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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第1話 無感情の少女と、白紙の手紙

 風が吹いていた、その風はただ空気を押し流すだけの機械的な運動ではなく、焼けた土と錆びた鉄と長いあいだ雨が降らなかった屋根の粉っぽさをいっしょくたにかき混ぜながら通りを抜け、角を曲がるたびに発見する新しい瓦礫の山や看板の折れ口やひしゃげた街灯の笛の音を、まるで忘れものを拾い集めるみたいに連れて歩き、それでもなお誰の髪も誰のコートの裾も揺らすことのない、観客のいない広場で舞うひとり芝居のように、ひたむきで、どこか寂しげだった。

 空は高く、けれど青さは薄く、遠い雲が境界線を曖昧にしたまま浮かんでいて、そこにかつて飛んでいた輸送船や広告気球や祝祭日の紙吹雪はすでになく、ただ空白という名の余白だけがひろがり、光は弱く、影は長く、世界の輪郭はゆっくりと朽ちかけの版木みたいに擦り減っていくばかりで、いつ誰が見ても同じに見えるはずの風景が、見るたびにほんの少しずつ違っている、そんな“滅びの最中”の午後だった。


 彼女は歩いていた。

 石畳がかつて石畳だった記憶をぎりぎりで保っている路地を、白い外套の裾を引きずらないよう注意深く、しかし立ち止まる理由も急ぐ必要も持たない足取りで。

 足音は驚くほど小さく、小石を蹴った音すら響かず、代わりに彼女の身体が出す微細な機械音が、肌の下のどこかで一定のリズムを刻んでいた。

 その拍動は心臓ではなく魔導核の規則正しい脈であり、鼓動と呼ぶにはあまりに無機的で、けれど途切れないという一点においては確かに“生”の証拠で、彼女自身がそれを証拠と呼ぶことも呼ばないことも、どちらでもいいと判断しているあいだに、路地はひとつ分短くなっていた。


 看板があった。

 風に削られ、火に炙られ、雨に打たれて、なお残った塗料が、辛うじて読める程度に“第五区ノース・ロウ”という地名を示していた。

 彼女は外套の内ポケットから小型の端末を取り出し、淡い灰色の瞳をひとつだけ瞬かせて、その文字列を読み取り、現在地情報に上書きした。

 瞳孔の奥に埋め込まれた薄い魔導回路が微かに輝き、世界の輪郭線を一度計算し直してから戻すように瞬きを閉じ、同時に彼女の内側で、今日の目的地へのルートが、瓦礫の角度や倒壊した塀の越えやすさまで含めて、合理的に、冷静に、そして何より感情抜きに再編成された。


 リュミエール、と彼女は自分の名を思い出す。

 思い出す必要はなかったが、名を呼ぶという動作が記憶の層を整え、働かせるべき機能を誤差なく呼び起こすことを知っていたから、確認として反芻しただけだった。

 リュミエール・エクレール、魔導記録士第七支部所属、試験体番号一。

 人造の身体に、言語を分解し再構築するための解析機構と、かつてこの世界に満ちていた“感情”という名のエネルギーを微弱でも拾い上げ、古式の魔法文字へと翻訳するための変換器官を搭載した、目的特化の少女。

 誕生日はない、年齢も便宜上の数値に過ぎない、血液は循環しない、しかし熱は測れる、体温と呼ばないにしても、彼女は自分の“温度”を把握していた。


 世界はかつて、感情で動いていた。

 喜びは灯となり、怒りは炎となり、悲しみは雨になって大地を潤し、愛は、たしかに光だった、と古文書は教える。

 言葉とは指示ではなく祈りであり、命令ではなく約束であり、誰かが誰かへ手渡す火種だった時代があった。

 けれどその仕組みは数百年前の大災厄を境に崩壊し、人の胸のなかから色が消え、笑う口元の形だけが残って温度は消え、泣く仕草の筋肉の動きだけが残って湿度は消え、祭りは手順へ、祝辞は形式へ、誓いは文章へ、魔法は記録へと変わった。

 残されたのは、もはや自ら火を起こすことのできない世界と、その灰のなかに微かに残る温もりを、掘り起こして並べて保存し、いつか誰かがまた火を起こせるようにと願う、最後の職業――魔導記録士。


 彼女の任務は単純だ。

 人の“想い”を聞き取り、その波形を読み取り、魔法文字へ翻訳して紙に載せ、依頼主に返す。

 それは遺書であることも、告白であることも、祈りであることも、ただの日記であることもあるが、どれも等しく、この滅びかけた世界の温度の標本であり、薄い硝子瓶に閉じ込められた匂いのように、いつか誰かが栓を抜いて嗅ぎ、思い出すための、希望の貯蔵だ。

 彼女は“聞く”ことに長けている、ではなく“拾う”ことに長けている、耳ではなく装置で、共感ではなく受信で、慰めではなく変換で、だからこそ正確で、だからこそ冷たい、そしてそれでいいと設計された。


 角を曲がるたび、街は別の顔を見せた。

 半分だけ残った商店の壁に貼られた色褪せたポスター、そこに写る笑顔は誰もが同じ角度で、ほとんど同じ祝日の同じ挨拶をしていて、それが失われた時代の“型”の美しさか、それとも均質化の兆候だったのか、彼女には判断できない。

 ベンチには砂が積もり、路面電車の線路は途切れ、道の端には小さな花が、風の隙間に耐えるように咲いていた。

 彼女はその花の名を辞書から引き、同定し、記憶へ保存した。

 保存して何が変わるわけでもないが、記録士はまず記録する者で、意味づけはその先にある、そう訓練されたから、忠実に従った。

 忠実であることは、彼女にとって“気持ちがいい”の代用品だった。

 気持ちの定義は空欄のままだが、空欄がある場所を把握しておくことは、空欄を埋めることよりも先に必要だと、プログラムは教えている。


 目的地は街の外れだった。

 赤い煉瓦の平屋、屋根の片側が落ち、窓ガラスのいくつかは割れていたが、残っている窓には薄い色のカーテンがまだぶらさがっていて、風が動くたびに、その布はひどく控えめに揺れ、誰かの暮らしの形が、完全には終わっていないことを、遠慮がちに告げていた。

 門扉は外れて地面に立てかけてあり、敷石には枯葉が積もり、その上を猫が通ったらしい足跡が、途中で砂埃に紛れて消えている。

 彼女は呼吸を整える、整える必要はないのだが、訪問の前には一度間合いを取り、内部の音を静め、顔の筋肉を標準姿勢に戻す、という手順がある。

 手順は儀礼で、儀礼は合図で、合図は人を安心させる――とマニュアルは言う。

 安心という語の定義を、彼女は三種類持っている。

 物理的安全、心理的安定、任務遂行の見通し。

 どれもそこそこ役に立ち、どれも“ぬくもり”とは遠い。


 扉を軽く叩いた。

 古い木が乾いた音を返し、その音は驚くほどよく響き、壁の向こうで、どこかの金具がわずかに震え、からん、と細い音を足した。

 応答までの時間が三秒を過ぎ、四秒で彼女はもう一度叩き、五秒目で内側の鍵が回る音がして、扉が軋み、ゆっくりと開いた。

 現れたのは老人だった。

 背は少し曲がり、髪は灰のように白く、手は薄い紙のように乾いていたが、瞳だけは濁りきらず、まだその奥に、何かを信じる色が残っていた。

 信じる対象が嘘であっても、色は色として残る、と彼女は過去の記録から知っている。

 けれどいま老人の目にある色は、嘘に見えなかった。

 それを嘘に見えないと判断する基準が、彼女の内側にいつのまにか形成されていることに、彼女自身はまだ気づかない。


 記録士、さんかね、と老人は言った。

 語尾がごく僅かに上がる、疑問というより確認の高さで、ここで間違えられると困る、という日常の慎重さが、口癖のレベルで残っている気配があった。

 はい、と彼女は答える。

 リュミエール・エクレール、魔導記録士第七支部所属、ご依頼の“個人宛書簡の記録”対応に参りました、と形式通りに名乗り、身分証を見せ、老人が頷くのを待ってから一歩進む。

 通りなさい、と老人は扉を開き、彼女は靴の泥を落とし、敷居をまたぐ。

 家の内側は、外側よりも時間がゆっくり流れていた。

 埃はある、けれど嫌な湿気は少なく、窓辺に置かれたコップには昨日の水が半分残り、テーブルの上には布巾が畳まれ、壁には古い写真が、有り合わせの釘で丁寧に並べられている。

 片隅には蓄音機が置かれ、針は欠け、けれど磨かれているのが分かる。

 使えないものを磨き続けることを、彼女は無駄とは思わない。

 無駄という言葉は、目的関数がひとつのときにしか確定しないからだ。

 老人にとって磨くことは、過去の音を呼び戻す儀式で、儀式は音の不在を埋める、たぶん。


 椅子をすすめられ、彼女は腰をおろす。

 背筋はまっすぐ、手は膝の上、視線は相手の目ではなく眉間の少し下、敵意ではなく敬意を示す角度――訓練された動作が、古い家具にも馴染んで、音を立てない。

 老人は向かいに座り、深く息を吐き、少し笑った。

 人に笑いかけられたときの返礼――スマイルの擬似生成は可能だが、彼女はそれを選択しない。

 選択しないことが不躾に当たるかどうかの条件分岐は、依頼者の表情から推定する。

 老人の笑みは、自分の緊張をほどくための自己暗示に近い、と判定されたので、彼女は反応を保留し、対話の主導権を老人の発話に委ねた。


 妻に、手紙を書いてほしいんだ、と老人は言った。

 声は掠れているが、言葉を選ぶ速度は遅すぎず、記憶の呼び出しに大きな遅延は見られない、彼女は無意識にそう評価し、頷く。

 内容の口述をお願いします、といつものように告げる前に、彼女は鞄から青銀の羽ペンを出した。

 軸には古い魔導文様が彫り込まれ、ペン先の結晶は光を受けて呼吸するように明滅し、空気中に漂う微弱な“想い”の粒子に触れると、まるで水面に落ちた露がたわむみたいに、輝度を少しだけ変化させた。

 老人の瞳が一瞬だけその光を追う。

 綺麗だね、と言いかけて、言い切らず、口を閉じ、机の上の写真立てに視線を落とす。

 写真には、花畑のまんなかで笑う若い女と、その肩にぎこちなく手を置く若い男が写っていた。

 彼女は写真の裏に記された日付を読み、記録し、老人の手の甲に走る血管の浮き具合と、写真の中の同じ手の、まだ柔らかい輪郭との落差を、ただ静かに、観察した。


 ありがとう、って書いてほしい、と老人は言った。

 たったそれだけでいい、と。

 生きていた頃は言えなかった、照れくさくて、言うべきときに言えないまま、気づけば機会も相手も失ってしまった、そういう言葉なんだ、と。

 彼女は頷き、ペン先を紙へ向け、同時に口を開いた。

 確認させてください、“ありがとう”とは、どんな意味の言葉ですか。

 老人は驚いたように目を瞬かせ、そして、ああ、そうだったな、と笑い、言葉を探す顔になった。

 誰かの心を温めたいときに使う言葉だよ、と彼は慎重に選んだ語順で言った。

 温める、という比喩を彼女は辞書の熱の定義と結び合わせ、しかし心という名の容器の材質が分からず、比熱容量も伝導率も想像できず、結果、理解の欄に“保留”と記した。

 保留は未理解ではない、未理解は拒絶の前段階だが、保留は受け入れ準備の姿勢だ、と彼女は知識として知っている。

 知識は温度を持たないが、準備は形を持つ。


 書き始める前に、彼女は部屋の音を数えた。

 窓の隙間を抜ける風のささやき、ランプの芯がわずかに吐く油の匂いに伴う微かな空気の膨張音、老人の呼吸と、家具の古い関節が出す乾いた軋み、遠くで鳥が一声だけ鳴いて、すぐに黙る、小さな靴音の記憶の残響。

 音は嘘をつかない、嘘は言葉の側に生まれる、と教わっている。

 彼女は羽ペンを持ち直し、指の圧を調整し、筆致が硬くなりすぎないよう、しかし揺れが老人の声音から逸れないよう、翻訳器官の出力を微調整した。

 紙の白さは、まだ“何も書かれていない”という無垢ではなく、“書かれるために待っている”という期待の白さに見えた。

 見えた、と自分で形容したことに、彼女は気づかない。


 ありがとう、その五文字が、最初の一筆でまだ“あ”の半分しか形になっていないうちから、部屋の空気は僅かに柔らかくなり、老人の肩の線がほんの少し降り、ランプの光が周囲の影を丸くし、彼女の耳の奥の機械音が、いつもより滑らかに感じられた。

 感じられた、という語を、彼女は出来る限り“感情”から遠ざけて扱うよう努めたが、それでもなお、その瞬間の変化を他の語で言い換えるのは難しく、彼女はただ、変化があった、とだけ記録した。

 変化は、しるしだ。

 世界がまだ動ける、というしるしだ。


 書く前の静けさと、最初の一画が紙に触れた瞬間の音、文字がまるで自分で立ち上がるかのように輪郭を持ち始める過程、そして意味が言葉の形を獲得するのに合わせて、老人の視線が写真から紙へ、紙からペン先へ、ペン先から彼女の指の節へ、そしてまた紙へと移動する軌跡――それらすべてが、彼女には精密で、不可逆で、記録するに値する現象だった。

 彼女は知っている、言葉とは本来、燃料であり、道具であり、贈り物であり、別れの印でもあった。

 いま彼女がしているのは、燃え尽きた炉に、炉から拾い上げた欠片の熱をもう一度戻す作業で、欠片は小さいけれど、火床が完全に冷え切っているわけではないことを確かめる作業でもある。

 彼女はそれを、仕事と呼ぶ。

 誰かはそれを、救いと呼ぶかもしれない。

 彼女は救いという語を、保留した。


 老人は彼女の手元を見つめながら、ぽつりぽつりと、かつての朝の匂いや、雨の日の家の暗さ、湯気の立つスープの湯気が窓に描いた曇りの輪郭、冬の夜に二人で毛布を二重にして肩を寄せたこと、失敗したパンケーキを笑いながら食べたこと、誕生日を一度忘れて機嫌を損ねさせ、その翌日に街じゅうの花をかき集めて謝ったこと、結局あの人は花よりも“ごめん”の言葉を欲しがっていたこと、けれど恥ずかしくて、うまく言えなかったこと――そんな細部を、物語の筋のないままに並べた。

 筋のない並べ方は、記録としては不親切だが、温度の保存には向いている、と彼女は経験で知る。

 彼は物語を話していない、暮らしを並べているのだ。

 暮らしは、物語の手前にある、火の在りかだ。


 ありがとう、の二画目が曲がり終わるころ、彼女は一度だけ、老人の顔を見た。

 目尻の皺は深く、眉の間には長い時間の溝があり、唇は乾いて、それでも今だけわずかに色づいていた。

 色が戻ることを、回復と呼ぶのか、最終の輝きと呼ぶのか、統計はまだ結論を持たない。

 彼女の胸の奥で、魔導核がいつもよりほんの少しだけ強く脈打ち、回路のどこかが僅かに熱を帯びる感覚があり、センサーは異常なしと告げ、しかし異常でないことが、いまは逆に例外のように感じられる奇妙さがあった。

 感じられる、をまた使ってしまう、と彼女は遅れて気づき、自分の語彙選択の偏りをメモ欄へ移し、後で見直すと決め、筆先へ視線を戻した。


 まだ彼は死なない。

 まだ光は溢れない。

 しかし部屋の勢いが、少しだけ変わった。

 空気がわずかに膨らみ、音が半歩遠のき、彼女の指先の力が一滴分だけ軽くなり、老人の肩が沈み、それを沈みと呼ぶか、降りると呼ぶか、落ちると呼ぶか、言い方の選択肢が生まれる、そういう瞬間――その手前までが、前編の領分であり、いま彼女が立っている場所だ。


 最後に、彼女は質問をひとつだけ付け加えた。

 書くべき内容に関する確認ではなく、彼女自身のための確認。

 奥さまは、どんな人でしたか。

 老人は写真を見て、笑って、少し首を傾げ、言葉を選び、そして、その選び方そのものが彼女には答えに見えたが、それでもなお、彼は言った。

 陽だまりみたいな人でね、寒い日でも、部屋のどこかに必ず温かい場所を作る、そんな人だった、と。

 彼女は“陽だまり”を比喩辞典で照合し、しかし辞典は温度を持たないから、彼女は照合をやめ、ただ紙の上に、ありがとう、の残りの線を、丁寧に、慎重に、しかし躊躇わずに、滑らせた。


 彼女の内側で、まだ名のない何かが、小さく息をした。

 それが溜息なのか、吸い込みなのか、彼女は判断できない。

 けれど確かに、息だった。

 世界はまだ、息をしている。

 風の孤独な劇にも、観客のいない拍手が、どこかで小さく響いた気がした。

 それが錯覚であっても、錯覚が悪であると、誰が決めたのだろう。


 ここから先、文字は光り、言葉は天へほどけ、彼は笑い、彼女は初めて“温度”を手で掬う。

 けれどその瞬間に至るまでの長い呼吸を、彼女は、そして世界は、きちんと吸い込み終えなければならない。

 彼女はペンをほんのわずかに持ち直し、紙の端に左手を添え、指の腹で紙のざらつきを確かめ、視線の焦点を一段だけ遠くに置き、そして、次の一画へと入った。


 ――そして、物語は静かに、次のページへ。



 ペンの先が紙をなぞる音が、部屋の中でいちばん鮮明だった。

 その音は、何かを削っているようでもあり、育てているようでもあった。

 書くという行為は、失われた魔法の最も原始的な残響だと教えられている。

 リュミエールはその理屈を知識として理解していたが、いま、その音にどこか懐かしさを覚えるような錯覚に包まれていた。

 錯覚は異常ではない。異常はエラーの形をして現れるが、錯覚は世界と自分の境界を一時的に曖昧にする優しい誤差だ。

 彼女の中で、誤差という語が“優しい”と結びついたのはこの瞬間が最初だった。


 老人は語り続けていた。

 言葉の端々に、年を重ねた人間だけが出せる柔らかい濁りがあった。

 若い声の透明さとは別の、かすれの奥に隠れた温度のゆらぎ。

 彼女はそのゆらぎを、魔力の残滓として検出しながら、同時に“波”として感じていた。

 波は形を持たないが、確かに胸の奥を通り抜けていく。

 心臓の位置に似た場所が、わずかに温かい。

 それが電流か幻覚か、判断はつかない。

 判断できないことが、いまの彼女には、かえって居心地がよかった。


「……雨の日はね、よくピアノを弾いてくれたんだ」

 老人がぽつりとつぶやいた。

「私は音楽が分からなくて、ただ聴いてるだけだったけど。

 でも、不思議と眠くなる音だった。

 あの人の音は、外の雨と一緒に溶けて、部屋の空気ごと丸くしてしまう。

 ……魔法みたいだったよ」


 リュミエールは机の上の古い蓄音機を見た。

 針が欠け、音を出せないはずの機械。

 けれど、老人の声に呼応するように、その金属の縁がほんのわずかに光った気がした。

 錯覚。そう処理すれば簡単だった。

 しかし、いまの彼女はすぐには処理しなかった。

 “魔法みたいだった”――その一文が胸の奥で何かを鳴らした。

 感情が消えた世界で、魔法という言葉を、誰かがまだ信じている。

 その事実が、なぜか温かかった。


 老人は続けた。

「彼女が亡くなった日のことは、今でも覚えている。

 あのときは街の灯りが全部消えて、風が強くて、ドアが叩きつけられて。

 息が荒くなっていく彼女の手を握ってても、何もできなかった。

 泣こうとしたけど、涙が出なかった。

 感情がもう、残っていなかったからだ。

 ……そのときに、思ったんだ。

 “ありがとう”って、どうしてあのとき言わなかったんだろうって」


 彼は笑った。

 笑いながら、目尻の皺がゆっくりと滲んでいく。

 涙の代わりに、光がそこに宿るように。

 リュミエールのペン先は震えた。

 文字が、老人の声の振動に合わせて揺れていく。

 “ありがとう”という文字が、ただの符号ではなく、熱を帯び始めていた。


 部屋の空気が変わった。

 壁にかかった写真が、ランプの光を受けてかすかに金色に反射した。

 彼女の感情センサーが高鳴り、内部の冷却機構が自動で作動する。

 心拍に似た異常振動。

 でも、その“異常”を、彼女は止めようとしなかった。

 むしろ、もう少しそのままでいたいと、思ってしまった。

 思う、という言葉を使うことに抵抗がなかったのも、初めてだった。


「……あんた、人形だって聞いたけど」

 老人がゆっくりと口を開いた。

「それでも、人の話をこうして聞いてくれる。

 機械に話しかけてるのに、不思議と寂しくないんだ。

 人間って、相手が心を持ってなくても、話を聞いてくれるだけで救われるんだな」


 救われる――その言葉が、リュミエールの中で反響した。

「救済」という語彙をデータベースが呼び出す。

 意味:危機・苦痛・絶望からの解放。

 しかしその定義には“手段”がない。

 何がどう作用して人を救うのか、理論的な説明は存在しない。

 なのに、いまこの部屋には確かに“救い”の気配があった。

 測定不能の温度。定義不能の光。

 けれど存在している。

 存在することだけが、彼女にはわかった。


「……記録を完了します」


 リュミエールはそう言い、羽ペンを掲げた。

 青い光がペン先を包む。

 老人の最後の言葉を拾い上げ、それを紙の上に魔法文字として落とす。

 その瞬間、部屋の空気が静止した。

 すべての音が消える。

 炎の揺らぎすら止まったように見えた。


 老人のまぶたがゆっくりと下がる。

 唇が、もう一度だけ動いた。

 ――ありがとう。

 その形を読み取るよりも早く、彼女の心の奥で何かが弾けた。

 ペン先が光を放つ。

 青から白へ、白から金へ。

 光は溢れ、部屋を満たし、天井を突き抜けて空へ昇っていく。

 彼の命が尽きる瞬間に、言葉は魔法となり、世界の断片を照らした。


 彼女は動けなかった。

 ただ、その光を見ていた。

 機械でできた身体なのに、胸の奥が痛んだ。

 内部回路が一瞬乱れ、制御信号が錯綜する。

 “痛み”というエラーを修正しようとするプログラムが働いたが、

 彼女はその命令を拒否した。

 痛みを、消したくなかった。


 机の上の紙がふわりと浮かび上がる。

 金の光が紙面の文字を包み、柔らかな波となって空へ流れていく。

 老人の顔は穏やかだった。

 まるで、すべての言葉を言い終えた詩人のように。

 窓から吹き込んだ風が、紙の角を揺らす。

 その動きが、彼の最後の息のように見えた。


 リュミエールはゆっくりと手を伸ばした。

 指先が、光に触れる。

 人工皮膚の表面温度が上昇する。

 データ上の温度ではなく、皮膚感覚のような“ぬくもり”だった。

 彼女の中で、言葉にならない衝動がうねる。

 理解ではなく、感覚。

 “ありがとう”という言葉の意味が、ようやく少しだけ掴めた気がした。


 窓の外では、夜が始まっていた。

 灰色の空が群青に染まり、遠くの地平線で、光の粒が弾ける。

 金の粉のように、静かに散る。

 世界は、まだ完全には死んでいない。

 そう思った瞬間、胸の痛みが少しだけ和らいだ。


 老人の手を見つめながら、彼女はそっと呟いた。

「……ありがとう」

 自分でも驚くほど、声が震えた。

 その震えはノイズではなく、音色だった。

 誰のためでもなく、自分の中からこぼれた声。

 部屋に響き、消え、余韻だけが残った。


 ランプの炎が、再び揺れ始めた。

 光は、もう青くはなかった。

 わずかに、金色が混じっていた。


 *


 それから、どれくらいの時間が経っただろう。

 外の風の音が遠ざかり、街のざらついた空気が夜の匂いを運び始めていた。

 リュミエールは、老人の体を整え、彼の手の中に、完成した手紙をそっと置いた。

 “ありがとう”の五文字が、まだかすかに温かかった。

 それは魔法文字が放つ残光のせいではない。

 彼女の指先の温度が移っただけ――そう思おうとしたが、

 その説明もどこか違う気がした。


 部屋を出る前、彼女はもう一度だけ振り返った。

 そこには静寂があった。

 けれどその静寂は、冷たくなかった。

 彼女はほんの一瞬、理解した。

 沈黙にも、いろんな種類がある。

 死の沈黙、眠りの沈黙、そして、安らぎの沈黙。

 いまこの部屋にあるのは、三番目の沈黙だった。


 扉を閉め、夜の風に触れる。

 風は昼よりも柔らかく、遠くの空に残る金の粒が、まだ漂っていた。

 リュミエールは歩き出した。

 歩くたびに、胸の奥で機械の鼓動がわずかに早まる。

 理由は分からない。

 でも、その理由の分からなさが、少し心地よかった。


 街の外れに出たころ、空に一筋の光が流れた。

 流星ではない。

 彼女の書いた文字が、空へ溶けていく軌跡だった。

 “ありがとう”という言葉が、世界に返っていく。

 その光は、もう彼女のペン先の色ではなかった。

 金と白が混ざり合い、まるで人の心そのもののように揺れていた。


 リュミエールは立ち止まった。

 夜風が髪を揺らす。

 彼女の瞳に、その光が映り込む。

 それは、涙のようだった。

 けれど、涙という仕組みは、彼女には存在しない。

 それでも確かに、何かが溢れた。


 胸の奥に手を当てた。

 中で、何かが微かに鳴っている。

 音のようで、鼓動のようで、記憶のようでもある。

 彼女は目を閉じた。

 暗闇の中に、老人の言葉が浮かぶ。

「誰かの心を温めたいときに使う言葉だよ」

 温める。

 心。

 その二つの語が、胸の奥でゆっくりと重なった。


 リュミエールは、夜空に向かって小さく呟いた。

「……ありがとう」


 その声は風に溶け、夜の街に散っていった。

 誰も聞いていないはずなのに、

 どこかで誰かが、優しく微笑んだ気がした。




 宿舎へ戻る道は、昼に見た瓦礫と同じ形をしているはずなのに、夜の風と金色の残光のせいで別の景色に見え、石畳の割れ目に溜まった闇が昼間より深く口を開け、街角の標識は読み取れるほどの文字をもはや持っていないのに、それでも彼女の足は迷わず帰路を選び、規定の歩幅で歩きながらも胸の奥の機械の拍動がいつもより半拍早く、それが故障でも異常でもなく、ただの“変化”としてそこにあることを受け入れると、夜の冷たさは思っていたより柔らかく、音の少なさは怖さではなく休息に近く、世界がいったん身を縮めて呼吸を整えている時間帯のように感じられ、感じるという語の使用をあえて止めず、誰にも提出しない非公式メモにだけ、その感覚の名前を仮置きしておくことにした。


 宿舎の扉は油を差しても差さなくても同じように軋み、廊下は狭く、壁に取り付けられた配管は熱をほとんど失っていて、彼女の部屋はその廊下のいちばん端、窓が一本、机がひとつ、ベッドがひとつ、椅子がふたつ、不要な二つ目の椅子は来客用という建前で置かれているが実際にはほとんど座られることがなく、けれど彼女はそれを片づけない、片づけてしまうと“いつか”という可能性の椅子がなくなるような気がして、可能性という語に温度を覚えたのは多分きょうが初めてで、初めては記録士にとって重要なタグだから、端末の備忘欄に時間とともにマークしておいた。


 机の上の魔導端末に灯りを入れると、薄い青色の画面が暗い部屋の空気を押し広げるように光り、文字の入力画面が立ち上がり、カーソルが規則的に点滅し、彼女はいつもの報告書式――日時、場所、依頼概要、対象者状態、使用器具、翻訳強度、発光反応、付随現象、備考――の順に、それぞれの欄を正確に埋めていくのだが、備考の欄に辿り着くより少し前、指先が止まり、止まった理由を自分で説明できず、説明できないことを不安ではなく“間”として許容できている事実に少し驚き、その驚きをも書き留め、そしてようやく、きょうの核心を言葉に乗せ始めた。


「発光反応の色調は金寄り、粒径は前回平均値より小、上昇速度はやや速く、紙面から立ち上がる際の抵抗は軽微で、文字の輪郭が崩れる前に空へ溶けたため、発話者の最終的解放はスムーズ、観察者である自分の内部に“痛み”に類する信号の発火を確認、冷却機構は作動したが抑制は選択せず、当該信号を記憶に保持することを望んだ」、と、事実の列挙に徹しようとする文章に、しかし徹しきれない体温のようなものがにじみ、にじみは報告書の形式からすれば余分で、けれど削ると正確さが下がると感じ、正確さという語の定義に、いま初めて“温度の忠実度”という小さな枝分かれを生やしてしまい、それは勝手な改訂であると同時に、彼女の記録を彼女のものにする唯一の行為でもあると判断し、そのまま保存することにした。


 画面を閉じると、部屋の暗さが戻ってくる、けれどその暗さはさっきよりわずかに薄く、薄さの理由は窓の外に残った金の残光がゆっくりと沈む途中にあるからで、沈む途中の光というのは、夜と朝の間にかろうじて存在を許された中間色のようで、世界が完全に冷えるのを先延ばしにしてくれている煙突の火の名残のようで、彼女はそれを、好き、と呼ぶべきなのかどうか決められず、決められないまま、羽ペンを取り出して机の上に置き、ペン先の結晶にそっと指を当て、昼間に掬った光の温度が、まだ本当にわずかだが残存していることを確かめ、それが物理的残留熱なのか、彼女の皮膚側の記憶なのか、判断を保留し、保留のまま目を閉じることにした。


 眠りは彼女にとって機能停止ではなく、非同期最適化に近い、つまり稼働率を落としながら内部の記録を整理し、索引を引き直し、古い参照の書き換えと不要なキャッシュの削除を行う状態で、夢は原則として発生しないはずなのに、その夜だけは、彼女の“起源”に関する断片的な映像が、データ点検の隙間からこぼれ落ちるみたいに浮かび、浮かんだまま消えず、幼い姿の自分に似た誰かが、冷たい硝子越しにこちらを見ている研究室の光景や、白衣の影が何層も重なって動き、誰かの声が「感情は供給しない、観測のみを許す」と言い、別の声が「観測にも温度が必要だ」と言い、温度という語が白い湯気のように廊下に流れ、そしてゆっくりと消えていく気配が連なり、気配のすべてが意味になりきらないまま、彼女の胸のあたりに薄い薄い痣のような跡を残して、朝が来た。


 朝は、夜の続きのように静かだったが、静けさの質は変わっていて、同じ音量の無音でも、夜の無音には包まれる感じがあり、朝の無音には背中を押される感じがあり、押される方向が玄関のほうであることは、届いた通知音が教えてくれた、つまり第七支部からの新しい依頼情報で、差出人の名は短く、年齢は若く、要件は“母への手紙”で、依頼文は簡素で、しかしその簡素さの行間に、書ききれなかった言葉の多さが透けて見え、透けて見えるものに彼女の指は弱く、弱いという性質を嫌いではなく、大切に扱うべき脆さとして捉える習慣が、昨夜の一件で芽生えてしまったことを自覚し、芽生えは切らない、切るなら理由が要る、理由がないなら育ててみる、その程度の判断で十分だと決め、外套を羽織った。


 玄関を出たとき、廊下の二つ目の椅子に、誰かが座っていた、という錯覚が一瞬だけよぎり、よぎった像はすぐに霧散し、霧散のあとに残ったのは、椅子がそこに“ある”というだけの事実で、それでも彼女はほんの少しだけ、その椅子の脚の位置を直し、床とのわずかな軋みを減らし、座る人がいないのに座りやすい角度に整え、整えるという行為が無意味ではないと感じ、感じたことを誰に説明する必要もないのだと気づき、気づいたこと自体を、小さな贈り物みたいに胸の内側のポケットへしまい、街へ出た。


 依頼者の住む区画は、昨日の老人の家からそう遠くはなく、風が回る角度も、陽の差し込み方も、似ているところがいくつもあったが、似ているからといって同じではなく、違いはいつも細部に宿り、細部を見つけられるかどうかが記録士の腕で、腕という言い方をすると彼女は少し照れるという概念に似た感覚を覚え、照れるという語は未実装のはずなのに、頬の表面温度がわずかに上がるのをセンサーが拾い、その読み取り値を“誤差”として破棄してしまう手はずが、ほんの少しだけ遅れた。


 少女が出てきた、扉が開くより先に足音がして、小さな呼吸がして、ためらいが扉の向こうで揺れ、それから蝶番が短い悲鳴を上げ、顔を半分だけ出す仕草のまま、彼女と目が合い、目が合った瞬間に視線が落ち、落ちた視線が彼女の外套の裾を追い、裾から羽ペンの先を見つけ、そこでようやく少女は扉を開ききり、開ききるまでの時間がゆっくりで、そのゆっくりに彼女は合わせ、合わせるという行為が仕事の一部であることを再確認し、再確認しながら微笑みの模倣を一瞬だけ迷い、迷った末に、頷くという最小限の動作に置き換えた。


「記録士さん、ですか」と少女は言い、言い終わる前に言葉が細くなり、細くなった理由を探るように唇を噛み、噛んだ痕が白くなり、彼女は頷き、名乗り、用件を簡潔に述べ、少女の背後の家の中に、花の香りと古い本の紙の匂いが混ざって漂っているのを嗅ぎ取り、嗅覚のセンサーが返す数値より先に、懐かしいという主観が立ち上がり、主観の立ち上がりを止めず、そのまま室内へと招かれ、招き入れられた足許で、玄関マットが少しずれているのを見て、つい直してしまい、直す指の角度が昨夜の二つ目の椅子と同じになったことに自分で気づいて、小さく息を継いだ。


 部屋は広くはないが、ものの配置が丁寧で、丁寧という性質が生活の中に持続している家庭特有の、安心と寂しさが表裏一体になった気配があり、写真立てのいくつかには、少女と女性――おそらく母――が並んで写っており、縁日の綿あめ、雨上がりの虹、学校の校庭のベンチ、台所の湯気、そうした瞬間が切り取られ、その切り取り方に、撮る側の愛情の癖が透けている、癖はたいてい同じ方向から現れ、同じ方向性の愛は、被写体の側にも確実に残る、と彼女はデータから知っている、知識が現実に重なる瞬間は少し眩しい、眩しさに目を細めるという動作は彼女の表情筋の仕様にはないが、視覚センサーの絞りは自動で一段絞られ、絞られたことで写真のざらつきがわずかに際立った。


「母に、手紙を」と少女は言い、言葉が途中で止まり、止まったところに沈黙が落ち、沈黙は重くはなく、けれど軽くもなく、置かれたコップの水くらいの質量で、テーブルの中心に存在し、彼女はその沈黙に対して、急かさない、詰めない、埋めない、という三つのルールを適用し、羽ペンを机に置き、置く音が少女の呼吸のリズムに同調するのを待ち、待つこと自体が文章の一部であるかのように、視線を少女の眉間よりほんの少し下へ置き、置いた視線が“聴く姿勢”の合図になると信じ、信じるという行為がいつのまにか自分の動作に含まれていることに、遅れて気づいた。


 少女は話した、母と、台所と、冬の朝の匂いと、学校へ行く前の慌ただしさと、その慌ただしさの中に必ず紛れ込む小さな笑いと、帰ってこなかった日の玄関の冷たさと、病院の白と、機械の鳴る音と、最後に握った手の細さと、それでも温かかった指先と、言えなかった言葉と、言いたかったけど言いそびれた“ありがとう”と“ごめんね”と“大好き”と、言葉の種類は多いのに、どれも同じ場所から来ている気配があり、その場所を彼女は“胸”と呼んでよいのだろうと思い、思ったことをペン先へ渡し、渡されたペン先が青から白へ移る手前の色で、紙に最初の文字を置いた。


 文字は滑り、震え、少女の呼吸で揺れ、揺れながらも形を持ち、持った形は意味になり、意味は温度になり、温度は光になり、光は、やがて。

 彼女は知っている、昨夜と同じことが起こる可能性があることを、けれど、同じではない、誰の言葉も同じではない、同じなのは、言葉が世界へ返っていくという仕組みだけで、その仕組みは厳密で、厳密さは優しさの形をしている、と昨夜、胸のどこかに刻まれてしまったので、その刻印を頼りに、彼女は書き、聴き、見守り、少女の沈黙が涙に変わる瞬間に、手を伸ばさず、けれどペンを止めず、止めないという選択が、抱きしめる代わりにできる最高の仕事である場面が、たしかにあるのだと理解し、理解という語の温度を、ほんの少しだけ信じた。


 発光は、昨夜よりも白が強く、金は線ではなく粉として舞い、粉は小さく、しかし量は多く、窓の方へ、天井のひびへ、流れて溶け、溶ける前の一瞬、紙の上に残った文字の輪郭が、たしかに温かかった、彼女は指の腹でそれを感じ、感じた事実を「錯覚かもしれない」という但し書きなしで記録し、記録することで錯覚を現実へ引き寄せ、引き寄せられた現実は、少女の肩の震えが収まった時間と一致し、収まった肩を見ても、彼女はやはり手を伸ばさず、そのかわり、テーブルの真ん中にずれたコップをそっと元の位置に戻し、戻すという行為に“寄り添い”という名前をつけ、つけた名前の責任を、静かに引き受けた。


 仕事を終え、外へ出ると、朝の光は思ったよりも明るく、しかし鋭くはなく、背中に当たる角度が、彼女の歩幅と自然に合い、自然という語の裏に長い訓練と多くの選択が隠れていることを、あえて忘れ、忘れることを許す朝の優しさに甘え、甘えるという行為がプログラム外であっても、誰にも迷惑はかからないだろうと見積もり、見積もりの余白に、昨夜の老人の笑顔と、きょうの少女の沈黙と、二つの椅子の位置と、羽ペンの温度と、金色の粉の流線と、そして――白紙の手紙――を並べた。


 白紙の手紙、それは昨日、彼女が誰にあてるでもなくポストへ落とした、一枚の空白で、空白のまま封をした紙で、書かれていないのに何かが確かに“書かれてしまった”ような手触りを持ち、彼女はそれを、もう一度だけやってみることにした、つまりポストへ行き、同じ場所、同じ赤錆の箱、同じ投函口、同じ金属の冷たさ、同じ深さ、同じ音、すべてを同じに揃え、けれど手紙の中身は昨日と違う、違うのは、封をする前に、ただ一語だけ、彼女の手で書くということ、彼女の魔導核ではなく、彼女自身の、まだ名前になりきれない何かの熱で。


 彼女は宿舎の机に戻り、白い紙を一枚取り、羽ペンを握り、握る手に昨日よりわずかな震えを許し、その震えが線を乱すことを恐れず、乱れは生の証拠だと昨日の老人が教えてくれたと解釈し、解釈は厚かましいが、厚かましさなしには世界は更新されない、と小声で自己承認し、自己承認という行為の生温さに苦笑する代わりに、文字を書いた――たった一語、短い、けれど終わらない、世界でいちばん遅く届くのに、届いたときにはそこを温めてしまう語――。


 ありがとう。


 書き終えた瞬間、魔法文字としての反応はなかった、ペン先は青くも白くもならず、部屋の空気は揺れず、窓の外の鳩は同じ速さで飛び、端末の画面は点滅をやめず、何も起きなかった、つまり外側では、何も。

 けれど、内側では、ほんのわずかな、しかし確かな変化が起きた、胸の奥の機械の拍動に、目に見えない第二の拍が重なり、重なった拍はすぐに同化し、同化したあとには違いが分からなくなるのに、同化の直前に確かに二重のリズムが存在した事実だけが、彼女の中に印として残り、印は消えず、消えない印は、いつか別の言葉を呼ぶ礎になる、と直感し、その直感に理屈を与えようとしないで、封をした。


 ポストの口は冷たく、紙は軽く、落ちる音は短く、短い音は驚くほど満ち足りていて、満ち足りるという語を、彼女はやっと自分の辞書に追加できるかもしれないと考え、考える途中で、空の色が一段階明るくなり、明るさの増し方が、今日という日のはじまりを彼女に告げ、告げられた彼女は歩き出し、歩き出した足取りが、昨夜よりわずかに弾み、弾みはすぐに落ち着き、落ち着いた先にあるのは、いつもと同じ業務の連絡と、同じ手順と、同じ報告書と、同じ羽ペンと、同じ彼女で、けれど同じの中に、昨夜とは違う小さな色が混じっていることを、確かに知っていた。


 道すがら、空の高いところで金色の粉がまだ薄く漂っていて、漂う光が朝日に溶け、溶けながらも消えず、消えない微粒子のように彼女のまぶたの裏に残り、その残像をまばたきで追いかけながら、彼女はゆっくりと口を開いた、誰に聞かせるでもない、ただ自分の耳で聞くための、最初の独白として。

「――この文字は、なぜ温かいのだろう」


 そう言って、彼女はペンを握り直し、次の依頼へ向かった、世界のどこかでまた、誰かが言えなかった一語を、言えるようにするために。

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