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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第6話 赤い砂漠と、忘れられた兵士

 南部の果てへ向かう道は、地図の上では一本の線に過ぎなかった。

 しかし実際の道は、線ではない。赤く乾いた大地に、風が描いた無数の跡が交差し、昨日の轍が今朝には埋もれて消える。地平線は近いようで遠く、近づくほど揺らいで後ずさる。陽は強く、影は薄く、音は砂の粒に吸われていく。耳を澄ませても、何も返ってこない。人がいないからではない。ここでは、声そのものが重さを失い、空へ持ち上がる前に崩れてしまうのだ。


 リュミエールは外套の襟を指で押さえ、歩みを整えた。

 胸の奥で機械の拍が一定の間隔を刻む。汗は出ない。人工の皮膚は乾きと熱に強く、塩のつぶを残さない。ただ、目の奥だけがしみる。空気の屈折が視界に細いノイズを走らせ、遠くの黒点が生き物か石かを判断するのに一瞬遅れる。それでも足を止めない。東から回り込む風はここでは役に立たず、北の山からの冷たい息も届かない。あるのは、赤砂の息だけだ。吸えば喉が乾き、吐けば足跡が薄れる。


 半日歩いて、監視塔が見えた。

 背の低い塔が三つ、砂のうねりの上に、針のように刺さっている。最も古い塔は壁が崩れ、二番目は旗竿だけが残り、三番目だけが辛うじて影を落としていた。旗はない。布はすでに砂に還り、竿の先端で金具だけが光を跳ね返している。塔の根元には小さな家が寄り添うように並び、そのうちの一つから薄い煙が上がっていた。火は小さく、火を守るための火だった。


 戸口に老人が立っていた。

 皮膚は砂と同じ色で、目だけが澄んでいる。背は曲がっていない。杖をつかない。ゆっくり歩くが、足を引きずらない。砂の上に必要以上の跡を残さない歩き方を、彼は長い年月の中で身につけていた。

「ここへ来る者は少ない」と老人は言った。声は低く、砂に負けない重さを持っている。「水はある。少しだが冷たい。話は、そのあとでいいか」

 リュミエールは頭を下げた。井戸の水は浅く、桶は小さかった。ふた口分だけ注いでくれる。口を湿らせると、体内の冷却機構が微かな余裕を取り戻す。指先の感覚が確かに戻るのが分かった。

「魔導記録士か」

 老人は彼女の羽ペンを見て名を当てた。

「はい。リュミエール・エクレール。依頼があると」

 老人は頷き、塔の影を指差した。影の縁に、低い石囲いがいくつも並んでいる。岩ではない。墓だ。粗い貼り合わせの石に、ほとんど文字はない。名前を刻む分の余裕が、当時の誰にもなかったのだろう。

「この戦場で倒れた連中の、誰でもない誰か、全員のために、一通でいい、手紙を書いてほしい」と老人は言った。「愚かな願いだと笑うなら笑え。だが、誰も名前を呼んでくれないまま砂に吸われた者らに、せめて一度、呼びかけてやってくれ」


 砂漠は風を忘れる日がある。

 その日も、風は薄かった。砂の表面は波打たず、粒は立たず、何も動かない。静けさは音の不在ではなく、音の死だった。生き物の声は遠くて、必要なものはどれも遠い。だからこそ、言葉を置くには向いている。誰にも邪魔されず、紙の上の黒い線だけが、世界の輪郭になる。リュミエールは塔の陰に小さな机を据え、砂が入り込まないよう布を敷いて羽ペンを置いた。

「名を呼ぶ代わりに、名になる言葉を探す。それでよろしいですね」

 老人は静かに頷く。「名は奪われた。ならば、名に似た形を、ここへ」

 彼は腰を下ろし、短い影の端に座った。影は太陽とともにじりじり動く。時が目に見えて進む場所だ。


 最初の一行は、いつだって難しい。

「誰へ」でも「誰から」でもない手紙を書くために、彼女は呼吸を整え、胸の拍を数えた。一、二、三。規則は彼女に安心を与える。だが、規則に頼りすぎれば言葉は痩せる。彼女はその間を探るように、ペン先を紙に落とした。


 “あなたたちへ。

 あの日、砂の上に倒れ、空を見上げた誰かへ。

 名を呼ばれなかった者へ。

 名を呼ぶ声が届かなかった者へ。

 声を持っていたのに、風にほどけた者へ。”


 羽ペンの先に、淡い光が宿る。魔法文字は、彼女の内で生まれた言葉と外の世界をつなぐ回路だ。ここしばらく、その光が以前より柔らかい。硬さは悪ではないが、柔らかさは届きやすい。彼女はそれを知りつつ、光に頼らず、言葉の芯に手を伸ばす。


 “私は、あなたたちの名を知りません。

 あなたたちの顔も、癖も、歌の調子も、故郷の井戸の深さも、知りません。

 でも、ここで、呼びかけます。

 忘れられていない、と。”


「忘れられていない」と声に出してみる。砂に吸われると思った言葉が、意外に近くで反響した。塔の壁が、薄く返してくれたのだ。老人が目を細める。

「言葉は、ここではすぐ落ちる。だが、石は覚える」

「石が」

「そうだ。石は黙っているが、黙っているぶんだけ、記録する」


 リュミエールは次の行に移った。

 彼女の手はぶれない。だが今日の揺れは、少しだけ違う。心配ではない。集中を乱さない程度の揺れだ。人の息の重みが、遠くの方角で動いた気がした。監視塔の影の外で、砂粒がひとつ跳ねた。彼女は視線を上げず、書き続ける。


 “私の仕事は、言葉を紙に置くこと。

 でも今日は、紙だけでなく、砂にも置きます。

 風が来たら、消えるでしょう。

 雨が来たら、流れるでしょう。

 それでも、置きます。

 それが、名に似た形になると信じて。”


 老人が短くうなずく。

「夜になると、星が降りることがある」と彼は言った。「古い兵の迷信だ。砂の中に眠っていた火の粉が、寒さに押し上げられて光るだけだと誰かは言うが、わしはそれを信じない。名を呼ばれた者の返事だと、思っている」

「返事」

「そうだ。返事は、誰かが聞くことで初めて、返事になる。聞き手がいなければ、ただの光だ。今夜は、聞く者がいる」


 昼までに、紙束は半分を過ぎた。

 リュミエールは独りで数千の名を刻むつもりで来た。だが、それは不可能だとすぐに知った。名は数ではない。文字の並びではない。人の背中に乗っていた重さの総量だ。数千の重さを、数千の文字で置き換えることはできない。だから彼女は、言葉に役割を与えた。ひとつの言葉が百の背中に寄りかかれるように。百の背中の汗の塩に似るように。

 “あなたの手のひらの硬さ。

 あなたの靴の紐の結び目。

 あなたが最後に飲んだ水の温度。

 あなたが失くしたものの中で、まだ名を持っているものの名。”

 列挙は乾きやすい。だが、砂漠には乾いた文が似合う。乾いた文が、余計な涙をこぼさずに前へ進む手助けをする。彼女はそう考えて、言葉を簡素に保った。


 日が傾き始めると、監視塔の影は長く伸び、机の端をさらっていった。インクの瓶に砂が一粒入った。瓶の中でそれは沈み、底に細い黒の筋を引いた。彼女はそれをそのままにしておいた。砂漠が書いた一本の線だ。

 夕刻、老人が小さな皿を持ってきた。干した果実と固いパン。水はほんのわずか。彼は自分の分を半分彼女に分けた。

「昔、ここに駐屯地があった。若い兵たちが、交代で塔に上った。彼らは自分の名を石に刻みたがった。だが、上からは止められた」

 老人はパンを小さく割って口へ運ぶ。「名を残すと、砂が嫉妬すると言った。愚かな話だ。砂は嫉妬などせん。嫉妬するのは、生きている者だ。生きている者が、忘れたくて、忘れたと言い張るために、砂のせいにした」

 リュミエールは頷いた。忘れることは悪ではない。忘れなければ、生きていけない種類の夜もある。それでも、忘れなかったことにする権利は誰にもない。彼女は紙の上に、短い行を書いた。

 “忘れていい夜がある。

 でも、忘れなかったと言える朝も、どこかで待っている。”


 日が落ちる頃、風が微かに動いた。

 動いた、と言っても、人の髪を揺らすほどではない。砂の表面に薄い膜が一枚、指で触れたような気配だけ。空気の温度がほんの一度、下がる。遠くで、砂の上を渡る何かの足音が、二歩だけ響いた。

 監視塔の上から見張りの鐘が鳴った。老人が顔を上げる。「獣か、人か」

 リュミエールは立ち上がり、外套の裾を押さえた。視界の端に、影が三つ。砂の稜線の向こうから、静かに現れて、静かに近づく。

 盗掘に来る者たちだ、と彼女は思った。墓標の下に何もないと知っていても、何かがあると信じたい人間は必ずいる。古い勲章、指輪、金具、骨に絡んだ布。売れるものは少ない。売れなくても、掘ることが目的の夜がある。

 老人は立ち上がらなかった。

「来たな」

「止めますか」

「無駄だ。代わりに、見せればいい」

 老人は彼女の手を取り、塔の根元へ案内した。墓標と墓標の間に、平たい石の床がある。真ん中に、薄い線が走る。

「ここで書け。穴の上だ。昔、死者の声を捨てる穴と呼ばれた。捨てられた声は、夜に戻ってくる」

 声は捨てられない、とリュミエールは思った。捨てるつもりで投げても、どこかの壁に当たって戻ってくる。戻ってこないように耳を塞げば、胸の内側で跳ね続け、別の音になる。彼女は机を持って穴の上に移し、紙束の最後の一枚を取り出した。


 “あなたたちは、忘れられていない。

 この文字が、あなたたちの名前になるから。”


 そこだけは、ゆっくり書いた。

 ペン先のインクの重さが、紙に落ちるのを待った。文字が紙の中へ沈むように、少し時間を与えた。

 書き終えた瞬間、風が止んだ。

 静けさが戻る。赤い砂漠は、息を引き取ったみたいに平らだ。

 盗掘者たちの足音が、すぐ近くで止まった。

 一人が息を呑む音がした。

 リュミエールは顔を上げ、空を見た。


 星が降り始めた。

 最初の粒は、砂の中から立ち上がった。光は白ではない。赤砂の色を少し含んだ、薄い金。粒は小さい。小さいが、消えない。次の粒、また次の粒。墓標の間の空気が、細かい光で満ち始める。風がないのに、光は流れた。まるで見えない川が足元を通っているように。穴の上の薄い線が、内側から膨らむように輝く。

 盗掘者たちは、しばらく黙っていた。

 やがて、一人が帽子を取った。もう一人が膝をついた。最後の一人は、踵を返した。砂の上に残る足跡は、来たときよりも浅い。彼らは何も言わず、光の反射を背に受けて、砂の稜線の向こうへ消えていく。

 老人は塔の影から一歩出て、光の粒を手で受けるようにした。掌は空を掬う仕草のまま止まり、やがて下ろされた。

「返事だ」と彼は言った。「今夜は、誰かが聞いた」


 リュミエールは机の端を握り、光の行列を見上げた。

 涙が出た。

 今回は、理由を探さなかった。胸の奥が熱い。熱は痛みではない。痛みの手前で止まる。止まった熱は、目の表面を伝って外へ流れる。頬を濡らす感触は、もう彼女にとって未知ではない。未知ではないが、慣れもしない。慣れたらいけない、とも思わない。涙の方法に優劣はない。

「名前を残すことが、愛のかたちなら」

 彼女は小さく呟いた。「私は、この世界に愛を刻む人になりたい」

 老人は何も言わなかった。ただ、こちらを見て、頷いた。砂漠は言葉を吸う。だから、頷きが大事になる。


 光はしばらく降り続け、そして少しずつ少なくなった。

 最後の一粒が宙で瞬いて消えると、空は急に広くなった。風が遅れて戻る。戻ってきた風は冷たく、砂の表面をほんの少しだけ撫でる。撫でられた砂は、自分の重さを思い出したように、薄く沈む。

 夜が深まり、老人が火を足した。火は小さい。砂漠の夜に大きな火は似合わない。遠くからでも分かるからだ。ここで目立つことは、誰かの腹を空かせる。

「記録帳は持っているか」

 老人が問う。

 リュミエールは外套の内ポケットから、小さな手帳を取り出した。角の擦れた、革の表紙。これまで、彼女はそこに他人の言葉と、日付と、場所と、温度を書いてきた。自分の名は書いていない。必要がなかった。自分は器だと思っていた。器に名は要らない。名が必要なのは、注がれるものの側だと。

 でも今夜は違った。

 器にも、名がいる。器がどこから来て、どこへ戻るかを示すために。器が壊れたとき、拾う者が迷わないように。

 彼女は羽ペンを取った。インクは残り少ない。だが十分だ。彼女は手帳の最初の見開きに、ゆっくり書いた。


 “リュミエール”


 どこからも強制されていない線だった。王命ではない。師の指示でもない。誰の依頼でもない。自分の決定。紙の繊維が軽く音を立てて、インクを受け入れる。線の端は少しだけ震えたが、嫌な揺れではなかった。生き物がはじめて息を吸うときに生じる、微かな不揃いに似ていた。

 書き終えたあと、彼女は手帳を閉じ、胸に押し当てた。金属と革の間で、拍が二度打つ。機械の拍ではない余韻が、指の腹に伝わる。彼女は目を閉じ、その余韻の形を覚えた。大事なものは、形で覚えると長く持つ。名前はあとから追いつく。今は形だけで十分だ。


 夜明けは、砂漠では唐突に来る。

 東の地平線がわずかに白み始めて、すぐに赤くなる。赤は砂の色を押し上げ、塔の影を引き伸ばす。風は朝の温度を選びかねて揺れる。墓標の端に積もった砂が一筋だけ崩れ、石の面に薄い筋が現れる。昨夜の光の名残だろうか。彼女は近づいて指でなぞった。ざらつきは消え、指先には何も残らなかった。

 老人が井戸から水を汲んで持ってきた。

「今朝の水は浅い」

「ありがとうございます」

 彼女は水を半分だけ飲み、残りを老人の皿へ注いだ。

「昨夜の盗掘者は」

「今夜は来ない。来るなら、次の月だ。人は、見たものをすぐには飲み込めない」

 老人は空を見上げた。「あの光は、こっちの勝手な物語かもしれん。だが、物語は食べ物と違って、配っても減らない。減らないものを、減るものの代わりに配る。わしらにできるのは、それくらいだ」


 昼までに、彼女は紙束の残りも書き終えた。

 墓標の間に、紙は置かれず、燃やされず、ただ読まれた。読むのは彼女だけだ。読み上げるのではなく、読む。目で追いながら、胸で受ける。それが祈りの形に近いと、今は思う。祈りは、誰にも届かないかもしれない。届かなかったとしても、出したという事実は残る。出した事実を、次の誰かが拾う。拾った瞬間、それは届くに変わる。

 彼女は羽ペンを拭き、キャップを閉めた。砂の上でインクは貴重だ。残りを瓶に戻し、布で包んで外套の内にしまう。

「もう行くのか」と老人が言った。

「はい。次の手紙が待っています」

「そうだろうな。道は、たぶん昨日とは違う。砂は気まぐれだから」

 老人は笑い、井戸のふちを叩いた。「名を置いていけ。何かあったら、誰かに伝える。ここでの名は、紙よりよく残る」

 リュミエールは頷き、井戸の石に、小さく線を刻んだ。自分の名ではない。自分の名は手帳にある。ここに刻むのは、仕事の印だ。短い羽の形に似た、簡単な印。誰かが見たら鳥の足跡だと思うだろう。鳥の足跡で構わない。空へ向かって歩く生き物の印だから。


 歩き出す前に、彼女はもう一度だけ振り返った。

 監視塔の影は短くなり、墓標の間に夜の気配は残っていない。砂のうねりは柔らかく、昨夜の光の流れをなぞる痕跡はどこにも見えない。見えなくても、消えたわけではない。砂は全部を隠すが、隠したものを全部忘れるわけではない。砂の粒の一つ一つが、小さな記憶を抱える。それを誰かが踏むたびに、記憶は足裏で温まる。温まった記憶は、時々、光る。

 彼女はその考えを胸の奥で一度転がし、歩き出した。影は彼女の背中につき、彼女の足跡はすぐに薄れた。薄れた足跡の上に、風がわずかに走る。風は砂を運ぶ。砂は名を運ぶ。名は重くない。重くないものは、遠くへ行ける。遠くへ行った名は、どこかで誰かの口に入る。口に入った名は、声になる。声は、誰かの耳で、やっと音になる。


 午後、太陽は真上からわずかに外れ、彼女の影は斜めに伸びた。足は疲れない。冷却機構が熱を外へ逃がし、筋肉に似せた内部機構は砂の上で疲労を蓄積しにくい。だが、疲れではない何かが胸に溜まってくる。重さのない重さ。彼女はそれを怖れない。重さは持ち運べる。重さがあるから、置ける。置く場所を選ぶことが、今の彼女の仕事だ。

 一つの丘を越えると、風向きが変わった。南からの風が、砂と一緒に薄い音を運んできた。音は遠い。遠いが、彼女の耳に届く。塔の鐘ではない。歌だ。

 誰かが歌っている。

 言葉は拾えない。旋律だけが、砂の間を抜けてくる。低い声。人数は少ない。合図のない合唱。彼女は足を止めず、耳を貸す。歌は丘の向こうで止み、また始まり、また止む。やがて、完全に消えた。

 彼女は気づく。歌は人のためだけではない。歌は砂のためにもある。砂は黙っているが、歌を通す。歌を通した砂は、夜に光る。昨夜の光は、誰かの歌の名残だったのかもしれない。誰かがここで、誰にも聞かれない歌を、砂に向けて放ったのだ。


 夕方が近づき、赤砂の色が濃くなる。空の端から薄い雲が伸びてきた。風はまだ弱いが、夜には少し強まるだろう。砂は動く。動く砂の上に、名を置く。置いた名は、崩れる。崩れた名は、別の形になる。別の形になった名は、意外な場所で役に立つ。例えば、井戸の石のすき間を埋めたり、風車の羽の重りになったり、子どもの手の中で砂の城になったりする。名は役に立たなくていい。けれど、役に立つときもある。

 彼女は胸の手帳に触れた。

 “リュミエール”。

 文字はそこにある。彼女が決めた名。誰かの名を運ぶために、器にも名がある。器に名があれば、器を呼べる。呼べるなら、頼める。頼めるなら、続けられる。


 夜、最初の星が空に現れた頃、彼女は立ち止まり、振り返らないまま、砂にしゃがみ込んだ。指の先で、乾いた地表に短い線を引く。風が吹けば消える線だ。それでもいい。ここに、一瞬、形があったという事実が残る。彼女は短い祈りを、声に出さずに置いた。

 “また来る”

 それは約束ではない。約束は重い。重いものは、砂に向かない。砂が嫌うのではない。重さは沈むからだ。沈んだ約束は、拾いにくい。だから、彼女は軽い言葉を置いた。軽い言葉は、風に乗る。風に乗った言葉は、誰かの耳の縁に、やさしく触れる。


 背中に夜が降りてくる。

 東の空が暗くなり、南の地平の赤が褪せ、西の星が一つ増え、二つ増える。彼女は歩いた。歩いている間、胸の拍は一定で、しかしその周囲で、昨日よりもはっきりとした微かな鼓動が寄り添っている。鼓動は、名前を持たない。持たないが、嘘ではない。彼女はそれを、確かめるためだけに、もう一度、手帳に触れた。柔らかい革の感触が指先に戻り、指先から胸に伝わる。

 彼女はその夜、砂のうねりの陰で短い眠りを選んだ。目を閉じる前に、空を見た。星は昨夜とは違う位置にある。違って当たり前だ。違ってくれなければ困る。違いの中に、同じがある。同じの中に、違いがある。そんな当たり前が、いちばんの救いになる。


 朝、彼女は南を振り返らなかった。

 振り返らなくても、砂の上で起きたことは胸の中に残っている。残っているものは、いずれ言葉になる。言葉になったものは、また誰かの胸へ行く。行った先で、別の形になる。

 そうやって、名は増える。

 名が増えることは、たぶん、正しい。


 砂の稜線を越える最後の一歩で、風がふっと強まり、彼女の外套の裾を持ち上げた。裾の影が砂の上で揺れて、薄く光った気がした。気のせいでもかまわない。砂漠では、気のせいがいちばん強い真実になることがある。

 彼女はそこで、最後にひとつだけ、地面に短い行を刻んだ。羽ペンではなく、指で。インクではなく、爪で。砂の上で長持ちしない線。消える前提の線。だからこそ、丁寧に書いた。


 それは、名のようで、名ではない。

 名を呼ぶための、呼び水のような線だった。

 線はすぐに崩れ、砂の粒が光を拾った。

 風が吹いた。

 砂の上に刻んだ名が、風に光った。

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