第11話 名前の輪郭
朝の港は静かで、クレーンの影が水面に薄く伸びていた。昇降口のガラスは冷たくなく、手のひらと釣り合っている。十七番の席には、いつも通りの光が落ちて、机の奥の名札は「白鐘」の二文字だけを見せていた。黒板の右下の点ははっきりして、先生が書いた一文は変わらずそこにある。いつか、この名前をやさしく消す。
今日の十秒当番は吹奏楽部の彼女、拭く係は木下と僕。カリンは新聞部のノートを閉じて、目だけで挨拶する。
「午前、保護者懇談の続きがあるって。先生が前に立つ。私たちは普段のまま」
「分かった」
チャイムの直前、樫井先生が入ってきた。十五、十六。教室が息をそろえる。彼女が立たずに十秒を持つ。吸って、吐いて、止める。止めたあとに何も置かない。置かないで、終わらせる。その終わり方に、今日は強さがあった。僕は呼ばない。呼ばないまま、授業は始まる。
一限が終わる少し前、廊下がにぎやかになった。声の高さが少し違う。先生が一度出て、丁寧に頭を下げる。保護者の顔はここから見えない。見えないままでいい。ここは、僕らの場所だ。
昼休み、五分だけの話し合いがあった。先生は黒板の前に立ち、右下の点を指さした。
「外に向けた説明は、俺がする。内側の約束は、お前たちで増やせ。——午後、文化祭の準備の全体会がある。展示の扱いは、今日決め切らなくていいが、方向だけは決めよう」
文化祭。忘れていた言葉が急に近づく。廊下の掲示板には「三週間前」と太い字で出ている。三週間。長いようで、短い。短いようで、十分だ。
午後の授業の途中、事務室の放送が入った。
「本日放課後、文化祭展示の全体会を体育館で行います。クラス代表は動きやすい服装で来てください」
木下が肩をすくめ、浜崎が小声で「代表は誰にするん」と言う。カリンはペンを三回転がしてから、僕を見る。
「代表、レンでいい?」
「いいよ。カリンも出るんだろ」
「もちろん。記録係」
放課後。体育館の床は少し冷たい。実行委員長の二年がマイクを持ち、注意事項を読み上げる。危ないものは置かない。通路を塞がない。差別的表現は避ける。火気厳禁。音量制限。最後に、こうつけ加えた。
「“静かな展示”は歓迎です。音が鳴らないのに、意味が届くやつ。去年、評判でした」
僕はカリンを見る。彼女は目だけで「勝ったね」と伝えてくる。勝った、という言葉はあまり好きじゃないけれど、今は少しうれしい。
会のあと、クラスごとの島に戻って案を出し合う。黒板の右下に置く小さな紙に、項目を書き出す。
空の額縁
瓶と粉
十秒の場所
名簿は教室の内側
歌は忘れる
倉田が手を挙げる。
「もう一つ足そう。返す場所。展示の中に“返す場所”を作る。——例えば、小さな引き出し。中は空っぽ。開けた人だけ、十秒を置ける」
「いいね」とカリン。「名前は中に入れない。何も入れない。何も入れないを、展示にする」
木下が図を描く。教室の後ろに二メートル四方のスペース。中央に額縁、その後ろに瓶、横に小さな引き出し。通路は広め。人は一人ずつ入る。十秒、息、忘れる。紙は貼らない。代わりに、入口に小さな点印。点を見つけた人だけが、入る。
「入口に点だけ、って分かるかな」と浜崎。「分かる人だけ分かればいいのか」
「分からない人に親切な説明をつけると、分かる人の呼吸が乱れるときがある」とカリン。「教室の外は外。内側は内側。その境目を、展示で見せたい」
僕は頷いた。見せるのではなく、見えてしまうものを置く。置いて、忘れて、持ち帰ってもらう。持ち帰るのは音ではない。手触りだ。
時間を区切って準備を始める。木材の手配、額縁の借用、瓶の固定、引き出しの制作。技術室の先生に図面を見せると、思ったよりあっさり許可が出た。
「危なくない。人が詰まらない。——“静かな展示”の許可は出やすいんだ」と先生は言った。「それに、お前らのところは“静かなまま強い”。見てれば分かる」
うれしいけれど、浮かれない。浮かれると、やわらかいところが壊れやすい。壊れる前に、厚みを増やす。
準備の途中、職員室から連絡が入った。明日の朝、外部のボランティアが校舎の窓を点検する。高所作業車が来るので、窓際の掲示は一時的に外してほしい。副校長の丁寧な文面だ。僕らは頷き、黒板の右下の紙を内側に寄せ、窓に近い紙を外す。外した紙の四隅に、小さな画鋲跡が四つ残った。四角い跡が、窓の外より少し明るい。
その日の帰り道、旧市街の女性が校門の外にいた。白い布袋は持っていない。手ぶらのまま、目で合図する。
「今日、箱の中の白い紐を一本、外に出しました。練習用ではない、本物に近いもの。——文化祭の前夜、返す練習を一度だけやりましょう」
「場所は」
「音楽室の前。額縁の四角の前では、ない」
「分かりました」
彼女は微笑まず、歩幅を変えずに去った。足音は静かで、長く残らない。
夜、手帳に準備のリストを書き、最後に「前夜の練習」と書き足す。机の端の写真は倒れず、角度を少し変えた。倒れない角度を覚えた。覚えられることがあるのは、救いだ。
翌朝。空は白く、風は弱い。十秒当番は木下。彼は立たず、背中を伸ばし、吸って、吐いて、止める。終わったあと、僕は呼ばない。呼ばない日。呼ばないと決めた日。海は遠い音を立て、教室の中は揺れない。
一限の途中、窓の外を高所作業車がゆっくり移動した。作業員の黄色いヘルメットが並び、長い腕が窓枠に触れる。ガラスの外側が拭かれていく。内側のガラスには僕らの顔が薄く映り、外の手が、内側の僕らの輪郭を一瞬だけなぞった。
二限の終わり、先生が僕を呼んだ。職員室で、事務の先生が封筒を差し出す。表に「文化祭展示 防災点検クリア」と印字された紙。それから、紙の下に短い付箋。
夕方、保護者懇談会で展示の説明をしてほしい
三分で
“静かに強い”を、言葉で
三分。言葉で。静かに強い。強さを言葉で説明すると、弱くなることがある。けれど、逃げられない場面があることも知っている。僕はうなずいた。
放課後、保護者の前で三分だけ話した。黒板の右下の点、瓶と粉、額縁、十秒。名前は「置く」もので、「返す」対象で、勝手に持ち去らないこと。誰か一人で抱えないこと。いつかやさしく消すと決めていること。拍手は起きなかった。起きないでいい。代わりに、いくつかの頷きと、短い息の音が聞こえた。
懇談が終わると、旧市街の女性が体育館の脇に立っていた。布袋は持っていない。目だけで合図する。前夜の練習の時間が、確定した合図だった。
その夜。学校が暗くなる前、音楽室の前に三人で集まった。僕とカリンと倉田。廊下の蛍光灯は半分消えていて、窓の外の夕暮れは薄い。旧市街の女性が、白い紐を細い紙箱に入れて持ってきた。練習用より少し重い、細い紐。片方だけ、ほつれている。
「本番の前に、一度だけ。——返す、は捨てると違う。ここに置いたまま、手を離す。離したあとの空気を、誰かが持っていけるようにしておく」
彼女は紐を出し、僕らに両端を持たせた。僕は右端、カリンは左端、倉田は真ん中に指を置く。三人で息を合わせる。合わせ過ぎない。合わせなさ過ぎない。三度、吸って、吐いて、止める。最後の止めるで、指を少し温めてから、同時に離す。紐は床に落ちない。落ちないで、手すりに一瞬触れ、次の瞬間、どこにも見えなくなった。見えなくなる、というより、見えなくてもいい位置に移動しただけのような消え方。
「良かった」と女性は言った。「今の“良かった”は、誰にも説明しないでください」
彼女はそう言うと去った。残ったのは、薄い空気の手触り。手触りは、言葉より長く残る。
準備は順調に進み、文化祭の前日が来た。放課後、教室の後ろに展示を組む。木枠の額縁は軽く、瓶は固定され、引き出しは空っぽで滑りがいい。入口の床に小さな点を打つと、そこだけ床の色が少し深く見えた。見える人には見える、目印の深さ。
作業を終え、鍵をかける時間。先生が黒板の前に立ち、名前の右端をそっと撫でた。触れない。周りだけ。粉は落ちず、線は痩せない。先生は右下の点を一度指で押さえ、離した。
「明日の朝、十秒は短くしろ。来場者の流れがある。短い十秒でも、十秒は十秒だ」
「分かりました」
教室の照明が落ち、鍵が閉まった。帰り道、港は暗く、風は薄い。家で手帳に「明日、短い十秒」と書いて寝た。
文化祭の朝。人の足音が早い。校門の前に立て看板。体育館の前に行列。展示の教室の入口で、僕たちは交代で案内に立つ。案内といっても、言葉はほとんどない。入口の点を見せるだけ。見つけた人は点を踏み、静かに入る。見つけられない人は、通り過ぎる。それでいい。
最初の一時間はうまく流れた。瓶の前で十秒を置く人、額縁の前で黙る人、引き出しを開けて空気の重さを確かめる人。誰も写真を撮らない。撮る必要がない。撮ってはいけないと書いていないのに、撮らない。内側の約束が、外側に伝わることがある。
二時間目の途中、少しだけ事件が起きた。外部の人が廊下から黒板の名前を見て、身を乗り出した。扉の外から手が伸びて、黒板消しに触れる。触れた瞬間、樫井先生の声が低く響いた。
「そこは、ここにいる人の約束の場所です」
その人は驚いて手を引っ込め、頭を下げた。謝る声は小さく、間に合っていた。先生は黒板消しを元の位置に戻し、右下の点を指先で押さえた。押さえた指先に粉がついた。先生は瓶の口を開け、粉を返した。戻すのではなく、返す。その手つきは、ゆっくりだった。
昼。展示は一度閉じられ、校内放送の合図で再開した。午後の最初、予想していなかった客が来た。白いカーディガンの年配の女性。旧市街の女性ではない。校門で見かけたこともない。付き添いの先生が一人、少し離れて見守っている。女性は点を見つけて踏み、額縁の前に立った。十秒を置く気配はない。立って、額縁の四角を見つめるだけ。やがて、彼女は黒板のほうに視線を移し、名前を読まないまま、目を閉じた。閉じた時間は、十秒より短い。その短さに、片付いていない哀しみの形があった。
彼女は何も言わず、去った。僕らは追いかけない。追いかけないで、覚えておく。覚えたことを、紙にしない。紙にしない記憶は、展示の一部になる。
文化祭の最後の時間、展示の前に列はできなかった。人の波が引いて、教室の中に夕方の匂いがしみ込む。片づけに入る前、先生が言った。
「最後に、十秒。——今日の十秒は、短い。息の形だけを置いて、忘れる」
全員が立つ。吸って、吐いて、止める。止めた瞬間、窓の外で風鈴みたいな音が一度だけ鳴った。誰かが持ってきた本物の風鈴ではない。風が窓枠と当たって偶然鳴らした音だろう。偶然でいい。偶然の音は、用意した音より遠くへ行く。
片づけが始まる。額縁を外し、瓶を回収し、引き出しを閉じる。入口の点は消さない。消さないで、上から薄く紙を貼る。点が紙の下で生きているのが分かる。生きているなら、残していい。
文化祭が終わった翌朝。教室に入ると、黒板の名前が少し違って見えた。違うのは線の太さでも、粉の量でもない。輪郭だ。輪郭が、薄く柔らかくなっていた。誰かが夜に触れたのではない。掃除も入っていない。僕たちの目が変わったのだ、と言い切ってよかった。昨日のたくさんの十秒を通ってきた目は、輪郭を見つけなおす。
十秒は倉田。短く、静かに。僕は呼ばない。呼ばないで、机の奥の名札を見た。透明の台座がほんの少し手前に出ている。角の欠け目に光が集まる。半分の名前は、今日もここにいる。
二限の終わり、先生が黒板の前に立った。右下の点に指を置き、教室を見渡す。
「——今日の放課後、話し合いをする。『やさしく消す日』を決める準備だ。今日決めなくてもいい。決めないで、決め方だけ決めてもいい」
ざわめかない。ざわめかないで、筆箱の中の音だけが小さく動く。カリンがノートを開き、余白を二つに分けた。左に「置く」、右に「消す」。真ん中に「返す」。返すは、三つの間を行き来する通路みたいに見えた。
放課後。机は動かさない。席順はそのまま。黒板の名前はそのまま。先生は通路の椅子に座り、両手を膝に置く。
「意見を聞く。結論は急がない」
吹奏楽部の彼女が手を挙げた。
「私は、文化祭の“空の額縁”をやって思った。私たちはもう、少し“消す”側に近づいてる。だから、消す日を“近づける”のはあり。でも、消す方法は“遠くに置く”。何回も練習して、やわらかいほうの方法を選ぶ」
木下が続ける。
「俺は、まだ置いておきたい。置いておきたい理由はダサいけど、“ここにいる感じ”が、朝の俺に効くから。——でも、消す日が決まってたら、置いておくことの意味が変わって良い気もする」
浜崎が手を挙げた。
「俺、消すの、怖い。怖いけど、ずっと怖いままでいるのも違うから、“怖いまま消す”って書いておく。紙に、最初から」
倉田は短く言った。
「やさしく消せるなら、いつでもいい。やさしく消せない日があるなら、その日はやらないほうがいい」
カリンは最後にノートを上げて見せた。左の「置く」に三つ、右の「消す」に二つ、真ん中の「返す」に五つ、短い箇条書き。返すがいちばん多い。彼女は言った。
「“返す”が増えると、“置く”も“消す”もやわらかくなる」
先生は頷き、決めた。
「じゃあ、来週の金曜日を“候補の日”にする。候補は候補のまま、毎日十秒をやり、粉を返し、歌を忘れる。前日の夜に、もう一回集まる。そのとき、やめたければやめる。やれるならやる。——俺は、黒板の右下に、今日から毎日、点をひとつずつ足す。点が七つ並んだら、候補の日だ」
先生はその場で白い小さな点を一つ足した。点は並ぶと、線になる手前で止まる。並ぶ数が増えると、息の回数を自然に数えるようになる。
その夜、帰宅して手帳を開いたとき、机の端の写真が、短い音を立てて倒れた。拾い上げる。裏を見る。何も書かれていない。何も書かれていない裏は、今日、少しだけ重い。重いまま、机に戻す。戻した位置が、昨日よりほんの少しだけ右だと気づく。気づくだけでいい。気づきっぱなしで寝る。
一日目。点は二つ。十秒は短く、粉は返され、歌は忘れられる。旧市街の女性は現れず、資料館からのメモもない。教室の夕方は静かで、音楽室の譜面台は揃っている。変わらない日が、準備の半分を作る。
二日目。点は三つ。外の雨は弱い。十七番の机の奥の名札は、昨日より半歩だけ内側に入っている。誰かが触れたのだろう。触れて、戻した。戻す手つきがやわらかいと、物は軋まない。軋まない音は、覚えにくい。覚えにくいものが、長く残るときがある。
三日目。点は四つ。昼休み、掲示板に短い紙が一枚。既視感のある字。
今日は、呼んでも、呼ばなくても、同じ
明日は、呼ばないでください
僕は紙を剥がさない。剥がさないで、覚える。覚えたことで、十秒の姿勢が少し変わった。変えてしまえば、変われる。変わらないまま変えることも、できる。
四日目。点は五つ。放課後、資料館へ寄ると、空の額縁の前で一年生がまた十秒をしていた。紙は置かず、息だけを置いて去る。額縁の四角は変わらず空気を囲って、囲った空気は逃げない。逃げないから、誰かが持ち帰れる。持ち帰って、忘れられる。
五日目。点は六つ。黒板の名前の輪郭はさらにやわらかい。やわらかさに甘えない。甘えると、判断が遅れる。判断の遅れは、やさしさを鈍らせる。カリンはノートの余白に小さく書いた。
やさしく、急がないで、決める
六日目の夜。前夜の集まり。音楽室の前に三人。先生は来ない。来ないでいい時間だ。旧市街の女性が、細い紙箱を持って現れた。白い紐が一本。練習用ではない。箱の蓋を開けると、紐の片端はほつれておらず、もう片端だけが繊細にほどけている。
「これは、返すために作られた紐です」と彼女。「ほどけ方に、作った人の癖がある。癖を“見ない”で、返してみてください」
僕とカリンと倉田は、三人で紐を持った。息を合わせ、形を作り、忘れ、指を温め、同時に離す。紐は落ちないで、廊下の空気の中に、目では追えない薄い筋を残して消えた。消えたあと、手の中の熱が少しだけ軽くなる。
「明日、あなたたちは“やさしく消す”を選ぶかもしれないし、選ばないかもしれない」と女性は言った。「どちらでも、正しい。——ただ、どちらでも“返す”を忘れないで」
彼女は去った。残ったのは、廊下の静けさと、ピアノの蓋の下の暗さ。暗さは、音の反対側で息を支える。
七日目。候補の日の朝。点は七つ。黒板の右下に小さな線がまだ線にならず、点の連なりのまま並んでいる。十秒は短く、強かった。倉田が吸って、吐いて、止める。僕は呼ばない。呼ばないで、黒板の名前を見た。白鐘ユナ。粉は落ちない。線は痩せない。輪郭はやわらかい。
放課後、教室に全員が残った。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立った。
「決めよう。“やさしく消す”か、今日は消さないか。——どちらでも、ここに残る」
カリンが先に手を挙げた。
「私は、今日やるべきだと思う。展示を終えた今の私たちに、できる。できなければ、途中でやめる。やめることも、やさしさだと紙にしたとおり」
木下が続ける。
「俺は、まだ置きたい。でも、置きたい理由が“俺に効くから”だけになりかけてる。——だから、今日、やる側に回る。俺のためじゃなく、ここにいる“皆の返す”のために」
浜崎は短く言う。
「怖い。でも、怖いままやる」
吹奏楽部の彼女はうなずいた。
「粉を返す係は、私と木下でやります」
倉田は静かに言った。
「“やさしく消す”って、どこからどこまでを消す?」
教室の空気が一度だけ揺れ、すぐに落ち着く。先生はチョークを持たず、消しも持たず、ただ言った。
「輪郭を、先に消す。中身は、残す。——半分の名前、半分のまま、もう一度置く」
僕はうなずいた。半分の名前。名札の「白鐘」と、黒板の「ユナ」。二つを近づけて、やわらかい輪郭だけを外す。残った中身は、自然に薄くなる。薄くなったところで、返す。
合図も号令もなしに、やり方が決まった。まず十秒。全員で立って、吸って、吐いて、止める。止めたあと、先生が黒板消しではなく、薄い紙の端で名前の輪郭の外側だけをそっと撫でた。白い線に触れない。触れないで、周囲の粉だけを紙に集める。木下が瓶の口を開け、吹奏楽部の彼女が紙を傾け、粉は音を立てずに瓶へ返った。
次に、名札。机の奥の「白鐘」を、僕とカリンで台座ごと少しだけ引き出し、天板の手前に短く置く。置く位置は、昨日までの半歩外。置いたあと、触らない。触らないで、十秒。吸って、吐いて、止める。止めたところで、先生が黒板の右下の点をひとつだけ指で押さえ、そっと離した。
最後に、歌。歌は声にならない。声にならない歌を、口の形の手前で一度だけ作り、忘れる。忘れたあと、先生が黒板の中の「ナ」の最後の角だけを、息で温めるように短く撫でた。白い線は変わらない。変わらないのに、やさしくなった。
終わった。終わったのに、終わらなかった。教室の空気は軽くも重くもない。静かで、強い。先生は瓶の蓋を閉め、黒板の前に立って、短く言った。
「今日はここまで。——名前は残した。輪郭は薄くした。残したまま、返す。返しながら、残す」
誰も拍手はしなかった。いらなかった。息の音だけが、ひとつ、ふたつ。
準備も片づけもない夜。家で手帳を開き、今日のことを書いた。輪郭、粉、瓶、点、歌、半分の名前。書き終えて灯りを消す直前、机の端の写真が一度だけ揺れて、倒れなかった。倒れない角度を、完全に覚えたのだと思う。覚えた角度は、やさしさに似ている。やさしさは、軽くしないこと。持てるだけ持つこと。持てないときに、持てる人に渡すこと。渡して、返すこと。
眠りに落ちる前、耳の奥で短い音が鳴った。鐘ではない。ピアノでもない。呼吸の終わりと始まりの、間の音。返す音。あの音は、今日、少し長く聞こえた。長くなったぶんだけ、やさしかった。やさしくなったぶんだけ、遠くへ行った。遠くへ行って、また戻ってきた。戻ってきたところに、名前の輪郭がうっすらと浮かんでいた。そこに、僕はそっと手を置いた。置いて、離した。離して、眠った。翌朝、十秒の場所でまた、会えるように。




