プロローグ 喪失
人間は、実に奇妙な生き物だ。
自分と異なるものを恐れ、理解できないものを遠ざける。生まれた土地が違うというだけで相手を嫌い、言葉が通じないというだけで敵意を向ける。
そして、一度憎む理由を見つけてしまえば、その憎しみが正しいかどうかなど、ろくに考えもしない。
ここ、アマツという国には、イミーン人と呼ばれる者たちがいる。
もっとも、イミーンなどという国は存在しない。
アマツの外からやってきた人間を、出身地も民族も関係なく、ひとまとめにしてそう呼んでいるだけだ。そこには侮蔑の意味が込められている。
外から来た者の中には、真面目に働く者もいる。家族を養うために故郷を離れた者もいれば、争いから逃れてきた者もいる。
一方で、犯罪に手を染める者もいた。
最近は強盗や誘拐が相次ぎ、その犯人としてイミーン人が疑われている。実際に捕まった者もいるらしい。
だが、罪を犯した者が一人いれば、同じ呼び名で括られた無関係の人間まで憎まれる。
人間というものは、実に都合よくできている。
俺には関係のない話だがな。
誰が誰を憎もうと、殺そうと、どうでもいい。
俺が興味を持つのは、その先に生まれる後悔だけだ。
人間の魂は、後悔によって味を変える。
取り返しのつかない過ちを犯し、失ったものの大きさに気づいたとき、その魂は実に美味くなる。
特に、自分が正しいと信じて疑わなかった者が、自らの罪を知った瞬間。
あれは格別だ。
そして俺は、ある少女の魂に目をつけていた。
名を、ナツミという。
「けほっ、けほっ」
小さな咳が、寝室に響いた。
「ハル、まだ熱がありますね」
ナツミが少年の額に手を当てた。
十四歳の少女だった。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、年齢のわりに落ち着いた物腰をしている。言葉遣いも丁寧で、年下のハルに対してさえ、滅多にそれを崩さない。
額に触れられているのは、十一歳の少年、ハルだ。
数日前から風邪をひいており、昨日までは熱も高かった。
今朝になってようやく起き上がれるようになったものの、まだ顔が赤い。
「でも、昨日よりずっと元気だよ!」
ハルは笑って答えた。
直後に咳き込んだせいで、説得力は皆無だったが。
「元気になってきたからこそ、今日は休んでください」
「えー、もう寝るの飽きちゃった」
「だめです。ちゃんと治るまでは我慢してください」
「はーい」
ハルは素直に布団へ潜り込んだ。
実に聞き分けのいい小僧だ。
俺の名は、ヴォラクシオン。
悪魔である。
今は、このハルという少年の身体に宿っている。
もっとも、小僧は俺の名前をまともに呼んだことがない。
長くて覚えられないらしく、いつも「おじさん」と呼ぶ。
ナツミのほうは「シオンさん」だ。
勝手に名前を短くしやがって。
まあ、どうでもいいことだが。
家は住宅街の一角に建つ、少し古い平屋だった。
廊下を歩けば床板が軋み、建具にも多少の傷みが見られる。それでも室内はきれいに片づけられ、家具も大切に使われていた。
居間には四人が囲む食卓があり、棚の上にはハルが描いた家族の絵が額に入れて飾られている。
四人の顔立ちも体格も、実物とはまるで似ていなかった。
それでも、この家の人間たちは、その絵を大切にしているらしい。
俺には理由が分からなかった。
似ていないものを描いて、何が嬉しいのだろうな。
「ハル、少しお水を飲みましょうか」
ナツミが枕元のコップを手に取った。
「うん!」
ハルは身体を起こし、水を飲んだ。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「ハル、調子はどうだ?」
父親だった。
片手には工具を持っている。
今日は仕事が休みらしく、朝から家の傷んだ建具を修理していた。
「もう元気だよ!」
「そうか。じゃあ、もう少し寝ていられるな」
「ええっ、なんで?」
「元気になったら、もっと遊べるだろ?」
父親は笑いながら、ハルの頭を撫でた。
「今日は無理するなよ」
「うん!」
その後ろから、母親が顔を出した。
「ナツミ、ちょっといい?」
「なあに、お母さん?」
「夕飯の材料が足りなくてね。買い物をお願いできる?」
「うん、いいよ。何を買ってくればいい?」
「野菜と、お肉を少し。ハルも元気になってきたし、今日は温かいものを作ろうと思って」
「分かった!」
ナツミは嬉しそうに頷いた。
「お母さんは行かないの?」
「ハルの様子も見ていたいし、夕飯の準備もあるからね」
「そっか。じゃあ、私が行ってくるよ」
「ありがとう。助かるわ」
父親が工具を持ち直した。
「俺もこっちを直しておきたいしな。悪いけど頼むよ」
「ううん、大丈夫」
ナツミは笑った。
「ハルは、お留守番をお願いしますね」
「ぼくも行けるよ?」
「だめです」
即答だった。
「今日は絶対に休んでいてください」
「わかった」
ハルは頷いたが、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。
両親が廊下へ戻ったのを確かめると、ナツミの袖を小さく引いた。
「ねえ、ナツミちゃん」
「どうしました?」
「おじさん、連れていって」
ナツミは少し驚いた顔をした。
「シオンさんを、ですか?」
「うん!」
『なぜ俺が?』
思わず口を挟んだ。
ハルは真剣な顔をしていた。
「だって、最近、女の子がいなくなる事件が多いんでしょ?」
『そうらしいな』
「ナツミちゃん、一人だと危ないよ」
「大丈夫ですよ。明るいうちに帰ってきますから」
「でも、何かあったら嫌だもん」
ハルは布団の端を握った。
「おじさんが一緒なら、安心でしょ?」
こいつは俺を何だと思っているのだろう。
しかし小僧に憑りついていても、小僧は風邪をひいている。
しばらくは代わり映えのない景色も退屈だな。
『好きにしろ』
「ありがとう、おじさん!」
ハルは嬉しそうに笑った。
ナツミも微笑んだ。
「シオンさん、ありがとうございます」
俺は返事をしなかった。
「ふふっ」
まったく、律儀な少女だ。
ナツミはハルの布団を整えた。
「お水はここに置いておきますね。喉が渇いたら飲んでください」
「うん!」
「それから、無理に起き上がらないでください。お父さんとお母さんの言うことも、ちゃんと聞いてくださいね」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
ナツミは最後にもう一度、ハルの額へ手を当てた。
「帰ってきたら、また熱を確かめましょうね」
「うん!」
「ではシオンさん、私と一緒に来ていただけますか?」
『好きにしろ』
ハルは布団から片手を出した。
「いってらっしゃい、ナツミちゃん!」
ナツミはその手を握った。
二人の手が触れた瞬間、俺はハルの身体を離れ、ナツミへと移った。
悪魔が宿主を変えるには、次の宿主となる人間の承諾と、物理的な接触が必要だ。
握手でも、肩に触れるだけでも構わない。
だが、相手が拒めば憑依することはできない。
そして、何より厄介なのは、宿主が死ねば、そこに宿る悪魔も死ぬということだ。
死んでから別の人間へ移ることはできない。
つまり、俺たち悪魔は、自分の命を人間という脆弱な生き物に預けていることになる。
実に馬鹿げた制約だ。
もっとも、今の俺にとっては、ナツミを守る理由が一つ増えただけのことだがな。
俺は魔界で数え切れないほどの魂を喰ってきた。その中には、アマツの人間も、外の土地で生まれ育った人間もいた。
魂を喰えば、その者が生きてきた記憶が俺のものになる。
言葉も例外ではない。
だから俺は、アマツの言葉だけでなく、外来者たちが使うさまざまな言語も理解できる。
そして、俺が宿っている間は、宿主もまた、俺の知る言葉を理解できるようになる。
もっとも、それは俺が与えている力にすぎない。
俺が身体を離れれば、その恩恵も失われる。
「じゃあ、行ってくるね」
外はよく晴れていた。
柔らかな日差しが、住宅街の道を照らしている。
少女は一度だけ家を振り返った。
父親は玄関の建具を確かめていた。
母親は台所へ戻り、ハルの咳が寝室から聞こえた。
どこにでもある、ありふれた家庭の光景だった。
ナツミは扉を閉めた。
それが、家族四人が揃った最後の朝となった。
ナツミは買い物かごを手に取り、野菜売り場へ向かった。
「今日は何を作るんでしょうね」
『俺に聞くな』
「ふふ、そうですね」
少女は楽しそうだった。
「ハル、昨日はあまり食べられませんでしたから」
ナツミは野菜を手に取り、傷んでいないか確かめた。
「今日は消化のいいものがいいですよね」
『何でもいいだろう。腹に入れば同じだ』
「そんなことありませんよ」
ナツミは少しだけ頬を膨らませた。
「食べるものによって、元気の出方も違いますから」
『人間は面倒だな』
「そうかもしれませんね」
そう言いながらも、少女は笑っていた。
少し離れた売り場で、ハルの好きな菓子を見つけたらしい。
値札を見て、しばらく迷っていた。
そして、結局買い物かごに入れた。
『頼まれたものではないだろう』
「今日は特別です」
『何が特別なのだ?』
「ハルが元気になってきましたから」
ナツミはかごの中を覗いた。
「これを見せたら、きっと喜びます」
俺は返事をしなかった。
人間はそういう無駄を好むらしい。
買い物を終え、レジで会計を済ませる。
袋に商品を詰めているうちに、外は少しずつ暗くなり始めていた。
「少し遅くなってしまいましたね」
『そうだな』
「ハル、お腹を空かせているでしょうか」
『両親がいるのだろう。何か食わせているはずだ』
「そうでしたね」
ナツミは小さく笑った。
「でも、ちゃんと寝ているか心配です」
『あの小僧なら、言われたとおり寝ているだろう』
「そうだといいんですけど」
少女は足を速めた。
俺は、その内側で退屈していた。
何も起こらない一日だった。
少なくとも、そのときはそう思っていた。
「ただいま」
ナツミが家の扉を開けた。
返事はなかった。
いつもなら、誰かが返事をする。
母親が台所から顔を出すか、父親が声をかけるか。
それより早く、ハルが嬉しそうに駆け寄ってくることも多かった。
だが、家の中は静まり返っていた。
ナツミが靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
床板が小さく軋んだ。
不思議に思いながらも、少女は買い物袋を抱えたまま、居間へ向かった。
そこで足が止まった。
棚が開いていた。
引き出しが床に転がり、食器が散乱している。
家族で食事をするための机も倒れていた。
棚の上には、ハルが描いた家族の絵が額に入ったまま残されていた。
その下にある引き出しだけが、乱暴に開け放たれている。
『荒らされているな』
「お父さん、お母さん、ハル?」
ナツミは俺の言葉に答えなかった。
部屋の奥へ進む。
そして、見つけた。
床に転がっている、二つの身体を。
「え?」
袋が手から滑り落ちた。
中身が床に散らばる。
父親が転がっていた。
その少し先には、母親も横たわっている。
二人とも、動かなかった。
「お父さん?」
ナツミは父親へ駆け寄った。
「どうしたの?」
返事はない。
「ねえ、起きてよ」
肩を揺する。
父親の身体が、力なく動いた。
「お父さん?」
ナツミは父親の顔を覗き込んだ。
その服には、大きな赤黒い染みが広がっていた。
床にも血がこびりついている。
少女の手が止まった。
「お母さん?」
今度は母親へ駆け寄った。
「お母さん、起きて」
肩に触れる。
「どうしたの? 何があったの?」
母親も動かなかった。
ナツミは二人を交互に見た。
「ねえ、返事してよ」
声が震えた。
そのとき、何かに気づいたように顔を上げた。
「ハル?」
少女は周囲を見回した。
「ハル、どこ?」
居間にはいない。
台所にも姿がない。
ナツミは立ち上がり、廊下へ飛び出した。
「ハル!」
寝室へ向かう。
「ハル、いるんですよね?」
扉に手をかけた。
開ける。
そこには、血に染まった床と、動かなくなった少年がいた。
「ハル?」
ナツミは駆け寄った。
少年は床に倒れていた。
服には血が染み込み、赤黒い跡が残っている。
「どうしたんですか?」
少女は膝をついた。
「こんなところで寝ていたら、風邪がひどくなってしまいますよ」
返事はない。
ナツミはハルの肩に手をかけた。
そして、ゆっくりと抱き起こした。
その拍子に、少年の服に染み込んだ血がナツミの胸元へべっとりとついた。
赤黒い汚れが、服に広がっていく。
ナツミは気に留めなかった。
「ほら、起きてください。帰ってきましたよ?」
少年の頭が、力なく傾いた。
ナツミはそれを支え、乱れた髪を指で整えた。
「ハル?」
返事はない。
少女はハルの額に手を当てた。
その指先が止まった。
「熱が…下がっていますね」
小さく笑った。
「よかった。もう熱は引いたようですね」
「それにしても冷えすぎですよ」
両手で頬を包み込む。
それから、何かを思いついたように頷いた。
「ああ、そうか。寒かったんですね」
ナツミはハルをそっと布団に寝かせた。
「お風呂、入れてきますね」
そう言って、寝室を出た。
居間に転がっている両親のそばを通り過ぎ、浴室へ向かった。
浴槽の蓋を開け、栓を抜く。
掃除用のスポンジに洗剤をつけ、浴槽を洗い始めた。
その顔には、何の表情もなかった。
キュッキュッという音だけが、静まり返った家の中に響いている。
ナツミはただ黙々と洗い続けた。
やがて泡を洗い流し、浴槽の栓を閉める。
壁の操作パネルに手を伸ばした。
ピッ。
『お湯はりをします。浴槽の栓はしまっていますか』
機械の声が響いた。
ナツミは操作パネルをぼーっと見つめている。
しばらくすると、寝室へ戻った。
「ハル、お待たせしました」
少年のそばに膝をつく。
「今、お湯を入れていますからね。もう少し待っていてください」
ハルの手を取った。
冷たい。
ナツミはその手を両手で包み込み、何度も擦った。
「それまで、私が温めてあげますね」
少女は微笑んだ。
ハルの手を自分の頬へ押し当てる。
「ほら、こうすれば温かいでしょう?」
返事はなかった。
「ハル?」
ナツミは首を傾げた。
「もう、寝たふりはやめてください」
少年は動かなかった。
「ハルの好きなもの、買ってきたんですよ」
少女は嬉しそうに笑った。
「一緒に食べましょう?」
沈黙。
ナツミはハルの肩を軽く揺すった。
「私、帰ってきましたよ?」
ハルの頭が、力なく揺れる。
「おかえりって、言ってくださいよ」
声が、わずかに震えた。
その目から、一粒の涙がこぼれた。
ナツミは気づいていないようだった。
「おかしいですね」
乾いた笑いが漏れた。
「どうして、温かくならないんでしょう?」
少女は笑っていた。
涙を流しながら。
「ねえ、ハル」
返事はなかった。
浴室からは、湯が注がれる音が聞こえ続けていた。
誰も使うことのない浴槽に、温かい湯だけが溜まっていく。
ナツミはハルの手を握ったまま、動かなかった。
やがて、少女は何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ」
小さく呟く。
「救急車を呼ばないと」
ナツミはハルをそっと布団へ寝かせた。
「待っていてくださいね」
少年の頬を撫でる。
「すぐに、救急車を呼びますから」
少女は立ち上がった。
足元がふらつき、壁に手をつく。
それでも居間へ戻った。
「お父さん、お母さん」
二人は転がったままだった。
「もう少し待ってて。すぐに助けてもらうから」
ナツミは震える手で電話を取った。
何度か番号を押し間違えた。
それでも、ようやく救急へつながった。
「助けてください」
少女は電話口で言った。
「家族が、なんか動かないんです」
相手が何かを尋ねた。
「血が出ていて。でも、まだ大丈夫だと思うんです」
電話の向こうで、相手の声が強くなった。
ナツミは住所を告げた。
「早く来てください」
その声が震えた。
電話を切ったあと、ナツミは居間の床に座り込んだ。
父親と母親を見つめる。
「もうすぐ、救急車が来るからね」
少女は小さく笑った。
「大丈夫。きっと助かるから」
俺は黙っていた。
死者を助けることなど、誰にもできない。
浴室では、今も湯が注がれている。
ハルのために用意された、温かい風呂。
その湯に、ハルが浸かることは二度とない。
救急車の音が近づいてきた。
やがて、家の前に停まる。
救急隊員たちが駆け込んできた。
居間の惨状を見た瞬間、彼らの表情が変わった。
ナツミは立ち上がった。
「お願いします。お父さんとお母さんが」
声が震えた。
「それから、ハルもいるんです。奥の部屋に」
救急隊員たちは手分けして三人の状態を確認した。
そのうちの一人が、ナツミに声をかけた。
「君、怪我はしていない?」
「私は大丈夫です」
ナツミは答えた。
「それより、みんなを助けてください」
隊員はナツミの服を見た。
胸元には、ハルの血がべっとりとついている。
「その血は?」
「ハルのです」
平然と答えた。
「寒そうだったので、抱きしめてあげたんです」
隊員は言葉を失った。
やがて、別の隊員が警察へ連絡を入れた。
家の中には、明らかに事件の痕跡が残されていた。
救急隊員たちは三人を搬送する準備を進めた。
ナツミはその様子を見つめていた。
「病院に行けば、助かりますよね?」
誰も、すぐには答えなかった。
ナツミは笑った。
「大丈夫ですよね?」
その問いに、隊員の一人が静かに言った。
「今は、できる限りのことをします」
ナツミは頷いた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
そして、三人とともに病院へ向かった。
病院の廊下は、ひどく静かだった。
白い壁。
白い天井。
鼻につく薬品の匂い。
ナツミは椅子に座り、両手を膝の上で握りしめていた。
服には、まだ血がついている。
病院の職員が着替えを勧めたが、少女は首を振った。
「大丈夫です」
そう言って、笑った。
しばらくして、医師が現れた。
疲れた顔をしていた。
ナツミは立ち上がった。
「えっと、なにがどうなってるんですか?」
医師はすぐには答えなかった。
少女の顔を見つめ、静かに口を開いた。
「懸命に処置を行いましたが……」
言葉が途切れた。
ナツミは首を傾げた。
「はい」
医師は一度息を吸った。
「残念ながら、三名ともお亡くなりになりました」
廊下に沈黙が落ちた。
ナツミは医師の顔を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「あの、ハルは風邪をひいているんです」
医師は何も言わなかった。
「昨日まで熱が高かったんですけど、今朝は少し下がっていて」
ナツミは嬉しそうに続けた。
「だから、もう大丈夫だと思うんです」
「……」
「お父さんとお母さんも、風邪が移ったのかもしれません」
少女は首を傾げた。
「いつになったら、三人とも帰れますか?」
医師は表情を曇らせた。
「落ち着いて聞いてください」
「はい」
「ご家族は、もう……」
「そうだ」
ナツミは医師の言葉を遮った。
「ハル、ちゃんとご飯を食べましたか?」
医師は黙った。
「昨日はあまり食べられなかったんです。だから、今日は好きなものを買ってきたんですよ」
少女は笑った。
「でも、家に置いてきちゃいました」
その声が、少し震えた。
「取りに帰ったほうがいいですかね?」
医師は近くの職員に目配せした。
少女のそばに誰かをつける必要があると判断したのだろう。
ナツミは椅子に座り直した。
「ちょっと座っていいですか?足がおかしくて」
ナツミの足は震えていた。
医師は静かに頷いた。
少女は微笑んだ。
「分かりました」
その手足は、ずっと震えていた。
病院を出たあと、ナツミは警察署へ連れていかれた。
何人かの警察官が、入れ替わり立ち替わり話しかけていた。
家を出た時間。
帰宅した時間。
家族の様子。
不審な人物を見かけなかったか。
だが、ナツミには何を聞かれたのか、ほとんど記憶に残っていなかった。
自分が何を答えたのかさえ、曖昧だった。
気づけば事情聴取は終わっていた。
警察官が何かを説明していたが、ナツミは小さく頷くだけだった。
家はまだ現場検証が続いており、戻ることはできないらしい。
警察官が今夜の居場所について話し始めたところで、ナツミは立ち上がった。
「少し、外の空気を吸ってきます」
そう告げて、警察署を出た。
夜の空気は冷たかった。
ナツミは行く当てもなく歩き始めた。
どこへ向かっているのか、自分でも分かっていないようだった。
俺はその内側で、様子を眺めていた。
やがて、住宅街へ差しかかったときだった。
ガシャン、と何かが割れる音がした。
ナツミは足を止めた。
少し先の家から、二人の男が出てくるところだった。
一人は大きな袋を抱えている。もう一人は、窓から身を乗り出していた。
窓枠には割れたガラスが残っている。
どうやら、盗みの最中らしい。
男たちは何かを言い合い、袋の中身を確かめていた。
ナツミはその光景を、ぼんやりと見つめた。
他人の家に押し入り、物を奪う。
それを、何でもないことのように繰り返す。
ナツミの指先が震えた。
「こんな奴らに」
声が漏れた。
「こんな奴らに、奪われたんですか」
男の一人が顔を上げた。
ナツミと目が合う。
男は隣の男に何かを告げた。
二人の表情が変わった。
袋を地面に置き、一人が懐へ手を入れる。
刃物が取り出された。
ナツミは動かなかった。
男たちは足早に近づいてくる。
その刃先が、街灯の光を受けて鈍く光っている。
ナツミの唇が震えた。
「どうして」
男たちは答えなかった。
「どうして、そんな簡単に」
一人がナツミへ駆け寄った。
刃物を振り上げる。
まったく、面倒な連中だ。
俺が宿っている人間を殺そうとするとは。
ナツミが死ねば、俺も死ぬ。
別の人間に移ろうにも、相手の承諾と接触が必要になる。目の前の男たちが、そんなものに応じるはずもない。
ならば、こいつらを生かしておく理由はない。
『ナツミ』
俺は呼びかけた。
『目を閉じていろ』
黒い腕が、ナツミの背中から伸びた。
男が目を見開く。
その上着を掴み、勢いよく引き倒した。
もう一人が悲鳴を上げる。
俺の黒い腕は、生きた人間の肉体には直接触れられない。だが、服や物を掴むことはできるし、死体なら影の中に保管しておくこともできる。
以前しまっておいた人間の脚を、影から取り出した。
振り下ろす。
鈍い音が響いた。
倒れた男が動かなくなる。
もう一人は逃げようとしたが、俺は死んだ男の身体を掴み上げた。
そして、逃げる男に向かって投げつけた。
鈍い衝撃音が響き、二人の身体が地面に転がった。
もう一人の男も、動かなくなった。
俺は倒れた男の魂を引きずり出した。
俺はその魂を喰った。
男の記憶が流れ込んでくる。
薄暗い路地。安酒の匂い。盗んだ金を数える手。仲間と交わした下品な笑い声。
くだらん人生だった。
他人から奪い、奪ったものを使い果たし、また奪う。それを繰り返しているだけの男だ。
やがて、今日の昼間の記憶が目に留まった。
見覚えのある住宅街。
少し古い平屋。
玄関の建具には、父親が修理していた跡が残っている。
『ほう』
俺は思わず声を漏らした。
ナツミの家だ。
記憶の中で、男はもう一人の仲間とともに、その家の前に立っていた。
なんという偶然だろうな。
俺は、その先の記憶を覗いた。
男たちがナツミの家に目をつけた理由は、実に単純だった。
裏手の窓が通りから見えにくく、周囲に人影もなかった。それだけだ。
二人は窓を破り、家の中へ侵入した。
物音に気づいた父親が駆けつけ、男たちを追い払おうとした。だが、相手は刃物を持っていた。
父親は抵抗した末に刺され、床へ倒れた。
母親も、寝室で休んでいるハルを守ろうと男たちの前に立ちはだかった。
子供だけは見逃してほしいと懇願したが、男は聞く耳を持たなかった。
母親もまた、命を奪われた。
二人の男は、倒れた両親を放置して金品を探し始めた。
引き出しを開け、棚を漁り、金目のものを袋へ詰め込んでいく。
やがて、一人が寝室の扉を開けた。
そこには、布団に横たわるハルがいた。
扉の開く音に気づいたハルが、ゆっくりと顔を上げた。
「おじさん、誰?」
熱で赤くなった顔を男へ向ける。
「お父さんとお母さんは?」
男は答えなかった。
ハルは不思議そうに首を傾げた。
そして、枕元に置かれたパンに目を向けた。
「おじさん、お腹空いてるの?」
ハルはパンを手に取った。
「これ、あげる」
布団から少し身体を起こし、小さな手を伸ばす。
「ぼく、まだあんまり食べられないから」
ハルは微笑んだ。
「おじさん、食べていいよ」
男は無言でその手を払いのけた。
パンが床に転がった。
「あっ」
ハルがパンへ目を向けた、その瞬間だった。
男は刃物を突き出した。
ハルの身体が床へ倒れ込む。
男は動かなくなったハルを一瞥すると、寝室を出ていった。
床に転がったパンを拾い、埃を払って口へ運ぶ。
そして、パンを食べながら、再び金品をかき集め始めた。
男の記憶には、ハルの顔さえろくに残っていなかった。
名前も知らない。
何歳だったのかも覚えていない。
ただ、自分にパンを差し出してきた子供がいた。
男にとっては、それだけの出来事だった。
俺は男の記憶から意識を戻した。
実につまらん。
こいつは殺しておきながら、そのことを少しも悔やんでいなかった。
死の間際に浮かべた後悔も、自分の命を失うことに対してだけだ。
あの家で奪った命については、何の感情も抱いていない。
それどころか、ハルの差し出したパンを食べたことさえ、取るに足らない出来事として記憶していた。
俺にとっては味気ない魂だったが、一つだけ収穫があった。
ナツミの家族を殺した犯人が、偶然にも俺の目の前で死んだのだ。
しかも、もう一人の犯人は生きている。
これは面白くなりそうだ。
「シオンさん」
ナツミの声がした。
『なんだ?』
「もう、終わりましたか?」
『ああ』
ナツミは恐る恐る目を開けた。
目の前には、二人の男が倒れていた。
先ほどまで自分を殺そうとしていた男たちだ。
「この人たち、死んだんですか?」
『そうだ』
ナツミは口元を押さえた。
死体から目を逸らそうとしたが、どうしても視線が戻ってしまうらしい。
「私を、守ってくれたんですね」
『お前が死ねば、俺も死ぬ。それだけのことだ』
ナツミは小さく頷いた。
「それでも、ありがとうございます」
俺は返事をしなかった。
ナツミはしばらく男たちを見つめていた。
「この人たちも、泥棒なんですよね」
『ああ』
「どうして、こんなことをするんでしょうか」
答えるのは簡単だった。
欲しいものがあるから奪う。
邪魔な者がいれば殺す。
この男たちにとって、それ以上の理由など必要なかった。
だが、今のナツミにそんな説明をしても、納得はしないだろう。
『ナツミ』
「はい」
『お前に見せたいものがある』
ナツミは顔を上げた。
「何を、ですか?」
『お前の家族が、どうして死んだのか。その答えだ』
ナツミの表情が強張った。
「どういうことですか?」
『この男は、お前の家族を殺した犯人の一人だ』
ナツミは動かなかった。
俺の言葉が理解できなかったのか、理解したくなかったのか。
「この、人が?」
『ああ』
ナツミは男の死体を見下ろした。
「どうして、分かるんですか?」
『魂を喰ったからだ。こいつの記憶は、今見た』
ナツミは死体から目を離さなかった。
「じゃあ」
唇が震えた。
「シオンさんは、見たんですか?」
『見た』
「お父さんと、お母さんと、ハルが」
『ああ』
ナツミは胸元を握りしめた。
しばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「私にも、見せてください」
『いいのか?』
「お願いします」
俺はナツミの意識へ、男の記憶を流し込んだ。
窓を破って侵入する二人の男。
父親が抵抗し、倒れる。
母親がハルを守ろうとして、命を奪われる。
そして、寝室。
布団に横たわるハルが、見知らぬ男に顔を向ける。
「おじさん、お腹空いてるの?」
小さな手がパンを差し出す。
「これ、あげる」
ハルが笑う。
「おじさん、食べていいよ」
男がその手を払いのける。
パンが床に転がる。
刃物が突き出される。
ハルが倒れる。
そして、男が床からパンを拾い上げる。
何事もなかったかのように、それを食べ始める。
すべてを見せた。
ナツミは膝から崩れ落ちた。
「どうして」
涙が地面に落ちた。
「どうして、こんなひどいこと…」
ナツミは両手で顔を覆った。
しばらく嗚咽が続いたが、やがて顔を上げた。
その目は、男の死体を捉えていた。
「本当にこんな奴らに、奪われたんですね」
俺は黙ってナツミを眺めていた。
その目に宿っているのは、もはや悲しみだけではなかった。
「シオンさん」
『なんだ?』
「私が、連れていったからですか?」
『何をだ?』
「シオンさんを、です」
ナツミは俯いた。
「ハルが、私を心配してくれたから」
握りしめた拳が震えていた。
「私が断っていれば、ハルは」
その先を口にすることができなかったらしい。
『少なくとも、俺があの家にいれば、ハルは死ななかったろうな』
ナツミの肩が跳ねた。
『あの小僧は、お前を守ろうとして俺を譲った』
ナツミは地面を見つめたまま動かない。
『その結果、家族全員が死んだ。皮肉な話だな』
「やめてください」
『事実だ』
「もう、やめて!」
ナツミは両手で耳を塞いだ。
無駄なことだ。俺の声は宿主の内側に響く。耳を塞いだところで、聞こえなくなるわけではない。
「お願いですから、もう何も言わないでください」
俺は黙った。
ナツミは地面にうずくまり、肩を震わせていた。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、家族を殺した男の死体が転がっている。
「この人、もう死んでいるんですよね」
『ああ』
ナツミは男の顔を見つめた。
「そうですか」
胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
「私、さっきまで、この人が怖かったんです」
『そうだろうな』
「シオンさんが殺したときも、怖くて。人が死ぬところなんて、見たくありませんでした」
ナツミは一度目を伏せた。
「でも、この人が家族を殺したって分かったら」
再び死体へ目を向ける。
「死んでいて、よかったと思ってしまったんです」
ナツミは困ったように笑った。
「おかしいですよね。人が死んでいるのに、安心するなんて」
俺は何も言わなかった。
「でも、少しだけ楽になったんです」
ナツミは胸元を押さえた。
「ずっと苦しかったのに、この人がもう生きていないって分かったら、少しだけ」
その目から涙がこぼれた。
「ハルが帰ってくるわけでもないのに」
ナツミは涙を拭い、もう一度男の死体を見た。
その目には、先ほどまでの恐怖とは違う感情が宿っていた。
「シオンさん」
『なんだ?』
「もう一人、いるんですよね」
『ああ』
「お父さんとお母さんと、ハルを殺した人が」
『この男と一緒に家へ押し入った奴だな』
「その人は、まだ生きているんですか?」
『少なくとも、こいつと別れたときには生きていた』
ナツミは静かに頷いた。
「そうですか」
それから、ゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつき、近くの壁に手をつく。
「みんなは、もう生きられないのに」
ナツミは俯いたまま呟いた。
「その人は、今もどこかで普通に暮らしているんですね」
『そうだろうな』
ナツミは服についた土を払った。
その動作は、妙に丁寧だった。
「シオンさん」
『なんだ?』
「その人も殺したら、もっと楽になれるんでしょうか」
俺は答えなかった。
ナツミはしばらく考え込んでいた。
やがて顔を上げると、穏やかな声で言った。
「手伝ってください。その人も、殺しましょう」
俺はナツミの内側で笑った。
つい先ほどまで人が死ぬことに怯えていた少女が、今度は自ら殺人を望んでいる。
人間というものは、実に変わりやすい。
もっとも、俺にとっては好都合だ。
葬儀の日、ナツミは三つの棺の前に立っていた。
父親。
母親。
そして、ハル。
親戚や知人たちが次々と訪れ、花を手向けていく。
ナツミは誰かに声をかけられるたび、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
何度も同じ言葉を繰り返した。
だが、その視線はほとんどハルの棺に向けられていた。
やがて、最後の別れの時間が訪れた。
ナツミは弟の顔を覗き込んだ。
「ハル」
返事はない。
ナツミはそっと髪を整えた。
「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってきましたよ」
微笑もうとした口元が震えた。
「遅くなって、ごめんなさい」
その手は、なかなか弟から離れなかった。
係員に声をかけられ、ようやくナツミは身を引いた。
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。
棺が火葬炉へ運ばれていく。
扉が閉まる直前、ナツミは小さく手を振った。
「ハル、またね」
扉が閉じられた。
ナツミは、その場から動かなかった。
やがて火葬が終わり、三人の遺骨が収められた。
ハルの骨壺は、両親のものより小さかった。
ナツミはそれを両手で抱えた。
「こんなに、小さくなっちゃったんですね」
誰にともなく呟いた。
「まだ、十一歳だったのに」
近くにいた親戚が顔を背けた。
ナツミは泣かなかった。
ただ、骨壺を落とさないように、両腕に力を込めていた。
船が沖へ出た。
空は晴れ渡り、穏やかな波が陽光を反射していた。
ナツミは父親、母親、そしてハルの遺骨を、順番に海へ撒いた。
最後にハルの遺骨が波間へ消えると、ナツミは空になった容器を胸に抱きしめた。
「さようなら」
その声は、風に紛れて消えた。
アマツでは、こうして遺骨を海へ撒くことが一般的になっていた。
墓石の盗難や墓地荒らしが相次ぎ、一部の外来者による無許可の土葬も問題となった結果、今では海洋散骨が主流となっている。
ナツミがしばらく海を眺めていると、船内のラジオからニュースが聞こえてきた。
『本日未明、市内で発生した強盗事件について、警察は外国籍から来た男二人の行方を追っています。現場では住人が負傷しており、現在も捜査が続けられています』
ナツミはゆっくりと顔を上げた。
『また、近隣地域で発生した少女の誘拐事件について、逮捕されていた容疑者の男が、不起訴処分となりました。少女は現在も行方が分かっておらず、警察は引き続き捜査を進めています』
ラジオはそのまま、別のニュースを読み上げ始めた。
「また、ですか」
ナツミが小さく呟いた。
「シオンさん」
『なんだ?』
「昔は、もっと平和だったんですよ」
ナツミは海を見つめたまま話し始めた。
「イミーン人がたくさん来るようになる前は、こんなに強盗も誘拐もありませんでした」
『そうか』
「お母さんも、最近は物騒だから気をつけなさいって、いつも言っていました」
ナツミは小さく笑った。
「私、ちゃんと気をつけていたんですよ。寄り道もしないで、まっすぐ帰ったんです」
空になった容器を抱く手に力がこもった。
「でも、家にいたみんなが殺されちゃいました」
笑みが消えた。
「家族を殺した人たちが、憎いです」
ナツミは唇を噛み、海へ視線を落とした。
「どうして、あんなことができるんでしょうね。人を殺して、物を盗んで、何もなかったみたいに生きていけるなんて」
俺は何も言わなかった。
ナツミの言うことは、もっともだ。あの男は三人もの命を奪いながら、そのことを少しも悔やんでいなかった。
死の間際にさえ、自分が殺されることしか考えていなかったのだからな。
「許せない」
ナツミは顔を上げた。
「イミーン人が、憎いです」
その言葉を聞いて、俺は少し興味を覚えた。
なるほど。家族を殺した連中だけでは飽き足らず、今度は無関係な者まで憎み始めたか。
実に愉快な話だ。
「あの人たちがいなくなれば、昔みたいに平和になるんじゃないでしょうか」
ナツミは誰に尋ねるでもなく呟いた。
「そうですよね。いなくなればいいんです」
その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「世直しをしましょう。イミーン人を殺すために力を貸してください」
ずいぶんと穏やかな声だった。
まるで、明日の予定でも決めるかのように。
「そうすれば、もう誰も私たちみたいな思いをしなくて済みますよね」
ナツミは胸に手を当てた。
「あの人が死んだとき、少しだけ苦しくなくなったんです。だから、きっと」
言葉を切り、涙の残る顔で微笑んだ。
「みんないなくなれば、もっと楽になれると思うんです」
なるほど。
一人の死によって得た安堵を、今度は大勢の死によって得ようというわけか。
実に単純で、実に人間らしい考えだ。
「あっ、でも」
ナツミは何かを思い出したように顔を上げた。
「イミーン人だけじゃ駄目ですね」
『ほう?』
「あの人たちをアマツに入れた国の偉い人たちも、責任がありますよね」
ナツミは一人で頷いた。
「そうです。あの人たちが入ってこなければ、お父さんも、お母さんも、ハルも死なずに済んだんですから」
空になった容器を抱き直す。
「政治家の人たちも、許せません」
『そいつらも殺すつもりか?』
「はい」
迷いのない返事だった。
「だって、放っておいたら、また誰かが殺されてしまいます」
ナツミは俺に語りかける。
「シオンさんが手伝ってくれれば、できますよね?」
『さてな』
「できますよ。だって、あんなに強いんですから」
俺の返事など、初めから必要なかったらしい。
ナツミは海へ向き直った。
「お父さん、お母さん、ハル」
波が船腹を静かに叩いていた。
「もう大丈夫ですよ」
涙に濡れた顔に、明るい笑みが広がる。
「私が、平和な世界を取り戻しますから」
ナツミは胸の前で両手を握った。
「全部、許さない」
俺はナツミの内側で笑った。
家族を奪われた少女が、今度は他人の家族を奪おうとしている。
それも、自分が正しいと信じて疑わない。
実に愉快ではないか。
こいつがこれから何人殺すのか、俺には分からん。だが、そんなことはどうでもいい。
俺が楽しみにしているのは、その先だ。
いつか、自分が憎んでいた人間と同じことをしていたと気づいたとき、こいつはどれほどの後悔に沈むのだろう。
想像するだけで腹が空いてくる。
もっとも、こいつが死ねば俺も死ぬ。魂を味わうためにも、それまでは生かしておかねばならん。
俺はナツミの目を通して海を眺めた。
陽が傾き、水平線が赤く染まり始めている。
ナツミはまだ微笑んでいた。
その姿を見ているうちに、ふと、あの小僧のことを思い出した。
ハル。
俺を悪魔と知りながら、少しも恐れなかった奇妙な少年。
すべては、あの小僧との出会いから始まった。
プロローグ 終




