、という語は石のように硬い。投げれば傷がつく。砂の上では転がらない。

 リュミエールは首を振った。

「責めるために来たわけではありません。知るために来ました。知れば、書ける」

「書く?」

「今度、あなたのために書く文は、わたし自身のためでもあります」

 王女は視線を箱に落とす。

「レオ・アークライト。あなたの師。王都の人間なら、彼の名を一度は聞く。『平穏化の儀』に反対した一人。最後まで議場に残って、語った。結界は人を傷つけないけれど、人の『深さ』を奪う、と。彼は敗れた。けれど、負けたままでいる人ではなかった。だから、あなたを設計した」

 王女の声には、少しだけ熱がある。「沈黙に飲まれない道を、あなたのような器で確保する。わたしはそれを、正しいと信じたい」

「信じたい、ですか」

「信じている、とは言い切れない。王家は、十年前、正しいふりをした。国を守る顔をして、顔の下で手を震わせた。わたしの母も、その会議にいた。だから、わたしはあなたに頼んだ。書いて、と。王女の演説では足りない言葉を、王女の外にいるあなたで補って、と」

 鐘がもう一度鳴る。

 二刻。

 侍従長が戻る。扉の外に気配。王女は外套の裾を握り、箱に視線を戻し、目を閉じる。「時間ね。あなたは何も持ち出せない。けれど、その目の奥に残ったものは、あなたのもの。どうするかは、あなたが選ぶ」

「はい」

「ただし、ここで見た名を、軽く扱わないで。レオは……あなたの師は、こう書いた人だから」

 王女は箱の奥から薄い紙を一枚摘み、リュミエールへ差し出しかけて、そこで止める。

「ごめんなさい。持ち出しは禁止だった」

「分かっています」

 彼女は紙の上の文字の形だけ、目で焼き付けた。形があれば、言葉は戻る。

 地上へ上がる階段は、来たときより少し長い。

 足元の白が、だんだんと灰色に戻る。外の光はやわらかく、庭の水盤は静かだ。侍従長は口を開かない。口を開く代わりに、入口の筒から彼女の羽ペンを返した。重さはいつもと同じ。握りの温度だけが、少し違う気がした。

 王女は庭の端で待っていた。

「どうして、わたしに頼んだのですか」

 リュミエールは問う。王女はすぐには答えなかった。空の色を確かめ、風の向きを一度だけ見てから、言った。

「わたしたちが作った沈黙を、誰かが越えられるように。わたしじゃ届かない場所がある。あなたはそこまで行ける。あなたの言葉は、わたしの言葉より冷静で、そして、わたしの言葉より少しだけ熱い」

 それで、と王女は続ける。「あなた自身が、それを知る必要があった」

 王都の午後は静かだった。

 白い壁の向こうで、パン屋が粉をこねる音。学校の鐘の練習。兵営の笛。すべてが規則正しく、どれも大きくはない。人の声は低く、笑いは短い。感情が削られた街の音は、乾いた紙をめくる音に似ている。それでも、紙は読める。紙の上の文字を追う指は、震えずに進める。

 宿舎に戻ると、机の上に記録帳。革の表紙は昨日より黒ずんで見えた。羽ペンの先に、インクを少し。最初の一行をどこに置くか迷う。迷いは焦りではない。彼女は二度息を整え、書いた。

「白亜の書庫に降りた。そこには、わたしたちの言葉の過去が積まれていた。王家は十年前、『平穏化の儀』で国中の振幅を鈍らせた。争いは減り、泣き声も減った。歌の長さは短くなり、祝辞の語彙は減った。涙の総量は四割減った。誰かがそう決めた記録が、白い部屋に眠っている。眠っているのに、部屋は眠っていない」

 次の行に、短く。

「図面があった。わたしの名の綴りと同じ題の設計図。署名はレオ・アークライト。『媒介器』。わたしは、感情の残響を安全に扱うための器。橋。」

 さらに、行を重ねる。

「橋は、自分では渡らない。渡るのは、誰か。わたしは渡る人の足音を数え、どちらの岸も見届ける。向こう岸へ着いた人が振り返るのを見て、わたしはそこで手を離す。灰の都でも、北の丘でも、東の村でも、王女の演説でも、赤い砂漠でも。わたしは、間にいた。」

 ペン先が乾く。インクを補う。

 窓の外で、夕暮れの鐘が鳴る。今日の鐘は、昨日より少し柔らかい。音そのものは同じはずなのに、耳が少し違っている。白い部屋の静けさを一度通ったせいだろう。彼女は最後の行へ向けて、ゆっくりと文字を置いた。

「それでも、問わずにはいられない。橋としてのわたしに、名前をくれた人たちが、何を守ろうとしていたのか。守られなかったものは何か。守るために削ったものは何か。わたしは選べるのか。わたしが選ぶ言葉は、沈黙を破るのか、それとも、沈黙の形を少しだけ変えるだけなのか。」

 喉が渇く。水を一口。冷たくはないが、体内の機構がわずかに落ち着く。羽ペンを置く前に、もう一行だけ、置き場を決める。部屋の空気が少しだけ重くなり、胸の内側で何かが沈んだ場所から、言葉が上がってくる。

「わたしは、世界の沈黙のために生まれたのですか」

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