取り残されたから海
朝、自然と早く目が覚めると子どものような気持ちになる。爽やかで気持ちの良い、涼しい空気に触れて、すぐに布団の外に出たくなる。さっきまで見ていた夢の内容は覚えてないが、たぶん、ゆりかごに揺られるような心地の良い穏やかな夢だったはずだ。隣で寝ている兄もぱちりと目を開けていた。
「海に行こう。」
どちらともなく言ったが、海へ行くのはもう決まっていた。一人では外に出るか迷うような平日の早朝の散歩は、二人で気持ちが一致すればもう道を歩き出したも同然である。
何もかもおかしく世界に追放されている兄弟二人に、靄のかかった朝の風景は、鼻歌を歌いたくなるくらい親切なものだった、普段は硬いだけの灰色の塀も猫がいなくてぐにゃりと曲がっていて、二人のほかに植物だけが呼吸をしている。私たちが小さい頃はすべて正しく揺れ動いたままだったのに、どうしていつの間にかただ一つの真実に規定されたのだろうと、静かに呼吸を整えながら兄弟は思った。
「昔、こうやってよく木の棒で遊んでたよな。」
兄は小さな棒を拾い上げて、かすかに振った。太陽の光が顔をやさしく照らしていて、本当の子どものように見えた。私は泣きそうな気持ちになって、うつむいて自分自身の影を見ようと振り向いたが、朝の柔らかな光ではまだ薄くぼやけて分からなかった。
「どうしたんだ?」
兄は心配そうな様子で、私の手を掴んだので、木の棒がすとん、と、コンクリートの上にふたたび戻った。大きい大人の人間の手だ、皮膚がかたくて骨張っている。
「何で駄目なんだろう、何が駄目なんだろう。」
ぐるぐると考え出して、その場で立ち止まってしまうような今までの人生で、私が取りこぼさなかったものは、ずっと残っていたものは何かと思って兄を見た。優しい顔をしていた。生まれた時から知っているような安心する表情で、そこに立っていて、海はもう近かった。
「よくわからないけど、駄目なものはひとつとしてないことはわかるよ。」
「どうしてこういう朝は海に行きたいんだと思う?」
「子どもだからかな。」
劫初に戻って海に入る。母がいない世界で兄が隣で揺らいでるのを私は眺めていて、海は今よりもずっと光が強いような気がした、それは反面、影が強いということだった。海藻も魚もいない宇宙で、私と兄は近づきすぎてほどけたのに泡にはならなかった、浮くことも沈むこともままならなかった。水面が見えない海に、底はない。
「こういう朝があってもいいと思うし、こういう生があってもいいと思う。」
海はすぐそこだ。波の音は聞こえないけど私には分かる。夢は見ていない、生きてはいる。この手の感触は本物の地球だと私は思った、兄もまた海を思っているに違いなかった。子どもだから、子どもとはそういうものだからだ。