第4話 風読みの少年と、約束の詩
東へ向かう道は、思っていたよりも緩やかだった。
丘がいくつも連なり、草は低く、朝の風は潮の香りを薄く含む。灰の都や北の丘で嗅いだ鉄や石の匂いと違って、ここには水の気配があった。遠く、見えない海が息をしている。道の先に小さな村が見えはじめると、風は急に向きを変え、足元の草を同じ方向へなでていった。村の入口のしるしは木板一枚。焼け跡は少ない。けれど、静けさが深い。祭りを忘れたまま季節だけが巡ってきたような、遠慮がちな静けさだ。
村の境で、ひとりの老人が道を掃いていた。
「旅の人かね」と言う声は穏やかで、けれどよそ者を測る癖が残っている。
リュミエールは外套の裾を整え、短く名乗る。
「魔導記録士、リュミエール・エクレール。依頼を受けて来ました」
老人はうなずき、少し顔をしかめた。
「風読みの家だろう。あそこは東のはずれ、風車小屋の隣だ。人に見られたくなければ、裏道を使うといい」
人に見られたくなければ。
言葉の端に、小さな棘があった。歓迎でも拒絶でもない、長いあいだ溜めた躊躇の色だ。
村の家々は低く、屋根の藁は古いがよく手入れされている。広場の井戸の周りには誰もいない。洗濯物が風に鳴るたび、布の影が地面に落ちて、すぐにほどける。道沿いに、子どもが二人、石蹴りをしていた。彼らの視線が一瞬リュミエールの羽ペンに止まり、すぐに逸れる。よそ見をしたほうが安心する、そんな歩き方だ。
東のはずれ、風車小屋の帆が四枚、風を受けてわずかに軋む音を立てる。
その隣の小さな家の前で、少年が空を見ていた。髪は黒く短い。身体は細いが、立ち姿に弱さはない。耳を風に向け、目を細める。こちらに気づくよりも先に、風の音の変化に反応しているのが分かった。
「風読みの家を訪ねてきました」とリュミエールが声をかけると、少年は振り返り、少しだけ肩をすくめた。
「ぼくがリュウ。ここじゃ、それで呼ばれてる。あなたが記録士さん?」
「はい。リュミエール・エクレール。手紙の依頼、と聞きました」
彼はうなずき、家の中へ手招きした。床板は乾いて軽い音を返す。壁には風向計や古い地図、紙片が留めてある。風の道筋を写した線が幾重にも重なり、見慣れない譜面のように見えた。
「母さんに、手紙を書きたい」
リュウは机の端に両手を置き、言葉を揃えた。
「母さんは、ぼくの力を“神さまの贈り物”だって言ってくれた。風の流れに混ざる声を聴いて、遠くの嵐や、来るはずの使いの足音を教えることができれば、いつか村の役に立つって。でも、戦の夜、ぼくの言った“来る”は信じられなかった。皆が笑って、怖がって、そして……母さんだけが、ぼくの前に立った。その夜のことを、ちゃんと書きたい」
リュミエールは羽ペンを取り出し、机の上の紙を整えた。
「お母さんの名は」
「ハヅキ。誰ももう呼ばない名前。だけど、ぼくにはまだここにある」
リュウは胸を軽く叩く。音は細いが、はっきりしていた。
村の外から、人の気配がした。
のぞくというより、見張るような視線。風車の影の向こうに男たちが二、三人。外套の色は土の色。顔は見えないが、立ち方で分かる。彼らはここを見ている。聞いていないふりをしながら、聞いている。
「気にしなくていい」とリュウは笑ってみせた。「ぼくが話すと、風が騒ぐから。戦場の亡霊を呼ぶって言われる。風はただ、遠くの音を運んでくるだけなのに」
リュミエールはうなずき、ペン先をひそかに光らせる。
「あなたの言葉を、そのまま書きます。ここで、あなたの風を待ちます」
リュウは窓を開けた。風が一気に入り、紙が鳴る。外の帆が回転の角度を変えた。
彼は立つ位置を半歩だけ調整し、耳の向きを変え、目を閉じる。
「いま、北東。川の上に薄い霧。山から降りる気圧の線が、午後には村を撫でる」
独り言のように言いながら、彼は胸の奥の何かを呼び起こすように息を吸い、吐く。息にリズムが乗る。
「母さん、聞こえる?」
返事はない。
風の通り道だけが、すこしだけ硬い音を出した。
リュミエールは筆を走らせる。
“ぼくはここにいます。母さんがくれた名を、まだ持っています。あなたが言ったとおり、風は贈り物だと信じています”
文字が淡く光り、紙面を滑る。
“戦の夜、ぼくは確かに言いました。来る、と。皆に笑われた。母さんだけが笑わず、ぼくの前に立った”
リュウのまぶたがふるえ、指先が窓枠を強くつかんだ。
「その夜の音、いまでも覚えてる。遠くで火が爆ぜる前に来る、乾いた空気のしわ。地面が息を止めるみたいに、音を吸い込む瞬間。ぼくはそれを聴いた。逃げろ、と言った。でも、ぼくの声は、風の中でほどけて、届かなかった」
ペン先が強くなる。
“間に合わなかった。ぼくの言葉は遅かった。だから、言い直したい。母さんへ。ぼくは、ずっと、あなたを誇りに思っている”
窓の外の帆が、ぎい、と鳴った。それは嫌な音ではなかった。古い楽器が久しぶりに鳴らす長い音に似ていた。
そのとき、家の扉が強く叩かれた。
「風読み!」
外の男たちの声が、風に押されて転がり込む。
「また何か呼んでるのか。やめろ。村に災いを入れるな」
リュウは顔を上げ、扉のほうを向いた。
「呼んでないよ。風はただ、通り過ぎるだけだ」
声はまっすぐだったが、細い。
リュミエールは立ち上がる。
「少し、お時間を。手紙の途中です。終わるまで、風は私が預かります」
扉の向こうで、笑いと小さな舌打ちが混ざる。
「預かる? 何を」
「言葉です」
簡単な返答だった。だが、扉の向こうの気配が一瞬だけ動きを止めた。
「戦の夜、誰も耳を貸さなかった言葉がありました」と、リュミエールは声を落ち着かせた。「それをいま、書いています。終わるまで、ここは静かでいてください」
長い沈黙のあと、足音が遠のいた。
完全な理解ではない。けれど、いまだけは、距離ができた。
リュミエールは椅子に戻る。
「続けましょう」
ペン先が紙に触れる音が、ゆっくりと速度を取り戻す。
“母さん。ぼくは、母さんの声をもう一度聞きたい。風に混じる言葉を、ぼくの耳のいちばん深いとこで聴きたい。母さんは言った。『怖いものが来る夜でも、風は必ずどこかでやさしく吹いている』って。あの言葉を、いま、もう一度だけ”
リュウの呼吸が揃う。
リュミエールは、筆記の合間に、胸の奥の機械の拍動を意識する。一定のリズムに、わずかな揺れが重なる。共鳴。かつてレオが言った“観測にも温度が必要だ”の意味が、またひとつ別の形で立ち上がる。彼女は目を閉じず、しかし視界を細くして、音に集中した。
風向が変わる。
東から北東へ。
薄い雲がほどけ、光の粒が宙でしばらく留まり、消える。
帆のきしみが低くなり、家の梁がわずかに鳴った。
空気が、震える。
紙の上の魔導文字が、風に引かれるようにふわりと浮き、細い帯になって窓際へ伸びた。帯は扉の隙間から出ようとせず、ただ部屋の空気の中で弧を描く。旋律の前の溜めのような弧だ。
リュウの耳がその弧に触れた瞬間、彼の顔に、驚きと祈りが同時に灯った。
「……母さん?」
彼の声は、まだ少年の高さを保ちながら、一段深いほうへ落ちた。
空気の震えが言葉の形をとる。
女の声が、ほんの少し笑っていた。
“ありがとう、リュウ。あなたの風は、まだ私の中に吹いているのよ”
言い方は優しく、言葉は短く、しかし足りないものはなかった。
リュウは喉の奥から小さな音を漏らし、両手で顔を押さえて、笑いながら泣いた。
「母さん、ぼく、ここにいる。ちゃんと、いる」
“知っているわ”
“あなたが聞いた夜の音は本当だった。届かなかったのは、あなたのせいじゃない。届かない夜がある。ただ、それでも、言葉は風みたいに、誰かのところへ行くの”
声はそこで止まり、部屋の空気だけが、しばらくやさしく揺れた。
リュミエールは、その揺れの形を、言葉にしないで胸に収めた。
声は、彼女の耳にも届いた。聴こえた、というより、通り抜けた。彼女の胸の装置の拍に、短い余韻が重なった。その余韻は冷えず、熱を帯びず、ただ、やさしかった。
リュウが手を伸ばした。
彼は戸惑いながら、彼女の手を握った。握るというより、縋る、でもなく、確かめるように。
「これが、風の音じゃない。心の声なんだね」
リュミエールはうなずく。喉に小さな固まりが生まれ、言葉が遅れる。
「はい。……風が、あなたの言葉を運んで、あなたの言葉が、あなたの胸に戻ってきた」
「戻ってきた」
リュウは繰り返し、笑って、泣いた。
その表情に、誰の助けもいらなかった。支えようとして腕を上げかけた彼女の手は、空中で止まり、そのままそっと机に降りた。それでよかった。彼がいま掴んでいるものは、彼のものだから。
扉の外に、再び気配が集まる。
足音は多くない。けれど、今度は先ほどよりも荒くない。
一人の女が、やや迷いながら扉を少し開いた。
「……リュウ」
彼女は村の女だった。髪に白い糸が混じる。手には布袋。おそらく干した果実か、パンか。
「さっきは、悪かった。風のこと、怖いままでいた」
リュウは涙の跡を拭い、扉のほうを向いた。
「ぼくの言い方も、悪かった。母さんは、風を、怖いものじゃないって言ってた。いま、ぼくも、そう思う」
女は小さく笑って袋を差し出した。
「風が荒れる日は、甘いものがいい。落ち着くから」
彼女の手は震えていなかった。
扉の隙間から、ほかの気配も見えた。男がひとり、目を合わせずにうなずく。老人がひとり、空を見上げる。全員が理解したわけではない。けれど、いま、閉じた扉が少しだけ軽くなった。
夕方、風は歩く速度に合わせてやわらぎ、風車の帆影が土の上へ長く伸びた。
リュミエールは机の上に手紙を置き、封をする代わりに、窓のほうへ軽くかざした。
紙の上の魔導文字が細く踊り、淡い光の粉になって、風に溶ける。
彼女はその光を見送りながら、自分の胸に手を当てた。
人と“共に泣く”という行為は、彼女の設計にはなかった。だが、いま、喉の奥が熱い。目尻が痛い。痛みは嫌ではない。風が抜けるときに鳴る、家の梁の音に似ていた。
「……言葉は、風のように届く」
彼女は独り言のように言って、息を吐いた。
夜、村の広場には灯りがいくつかともり、焚き火の周りに人が集まった。
大きな声はない。笑い声は小さい。けれど、風の音は静かだった。
リュウは焚き火の端で、パンを小さくちぎりながら、時折空を見た。
隣に座った老人が、かすれ声で言う。
「おまえの母さんは、戦の夜、ここで風を背に立った。あのときのことを、やっと話せる」
彼は言葉を選び、ゆっくり語り始めた。
リュミエールは離れた場所から聞いた。
焚き火の火のはぜる音と、老人の声と、風車のごく弱い軋み。それらが重なって、村の夜の調子を作っていた。
ひとしきり話が終わると、リュウが立ち上がった。
「ぼく、ひとつ、聴きとるよ」
彼は風の向きを見て、耳を澄ませた。
遠くの川の上を撫でる音。野原を走る低い線。ひとつひとつを指先で確かめるみたいに、ゆっくり拾う。
「明日の朝、南から薄い霧。昼に晴れて、午後に風がやむ。夜は静か」
老人がうなずいた。
「そうか。明日、洗い物を干せる。畑の火も消せる」
小さな拍手が、焚き火の音に混ざった。
拍手は大きくなかった。けれど、手のひらの温度が伝わる音だった。
その夜、リュミエールは風車小屋の陰で手帳を開いた。
灯りは低く、頁は風でめくれそうになる。
彼女は羽ペンの先に小さく息を吹き、書き始める。
“今日、私は人と一緒に泣いた。設計外の動作は、故障ではなかった。共鳴だった。風を通す家の梁の音のように、私の胸を風が通り抜けた。残ったのは、空洞ではなく、道だった。言葉が通る道。人から人へ、そして、私へ”
ここまで書いて手を止める。
窓から見える帆は、夜の風にほとんど動かない。
買ったばかりのように新しくはない、けれど、まだしっかりとそこにある。
“風の音は、誰かの声に似る。誰かの声は、誰かの心に似る。私は明日も、手紙を書く。風の道を、言葉の道に変えるために”
彼女は手帳を閉じ、胸に軽く当てた。
装置の拍が、いつもの速さで刻む。
だが、その周りで、もうひとつの小さなリズムが、ゆっくりと寄り添っている。
それは、昼間、リュウと一緒に聴いた声の余韻かもしれない。
あるいは、彼女自身の言葉が戻ってきた小さな音かもしれない。
どちらでもよかった。
彼女は目を閉じ、風の行き先を思い描く。
川の上、畑の上、家々の屋根の上、焚き火の灰の上。
そして、遠くの海の、見えない呼吸の上。
夜更け、風はひととき強まり、また静かになった。
家の梁が短く鳴る。
リュミエールはその音に合わせて、深く息を吸い、吐いた。
誰かの手が、そっと背中に触れた気がした。
振り向いても、そこには誰もいない。
けれど、その“気がした”は消えない。
気配のやさしさは、嘘をつかない。
彼女は口元だけで笑い、目を開ける。
東の空が、わずかに色を変えた。
夜明け前の、まだ明るくない青。
風は、いま、村の屋根の上を抜け、畑を撫で、川を渡り、海の方へ走る。
リュミエールは立ち上がり、外套の襟を正し、帆の影から広場へ出た。
井戸のそばに、最初の人影が見える。
朝の支度を始める人の歩き方は、夜の歩き方と違う。
足音が軽くなる。肩の高さが少し下がる。
小さな変化の積み重ねを、彼女は学びはじめている。
村を発つ前に、彼女はもう一度、風読みの家を訪ねた。
リュウは眠っていなかった。窓の近くで、帳面に風の記録を書いていた。
「行くの?」
「はい。次の手紙が待っています」
「ぼくも、風を聴く。母さんが守ったこの耳を、ちゃんと使う。……ありがとう、記録士さん」
リュミエールは首を振った。
「ありがとう、は、あなたの声のほうが似合います。私はただ、風の通り道を少しだけ整えただけ」
リュウは笑って、窓の外を見た。
「今日の風は、優しい」
「ええ」
彼女は羽ペンのキャップを指で回し、胸の内ポケットにしまった。
そして、村の出口へ向かって歩き出す。
背中に、村の朝の音が重なっていく。
水の落ちる音、鍋のぶつかる音、子どもの笑い声。
それらがひとつに混ざるほどの大きさにはならない。
それぞれが細く、しかし確かに続く。
風はそれらを均等に撫で、揺らし、運ぶ。
リュミエールは振り返らない。振り返らなくても、風が知らせてくれる。
誰がどこで立っているか、誰がどの速さで歩いているか、誰がどんな息を吐いているか。
風は嘘をつかない。
嘘をつかないものに、彼女は少しずつ寄りかかることを覚える。
村の境の木板のしるしまで来たとき、最初に彼女に道を教えた老人が、また掃き掃除をしていた。
彼は箒を止め、短く会釈した。
「風が変わったな」
彼女はうなずく。
「はい。少し、やわらかく」
老人は目を細め、風車の帆を見た。
「やわらかい風は、争いを嫌う。明日は洗濯日和だ」
彼の声は、冗談のようで、祈りのようでもあった。
リュミエールはその声を記憶にしまい、歩き出した。
東の道は、来たときよりも短く感じられた。
丘を越えるたび、背中のほうで、風車の帆が小さく見える。
やがてそれも見えなくなると、海の匂いが少し強くなった。
彼女は立ち止まらない。立ち止まらずに、胸に手を当てた。
機械の拍は一定。
だが、その一定の中に、別の調子が混ざる。
それは、リュウの母の声が残していった、短い波かもしれない。
あるいは、彼女自身の言葉がつくった、風の小道かもしれない。
どちらでもいい。
彼女は前を向く。
ゆっくり、しかし確かに、次の手紙のほうへ。
その一歩ごとに、外套の裾を、やさしい風が持ち上げた。
風が吹いた。胸の奥まで、やさしく。




