第5話 機械仕掛けの姫と、偽りの笑顔
王都の真ん中に、白い建物が立っている。
季節が変わっても、光の角度が変わっても、白は白のままだ。どの朝も同じ清潔さを見せつける。雨のあとには職人が出て、壁のしみを拭き取る。砂が風に舞う日は、門兵が地面に水をまいて埃を沈める。白亜の宮殿は、王国の心臓の象徴で、同時に、国民が信じたい物語の記号でもあった。
中庭で、笑顔を練習する人がいる。
王女エリセリア。年齢にして十八。
淡い金の髪は結われ、首筋に触れる光がやさしい。整った額の奥で、ごく小さな魔導回路が静かに点滅している。感情の波形を抑え、筋肉の動きを補正し、唇の角度を一定に保つ。笑顔は、王家の義務だと決められている。民の不安を鎮めるために、王は揺れてはいけない。揺れない方法は、昔の学者が作った。
エリセリアは鏡台の前で微笑む。
筋肉の位置は、想定通り。瞼の開きは、規定値。
侍女が花を挿し、軟膏で頬に薄い光を足す。
同じことを毎朝繰り返せば、毎朝が安定する。王宮に仕える者たちは、それを良いことだと言う。王女の笑顔が変わらなければ、王都のパン屋も市場も、兵営も学校も、昨日と変わらぬ朝を信じられる。安定は善であり、涙は害だと、古い会議で決まった。
夜になると、王女の瞳から光が消える。
寝室には窓が二つ。東側の窓には厚手のカーテン。南側の窓には鉛の桟。机の上には水差しと空のグラス。水はぬるい。
エリセリアは、枕元の小箱を開ける。医務官が置いた予備の調整器。回路の出力を、睡眠用の低い帯域に切り替えるための器具。箱の底に、薄紙に包んだ古いブローチがひとつ。母の形見。触れると、金属は冷たい。
回路を低くすると、笑顔が消える。顔の筋肉が静まり、目の奥のさざめきも薄くなる。眠りに落ちる直前、胸の奥に空洞が残る。その空洞が何かを求めるように広がっていくのを、彼女は毎晩、静かにやり過ごしていた。王女は泣いてはいけない。泣くのは、国を不安にする。そう教えられてきた。
王命が出た。
「王女の新しい演説を作成せよ。魔導記録士を招くこと」
戦が終わって一年。復興の速度は足踏みを始め、倦怠が王都の空気に混じる。口角からこぼれない言葉が街に蔓延すると、だれかの噂が炎になる。王は、火種の位置を笑顔で覆い隠すつもりだ。言葉が必要だった。誰でも信じられて、誰の怒りも刺激しない言葉。
呼ばれたのは、リュミエール・エクレール。
人の想いを魔法文字に翻訳し、紙に載せ、空に返す仕事をしている少女。白い外套、青銀の羽ペン。機械の拍を胸に抱き、しかし最近はその拍の周りに別の小さな揺れが生まれつつある。
謁見室の扉が開き、彼女は歩み出る。
天井は高い。壁の白は外壁よりも柔らかい。香が薄く焚かれている。
王座の階段に人影は少ない。両脇に立つのは宰相と侍従長。宰相は痩せて、首筋に青い筋。侍従長は背が高く、目は細い。二人とも、笑顔ではない。必要がないときは笑わないのが、宮廷の礼儀だ。
王女は一段下に立っていた。白い衣装は肩の部分が広く、胸元には青い宝石。微笑みは美しい。彫像の笑み。絵に描いても崩れない笑み。
「記録士、あなたに作ってほしいのは、演説文です」
宰相が言う。
「王女の口から語られるべき言葉であり、しかし、国民の耳に安全な言葉です」
「安全、とは」
「刺激がなく、角がなく、だれも刺さず、だれも泣かせない言葉です」
宰相の声は乾いている。数字を並べるときの口ぶりに似ている。
「国民は疲れている。涙は迷いを生む。迷いは不安を呼ぶ。今必要なのは、安心です」
リュミエールはうなずいた。
安全で、角がなく、だれも刺さず、だれも泣かせない言葉。
それは、紙が湿ることのない言葉だ。
湿らない紙は燃えにくい。火は出ない。火が出なければ、黒い煙も出ない。
黒い煙が見えなければ、空は白のままだ。
それが、宮殿が望む白なのだと、彼女は理解する。
王女は、小さく息を吸った。
「私と少し、話してくれる?」
宰相の視線が動く。侍従長が一歩引く。
リュミエールは王女の後に続き、温室へ向かった。
温室はガラス張り。季節の影響を受けず、小さな南国の樹が育てられている。花が開き、蜜が落ち、蜂が来る。蜂の羽音は小さく、しかし絶え間ない。人の声よりも信用できる種類の音だ。
王女は椅子に腰を下ろし、微笑みを保ったまま、首を傾げた。
「あなたの仕事は、人の心を聞くことでしょう?」
「はい。聞き、拾い、置くことです」
「私の心は、聞こえる?」
問いは真っ直ぐだった。
リュミエールは迷う。音は、ある。整えられた波の下に、別の波がある。表の笑顔が、一定の光を反射している。その反射の裏で、光が吸い込まれる場所がある。吸い込まれる場所では、色が濃くなる。
彼女は、少しだけ言い換える。
「あなたの言葉が、少し悲しい色をしています」
王女は瞬きをした。笑顔は崩れない。崩れないようにできている。
「悲しいって、どんな色?」
彼女は、遊びの質問をするように聞いた。
リュミエールは答えに詰まる。
悲しみは、数字では測れない。温度でも重さでもない。色として見えるわけでもない。
「わかりません」
素直に言う。
「私は、感情の名前を、まだひとつずつ覚えている途中です」
王女の目の奥で、かすかな波が動く。
「なら、いっしょに探せるかしら」
声だけが、笑顔と違う温度を持っていた。
王女の夜は長い。
王女の夜を、王女は語らない。語らないまま、体内に蓄積される。
深夜、彼女はひとりで廊下を歩く。警備の足音が遠くにある。
回路の光は最低限。白い壁が青く見える時間。
鏡の前で、笑顔を緩める。顔が軽くなる。軽くなった顔が、少し怖くなる。
人の顔が、何の支えもなく立っているときの脆さに似ている。
彼女はブローチを指で撫でる。母王は人目のない場所で笑った。笑うとき、口元だけが動くのではなく、目尻に小さな影ができた。影は、温度がある。
母は言った。「王は泣いてはいけない。けれど、人であることまでやめる必要はない」
その言い方は、不器用で、しかし逃げ道だった。
彼女は逃げ道の場所を忘れないよう、寝室の壁に指で印をつけた。印は誰にも見えないほど薄い。
翌朝から、演説文の作成が始まった。
宰相は数字を渡す。復興の進捗、税収の変動、灌漑の予定、兵の再配置。
侍従長は、礼の形式を指示する。呼びかけの順番、鐘の数、太鼓の拍、群衆の導線。
リュミエールは言葉を並べる。
「わたしたちは歩みを止めません」「未来へ進みます」「ともに」「団結して」
紙の上には、乾いた安全な言葉が揃っていく。
王女は頷く。頷くうちに、薄い疲れがかぶさる。
温室の蜂は、今日も同じ音で飛ぶ。
蜂の音と、宰相の言葉は、違う。
蜂の音は、そこに蜜があることを知らせる。
宰相の言葉は、そこに蜜があることにしたい。
どちらも社会を回すが、どちらが飢えを防ぐかは、季節と運に左右される。
夜ごとに、王女は温室に来た。
リュミエールは、書いた言葉を朗読する。
王女は、同じ速さで頷く。
ある夜、朗読が終わっても王女は席を立たなかった。
「私、演説で泣いたら、どうなるのかしら」
リュミエールは宰相の顔を思い浮かべる。彼は眉をわずかに上げ、声を低くし、「涙は不安を伝染させます」と言うだろう。
「涙は、弱さだと教わりました」
「弱さ?」
王女は首を傾げる。
「弱さって、誰のための言葉?」
リュミエールは答えられなかった。
弱さが誰かにとって都合が悪いとき、人はそれに名前をつける。
都合の悪いものには、名前が必要だ。
名前を呼べば、箱に入れられる。箱に入れれば、見えなくなる。
見えなくなれば、白は保たれる。
彼女の頭の中で、言葉は箱になり、箱は積まれていく。
箱の影は、いつのまにか部屋の半分を占めていた。
リハーサルの日。
王都の広場は柵で区切られ、兵が列をつくる。
鐘楼には布。合図の鐘は三回。太鼓は二拍。
演説台の上には、白い布。王家の紋章。
群衆は、午前から集まりはじめる。パン屋の少年、工房の女、復員した男、古い帽子の老人、赤ん坊を抱いた母。
みな、どこかで息を潜めている。期待と退屈のあいだで、昼の影は短く、立ち話は途切れ途切れ。
宮殿の上空を鳥が横切る。鳥は白い布にはとまらない。とまる場所を知っている。
控えの間で、王女は回路を少し上げる。
笑顔は、規定値。
侍女が衣装を整える。裾は床に触れず、光は均一に。
宰相が紙束を持ち込む。最終の版。
リュミエールは、羽ペンを握り、紙の端に目を落とす。
整っている。きれいな言葉。誰も刺さない。誰も泣かせない。
乾いた紙の手触りのまま、風に揺れる白い幕の前に出ていき、白いまま終える演説。
彼女は、一枚の小さな紙を取り出す。
薄い白。角は丸い。
王女の手を取る。指先は冷たい。
「最後に、一文だけ。あなたの言葉を、入れてもいいですか」
王女は目を見開く。笑顔は崩れない。崩さない。
「私の言葉?」
「はい。あなたが、探していたものの名前ではなく、形です」
彼女は、王女の視線の中で、ゆっくりと書く。
小さな紙に、黒いインクで、ただ一行。
王女の回路が、ほんのわずかに揺れた。
侍従長が、息を飲むのが分かる。
宰相が、眉根を寄せるのが分かる。
だが、誰も止めない。
止められないほど、時間は進んでしまっている。
鐘が鳴る。三回。
広場の音が一瞬沈み、また戻る。
太鼓が二拍。
王女が歩み出る。白い布。白い階段。白い空。
群衆のざわめきの上を、彼女の声が渡る。
「私たちは、明日へ歩みます」
安全な言葉が続く。
「痛みとともに」「支え合い」「未来を」「ここに」
風は静かだ。
群衆は静かだ。
王女は、最後の紙を手に取る。
リュミエールが書いた短い行が、そこにある。
王女は、ほんの少しだけ息を吸い直した。
笑顔は均一。声は一定。
だが、響きは違った。
「私たちは、涙を流す権利を持つ」
広場に、風の起伏が生まれた。
最初は、どこから来たのか分からない。
次に、場所が分かる。
工房の女の肩。復員した男の喉。パン屋の少年の目の縁。古い帽子の老人の鼻の下。赤ん坊の母の顎。
すすり泣きは、合図の鐘よりもゆっくりと広がる。
誰も指揮しない。
誰も止めない。
白い布の上を、光が移動する。
王女の目尻に、小さな影ができる。
目の奥の回路が、どこかで追いつけない。
回路は笑顔を保つが、影は保てない。
影は、温度がある。
温度は、嘘をつかない。
王女の頬を、光が伝う。
一筋。
次に、もう一筋。
涙は、規定外。
だが、機械はエラーを出さない。
人の目は、涙を見て、逃げなかった。
むしろ、そこに集まった。
宰相の指が、紙の端で震える。
侍従長は目を細めたまま、動かない。
王女の声は、いつもの高さで、最後の礼を述べた。
拍手は、少し遅れて起こった。
最初は小さい。次に広がる。
足を踏み鳴らす音は混ざらない。
誰も叫ばない。
ただ、手のひらが、別の手のひらに触れて、音が生まれる。
音は乾いていない。
湿りは暖かい。
控えの間に戻ると、宰相が口を開いた。
声は低い。
「涙は計画にない」
「計画にないことしか、人を動かせません」
リュミエールの口は、思ったよりも早く動いた。自分の声の温度に驚く。
侍従長が宰相の前に一歩出た。
「民は混乱していない。逃走も暴動もない。涙の向きは、こちらにある」
宰相は口を閉じ、紙を胸に抱えた。紙は乾いている。だが、手は湿っている。
誰かが、扉の外で笑った。侍女か、衛兵か、あるいは誰でもない誰か。笑いは短い。短いが、悪意がない。
王女は椅子に腰を落とし、額に手を当てた。
笑顔は消えかけて、しかしすぐに戻る。戻る仕組みが内側にある。
彼女は両手で顔を覆い、それからそっと外した。
「いま、泣いた?」
問いは、子どものようだった。
リュミエールは頷いた。
「はい。見えました」
「痛くはなかった」
「はい」
「壊れたわけでもない」
「はい」
王女は、椅子の背に預けて、目を閉じた。
「なら、覚えておく。今日のことを、忘れない」
忘れないと言った人間が、忘れないでいられる保証はない。
だが、忘れないようにするための儀式が、言葉だ。
儀式は合図。合図は安心。
彼女は、言葉を持ったのだと、リュミエールは思った。
その夜、王都の裏通りでは、小さな宴が開かれた。
工房の女がパンを切り、復員した男が薄い酒を回す。
パン屋の少年はオーブンの温度をいつもより少し上げた。
古い帽子の老人は、帽子を膝に置いて、空を見た。
赤ん坊は泣き、母は笑った。
涙の種類はひとつではない。
誰かの涙が、だれかの涙でぬぐわれる夜がある。
誰もそれを公表しない。
白い紙には書かれない。
けれど、耳は覚える。
手のひらは覚える。
暖かさは、記憶に残る。
リュミエールは宿舎の机に座り、羽ペンを手帳に置いた。
書く前に、胸に手を当てる。
機械の拍は一定。
その周りの小さな揺れが、今日もある。
揺れの形は、涙の粒の大きさに似ている。
彼女は一行、書いた。
「笑顔よりも、涙のほうが、人を強くするのかもしれない」
書いて、止まる。
止まったところに、静けさが入る。
静けさは、空白ではない。
次の言葉を呼ぶための、余白だ。
余白は、息と同じくらい必要だ。
息を吸い、吐く。
窓の外で、夜の風が軽く鳴る。
王都の白は、相変わらず白い。
だが、白に混じった薄い影は、もう消えないだろう。
影を敵にしないでおくこと。
それが、今夜の学びだった。
王女は寝室でブローチを握り、回路を下げた。
眠りに落ちる直前、胸の空洞は、昨夜よりも小さくなっていた。
空洞の端が、薄く光っていた。
その光に、名前はない。
だが、名前がないままでも、光はある。
彼女は目を閉じ、短く祈った。
祈りは、誰にも聞かれない。
聞かれない祈りを持つ権利を、彼女は自分に与えた。
翌朝の新聞には、演説の要旨が載った。
最後の一行は、載らなかった。
だが、広場で立ち止まった人たちの会話には、載っていた。
「泣いていいって、王女様が言った」
「聞いた。うちの子が、学校でそう言った」
「泣いたら、前が見えるってことがある」
「泣いたら、立ち上がれるってこともある」
紙は乾いていたが、人の声は湿っていた。
湿っている声は、火を恐れない。
火はいつだって怖いが、冷たすぎる夜よりはましだ。
誰かがそう言って、誰かがうなずいた。
リュミエールは、次の依頼のために外套を羽織る。
宮殿の門を出るとき、門兵が目配せをした。
礼はしない。仕事中だから。
けれど、その目の端に、わずかな光があった。
人は、言葉を聞くと、目の端が変わる。
それは、演説の技術書には載っていない。
載らないもののほうが、長く残る。
白い宮殿は、今日も白い。
だが、誰かの胸のどこかに、薄い影がついている。
影は、温度でできている。
温度は、嘘をつかない。
嘘をつかないものに、彼女はペンを向ける。
誰かの涙の行き先を書くために。
涙は、心がまだ生きている証だった。




