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プロローグ 喪失

 人間は、実に奇妙な生き物だ。


 自分と異なるものを恐れ、理解できないものを遠ざける。生まれた土地が違うというだけで相手を嫌い、言葉が通じないというだけで敵意を向ける。


 そして、一度憎む理由を見つけてしまえば、その憎しみが正しいかどうかなど、ろくに考えもしない。


 ここ、アマツという国には、イミーン人と呼ばれる者たちがいる。


 もっとも、イミーンなどという国は存在しない。


 アマツの外からやってきた人間を、出身地も民族も関係なく、ひとまとめにしてそう呼んでいるだけだ。そこには侮蔑の意味が込められている。


 外から来た者の中には、真面目に働く者もいる。家族を養うために故郷を離れた者もいれば、争いから逃れてきた者もいる。


 一方で、犯罪に手を染める者もいた。


 最近は強盗や誘拐が相次ぎ、その犯人としてイミーン人が疑われている。実際に捕まった者もいるらしい。


 だが、罪を犯した者が一人いれば、同じ呼び名で括られた無関係の人間まで憎まれる。


 人間というものは、実に都合よくできている。


 俺には関係のない話だがな。


 誰が誰を憎もうと、殺そうと、どうでもいい。


 俺が興味を持つのは、その先に生まれる後悔だけだ。


 人間の魂は、後悔によって味を変える。


 取り返しのつかない過ちを犯し、失ったものの大きさに気づいたとき、その魂は実に美味くなる。


 特に、自分が正しいと信じて疑わなかった者が、自らの罪を知った瞬間。


 あれは格別だ。


 そして俺は、ある少女の魂に目をつけていた。


 名を、ナツミという。





「けほっ、けほっ」


 小さな咳が、寝室に響いた。


「ハル、まだ熱がありますね」


 ナツミが少年の額に手を当てた。


 十四歳の少女だった。


 肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、年齢のわりに落ち着いた物腰をしている。言葉遣いも丁寧で、年下のハルに対してさえ、滅多にそれを崩さない。


 額に触れられているのは、十一歳の少年、ハルだ。


 数日前から風邪をひいており、昨日までは熱も高かった。


 今朝になってようやく起き上がれるようになったものの、まだ顔が赤い。


「でも、昨日よりずっと元気だよ!」


 ハルは笑って答えた。


 直後に咳き込んだせいで、説得力は皆無だったが。


「元気になってきたからこそ、今日は休んでください」


「えー、もう寝るの飽きちゃった」


「だめです。ちゃんと治るまでは我慢してください」


「はーい」


 ハルは素直に布団へ潜り込んだ。


 実に聞き分けのいい小僧だ。


 俺の名は、ヴォラクシオン。


 悪魔である。


 今は、このハルという少年の身体に宿っている。


 もっとも、小僧は俺の名前をまともに呼んだことがない。


 長くて覚えられないらしく、いつも「おじさん」と呼ぶ。


 ナツミのほうは「シオンさん」だ。


 勝手に名前を短くしやがって。


 まあ、どうでもいいことだが。


 家は住宅街の一角に建つ、少し古い平屋だった。


 廊下を歩けば床板が軋み、建具にも多少の傷みが見られる。それでも室内はきれいに片づけられ、家具も大切に使われていた。


 居間には四人が囲む食卓があり、棚の上にはハルが描いた家族の絵が額に入れて飾られている。


 四人の顔立ちも体格も、実物とはまるで似ていなかった。


 それでも、この家の人間たちは、その絵を大切にしているらしい。


 俺には理由が分からなかった。


 似ていないものを描いて、何が嬉しいのだろうな。


「ハル、少しお水を飲みましょうか」


 ナツミが枕元のコップを手に取った。


「うん!」


 ハルは身体を起こし、水を飲んだ。


 そのとき、廊下から足音が聞こえた。


「ハル、調子はどうだ?」


 父親だった。


 片手には工具を持っている。


 今日は仕事が休みらしく、朝から家の傷んだ建具を修理していた。


「もう元気だよ!」


「そうか。じゃあ、もう少し寝ていられるな」


「ええっ、なんで?」


「元気になったら、もっと遊べるだろ?」


 父親は笑いながら、ハルの頭を撫でた。


「今日は無理するなよ」


「うん!」


 その後ろから、母親が顔を出した。


「ナツミ、ちょっといい?」


「なあに、お母さん?」


「夕飯の材料が足りなくてね。買い物をお願いできる?」


「うん、いいよ。何を買ってくればいい?」


「野菜と、お肉を少し。ハルも元気になってきたし、今日は温かいものを作ろうと思って」


「分かった!」


 ナツミは嬉しそうに頷いた。


「お母さんは行かないの?」


「ハルの様子も見ていたいし、夕飯の準備もあるからね」


「そっか。じゃあ、私が行ってくるよ」


「ありがとう。助かるわ」


 父親が工具を持ち直した。


「俺もこっちを直しておきたいしな。悪いけど頼むよ」


「ううん、大丈夫」


 ナツミは笑った。


「ハルは、お留守番をお願いしますね」


「ぼくも行けるよ?」


「だめです」


 即答だった。


「今日は絶対に休んでいてください」


「わかった」


 ハルは頷いたが、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。


 両親が廊下へ戻ったのを確かめると、ナツミの袖を小さく引いた。


「ねえ、ナツミちゃん」


「どうしました?」


「おじさん、連れていって」


 ナツミは少し驚いた顔をした。


「シオンさんを、ですか?」


「うん!」


『なぜ俺が?』


 思わず口を挟んだ。


 ハルは真剣な顔をしていた。


「だって、最近、女の子がいなくなる事件が多いんでしょ?」


『そうらしいな』


「ナツミちゃん、一人だと危ないよ」


「大丈夫ですよ。明るいうちに帰ってきますから」


「でも、何かあったら嫌だもん」


 ハルは布団の端を握った。


「おじさんが一緒なら、安心でしょ?」


 こいつは俺を何だと思っているのだろう。


 しかし小僧に憑りついていても、小僧は風邪をひいている。


 しばらくは代わり映えのない景色も退屈だな。


『好きにしろ』


「ありがとう、おじさん!」


 ハルは嬉しそうに笑った。


 ナツミも微笑んだ。


「シオンさん、ありがとうございます」


 俺は返事をしなかった。


「ふふっ」


 まったく、律儀な少女だ。


 ナツミはハルの布団を整えた。


「お水はここに置いておきますね。喉が渇いたら飲んでください」


「うん!」


「それから、無理に起き上がらないでください。お父さんとお母さんの言うことも、ちゃんと聞いてくださいね」


「はーい!」


 返事だけは立派だった。


 ナツミは最後にもう一度、ハルの額へ手を当てた。


「帰ってきたら、また熱を確かめましょうね」


「うん!」


「ではシオンさん、私と一緒に来ていただけますか?」


『好きにしろ』


 ハルは布団から片手を出した。


「いってらっしゃい、ナツミちゃん!」


 ナツミはその手を握った。


 二人の手が触れた瞬間、俺はハルの身体を離れ、ナツミへと移った。


 悪魔が宿主を変えるには、次の宿主となる人間の承諾と、物理的な接触が必要だ。


 握手でも、肩に触れるだけでも構わない。


 だが、相手が拒めば憑依することはできない。


 そして、何より厄介なのは、宿主が死ねば、そこに宿る悪魔も死ぬということだ。


 死んでから別の人間へ移ることはできない。


 つまり、俺たち悪魔は、自分の命を人間という脆弱な生き物に預けていることになる。


 実に馬鹿げた制約だ。


 もっとも、今の俺にとっては、ナツミを守る理由が一つ増えただけのことだがな。


 俺は魔界で数え切れないほどの魂を喰ってきた。その中には、アマツの人間も、外の土地で生まれ育った人間もいた。


 魂を喰えば、その者が生きてきた記憶が俺のものになる。


 言葉も例外ではない。


 だから俺は、アマツの言葉だけでなく、外来者たちが使うさまざまな言語も理解できる。


 そして、俺が宿っている間は、宿主もまた、俺の知る言葉を理解できるようになる。


 もっとも、それは俺が与えている力にすぎない。


 俺が身体を離れれば、その恩恵も失われる。


「じゃあ、行ってくるね」



 外はよく晴れていた。


 柔らかな日差しが、住宅街の道を照らしている。


 少女は一度だけ家を振り返った。


 父親は玄関の建具を確かめていた。


 母親は台所へ戻り、ハルの咳が寝室から聞こえた。


 どこにでもある、ありふれた家庭の光景だった。


 ナツミは扉を閉めた。


 それが、家族四人が揃った最後の朝となった。








 ナツミは買い物かごを手に取り、野菜売り場へ向かった。


「今日は何を作るんでしょうね」


『俺に聞くな』


「ふふ、そうですね」


 少女は楽しそうだった。


「ハル、昨日はあまり食べられませんでしたから」


 ナツミは野菜を手に取り、傷んでいないか確かめた。


「今日は消化のいいものがいいですよね」


『何でもいいだろう。腹に入れば同じだ』


「そんなことありませんよ」


 ナツミは少しだけ頬を膨らませた。


「食べるものによって、元気の出方も違いますから」


『人間は面倒だな』


「そうかもしれませんね」


 そう言いながらも、少女は笑っていた。


 少し離れた売り場で、ハルの好きな菓子を見つけたらしい。


 値札を見て、しばらく迷っていた。


 そして、結局買い物かごに入れた。


『頼まれたものではないだろう』


「今日は特別です」


『何が特別なのだ?』


「ハルが元気になってきましたから」


 ナツミはかごの中を覗いた。


「これを見せたら、きっと喜びます」


 俺は返事をしなかった。


 人間はそういう無駄を好むらしい。


 買い物を終え、レジで会計を済ませる。


 袋に商品を詰めているうちに、外は少しずつ暗くなり始めていた。


「少し遅くなってしまいましたね」


『そうだな』


「ハル、お腹を空かせているでしょうか」


『両親がいるのだろう。何か食わせているはずだ』


「そうでしたね」


 ナツミは小さく笑った。


「でも、ちゃんと寝ているか心配です」


『あの小僧なら、言われたとおり寝ているだろう』


「そうだといいんですけど」


 少女は足を速めた。


 俺は、その内側で退屈していた。


 何も起こらない一日だった。


 少なくとも、そのときはそう思っていた。










「ただいま」


 ナツミが家の扉を開けた。


 返事はなかった。


 いつもなら、誰かが返事をする。


 母親が台所から顔を出すか、父親が声をかけるか。


 それより早く、ハルが嬉しそうに駆け寄ってくることも多かった。


 だが、家の中は静まり返っていた。


 ナツミが靴を脱ぎ、廊下へ上がる。


 床板が小さく軋んだ。


 不思議に思いながらも、少女は買い物袋を抱えたまま、居間へ向かった。


 そこで足が止まった。


 棚が開いていた。


 引き出しが床に転がり、食器が散乱している。


 家族で食事をするための机も倒れていた。


 棚の上には、ハルが描いた家族の絵が額に入ったまま残されていた。


 その下にある引き出しだけが、乱暴に開け放たれている。


『荒らされているな』


「お父さん、お母さん、ハル?」


 ナツミは俺の言葉に答えなかった。


 部屋の奥へ進む。


 そして、見つけた。


 床に転がっている、二つの身体を。


「え?」


 袋が手から滑り落ちた。


 中身が床に散らばる。


 父親が転がっていた。


 その少し先には、母親も横たわっている。


 二人とも、動かなかった。


「お父さん?」


 ナツミは父親へ駆け寄った。


「どうしたの?」


 返事はない。


「ねえ、起きてよ」


 肩を揺する。


 父親の身体が、力なく動いた。


「お父さん?」


 ナツミは父親の顔を覗き込んだ。


 その服には、大きな赤黒い染みが広がっていた。


 床にも血がこびりついている。


 少女の手が止まった。


「お母さん?」


 今度は母親へ駆け寄った。


「お母さん、起きて」


 肩に触れる。


「どうしたの? 何があったの?」


 母親も動かなかった。


 ナツミは二人を交互に見た。


「ねえ、返事してよ」


 声が震えた。


 そのとき、何かに気づいたように顔を上げた。


「ハル?」


 少女は周囲を見回した。


「ハル、どこ?」


 居間にはいない。


 台所にも姿がない。


 ナツミは立ち上がり、廊下へ飛び出した。


「ハル!」


 寝室へ向かう。


「ハル、いるんですよね?」


 扉に手をかけた。


 開ける。


 そこには、血に染まった床と、動かなくなった少年がいた。


「ハル?」


 ナツミは駆け寄った。


 少年は床に倒れていた。


 服には血が染み込み、赤黒い跡が残っている。


「どうしたんですか?」


 少女は膝をついた。


「こんなところで寝ていたら、風邪がひどくなってしまいますよ」


 返事はない。


 ナツミはハルの肩に手をかけた。


 そして、ゆっくりと抱き起こした。


 その拍子に、少年の服に染み込んだ血がナツミの胸元へべっとりとついた。


 赤黒い汚れが、服に広がっていく。


 ナツミは気に留めなかった。


「ほら、起きてください。帰ってきましたよ?」


 少年の頭が、力なく傾いた。


 ナツミはそれを支え、乱れた髪を指で整えた。


「ハル?」


 返事はない。


 少女はハルの額に手を当てた。


 その指先が止まった。


「熱が…下がっていますね」


 小さく笑った。


「よかった。もう熱は引いたようですね」


「それにしても冷えすぎですよ」


 両手で頬を包み込む。


 それから、何かを思いついたように頷いた。


「ああ、そうか。寒かったんですね」


 ナツミはハルをそっと布団に寝かせた。


「お風呂、入れてきますね」


 そう言って、寝室を出た。


 居間に転がっている両親のそばを通り過ぎ、浴室へ向かった。


 浴槽の蓋を開け、栓を抜く。


 掃除用のスポンジに洗剤をつけ、浴槽を洗い始めた。


 その顔には、何の表情もなかった。


 キュッキュッという音だけが、静まり返った家の中に響いている。


 ナツミはただ黙々と洗い続けた。


 やがて泡を洗い流し、浴槽の栓を閉める。


 壁の操作パネルに手を伸ばした。


 ピッ。


『お湯はりをします。浴槽の栓はしまっていますか』


 機械の声が響いた。


 ナツミは操作パネルをぼーっと見つめている。


 しばらくすると、寝室へ戻った。


「ハル、お待たせしました」


 少年のそばに膝をつく。


「今、お湯を入れていますからね。もう少し待っていてください」


 ハルの手を取った。


 冷たい。


 ナツミはその手を両手で包み込み、何度も擦った。


「それまで、私が温めてあげますね」


 少女は微笑んだ。


 ハルの手を自分の頬へ押し当てる。


「ほら、こうすれば温かいでしょう?」


 返事はなかった。


「ハル?」


 ナツミは首を傾げた。


「もう、寝たふりはやめてください」


 少年は動かなかった。


「ハルの好きなもの、買ってきたんですよ」


 少女は嬉しそうに笑った。


「一緒に食べましょう?」


 沈黙。


 ナツミはハルの肩を軽く揺すった。


「私、帰ってきましたよ?」


 ハルの頭が、力なく揺れる。


「おかえりって、言ってくださいよ」


 声が、わずかに震えた。


 その目から、一粒の涙がこぼれた。


 ナツミは気づいていないようだった。


「おかしいですね」


 乾いた笑いが漏れた。


「どうして、温かくならないんでしょう?」


 少女は笑っていた。


 涙を流しながら。


「ねえ、ハル」


 返事はなかった。


 浴室からは、湯が注がれる音が聞こえ続けていた。


 誰も使うことのない浴槽に、温かい湯だけが溜まっていく。


 ナツミはハルの手を握ったまま、動かなかった。


 やがて、少女は何かを思い出したように顔を上げた。


「そうだ」


 小さく呟く。


「救急車を呼ばないと」


 ナツミはハルをそっと布団へ寝かせた。


「待っていてくださいね」


 少年の頬を撫でる。


「すぐに、救急車を呼びますから」


 少女は立ち上がった。


 足元がふらつき、壁に手をつく。


 それでも居間へ戻った。


「お父さん、お母さん」


 二人は転がったままだった。


「もう少し待ってて。すぐに助けてもらうから」


 ナツミは震える手で電話を取った。


 何度か番号を押し間違えた。


 それでも、ようやく救急へつながった。


「助けてください」


 少女は電話口で言った。


「家族が、なんか動かないんです」


 相手が何かを尋ねた。


「血が出ていて。でも、まだ大丈夫だと思うんです」


 電話の向こうで、相手の声が強くなった。


 ナツミは住所を告げた。


「早く来てください」


 その声が震えた。


 電話を切ったあと、ナツミは居間の床に座り込んだ。


 父親と母親を見つめる。


「もうすぐ、救急車が来るからね」


 少女は小さく笑った。


「大丈夫。きっと助かるから」


 俺は黙っていた。


 死者を助けることなど、誰にもできない。


 浴室では、今も湯が注がれている。


 ハルのために用意された、温かい風呂。


 その湯に、ハルが浸かることは二度とない。


 



 救急車の音が近づいてきた。


 やがて、家の前に停まる。


 救急隊員たちが駆け込んできた。


 居間の惨状を見た瞬間、彼らの表情が変わった。


 ナツミは立ち上がった。


「お願いします。お父さんとお母さんが」


 声が震えた。


「それから、ハルもいるんです。奥の部屋に」


 救急隊員たちは手分けして三人の状態を確認した。


 そのうちの一人が、ナツミに声をかけた。


「君、怪我はしていない?」


「私は大丈夫です」


 ナツミは答えた。


「それより、みんなを助けてください」


 隊員はナツミの服を見た。


 胸元には、ハルの血がべっとりとついている。


「その血は?」


「ハルのです」


 平然と答えた。


「寒そうだったので、抱きしめてあげたんです」


 隊員は言葉を失った。


 やがて、別の隊員が警察へ連絡を入れた。


 家の中には、明らかに事件の痕跡が残されていた。


 救急隊員たちは三人を搬送する準備を進めた。


 ナツミはその様子を見つめていた。


「病院に行けば、助かりますよね?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 ナツミは笑った。


「大丈夫ですよね?」


 その問いに、隊員の一人が静かに言った。


「今は、できる限りのことをします」


 ナツミは頷いた。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げた。


 そして、三人とともに病院へ向かった。




 

 病院の廊下は、ひどく静かだった。


 白い壁。


 白い天井。


 鼻につく薬品の匂い。


 ナツミは椅子に座り、両手を膝の上で握りしめていた。


 服には、まだ血がついている。


 病院の職員が着替えを勧めたが、少女は首を振った。


「大丈夫です」


 そう言って、笑った。


 しばらくして、医師が現れた。


 疲れた顔をしていた。


 ナツミは立ち上がった。


「えっと、なにがどうなってるんですか?」


 医師はすぐには答えなかった。


 少女の顔を見つめ、静かに口を開いた。


「懸命に処置を行いましたが……」


 言葉が途切れた。


 ナツミは首を傾げた。


「はい」


 医師は一度息を吸った。


「残念ながら、三名ともお亡くなりになりました」


 廊下に沈黙が落ちた。


 ナツミは医師の顔を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「あの、ハルは風邪をひいているんです」


 医師は何も言わなかった。


「昨日まで熱が高かったんですけど、今朝は少し下がっていて」


 ナツミは嬉しそうに続けた。


「だから、もう大丈夫だと思うんです」


「……」


「お父さんとお母さんも、風邪が移ったのかもしれません」


 少女は首を傾げた。


「いつになったら、三人とも帰れますか?」


 医師は表情を曇らせた。


「落ち着いて聞いてください」


「はい」


「ご家族は、もう……」


「そうだ」


 ナツミは医師の言葉を遮った。


「ハル、ちゃんとご飯を食べましたか?」


 医師は黙った。


「昨日はあまり食べられなかったんです。だから、今日は好きなものを買ってきたんですよ」


 少女は笑った。


「でも、家に置いてきちゃいました」


 その声が、少し震えた。


「取りに帰ったほうがいいですかね?」


 医師は近くの職員に目配せした。


 少女のそばに誰かをつける必要があると判断したのだろう。


 ナツミは椅子に座り直した。


「ちょっと座っていいですか?足がおかしくて」


 ナツミの足は震えていた。


 医師は静かに頷いた。


 少女は微笑んだ。


「分かりました」


 その手足は、ずっと震えていた。





 病院を出たあと、ナツミは警察署へ連れていかれた。


 何人かの警察官が、入れ替わり立ち替わり話しかけていた。


 家を出た時間。


 帰宅した時間。


 家族の様子。


 不審な人物を見かけなかったか。


 だが、ナツミには何を聞かれたのか、ほとんど記憶に残っていなかった。


 自分が何を答えたのかさえ、曖昧だった。


 気づけば事情聴取は終わっていた。


 警察官が何かを説明していたが、ナツミは小さく頷くだけだった。


 家はまだ現場検証が続いており、戻ることはできないらしい。


 警察官が今夜の居場所について話し始めたところで、ナツミは立ち上がった。


「少し、外の空気を吸ってきます」


 そう告げて、警察署を出た。


 夜の空気は冷たかった。


 ナツミは行く当てもなく歩き始めた。


 どこへ向かっているのか、自分でも分かっていないようだった。


 俺はその内側で、様子を眺めていた。


 やがて、住宅街へ差しかかったときだった。


 ガシャン、と何かが割れる音がした。


 ナツミは足を止めた。


 少し先の家から、二人の男が出てくるところだった。


 一人は大きな袋を抱えている。もう一人は、窓から身を乗り出していた。


 窓枠には割れたガラスが残っている。


 どうやら、盗みの最中らしい。


 男たちは何かを言い合い、袋の中身を確かめていた。


 ナツミはその光景を、ぼんやりと見つめた。


 他人の家に押し入り、物を奪う。


 それを、何でもないことのように繰り返す。


 ナツミの指先が震えた。


「こんな奴らに」


 声が漏れた。


「こんな奴らに、奪われたんですか」


 男の一人が顔を上げた。


 ナツミと目が合う。


 男は隣の男に何かを告げた。


 二人の表情が変わった。


 袋を地面に置き、一人が懐へ手を入れる。


 刃物が取り出された。


ナツミは動かなかった。


 男たちは足早に近づいてくる。


 その刃先が、街灯の光を受けて鈍く光っている。


 ナツミの唇が震えた。


「どうして」


 男たちは答えなかった。


「どうして、そんな簡単に」


 一人がナツミへ駆け寄った。


 刃物を振り上げる。


 まったく、面倒な連中だ。


 俺が宿っている人間を殺そうとするとは。


 ナツミが死ねば、俺も死ぬ。


 別の人間に移ろうにも、相手の承諾と接触が必要になる。目の前の男たちが、そんなものに応じるはずもない。


 ならば、こいつらを生かしておく理由はない。


『ナツミ』


 俺は呼びかけた。


『目を閉じていろ』


 黒い腕が、ナツミの背中から伸びた。


 男が目を見開く。


 その上着を掴み、勢いよく引き倒した。


 もう一人が悲鳴を上げる。


 俺の黒い腕は、生きた人間の肉体には直接触れられない。だが、服や物を掴むことはできるし、死体なら影の中に保管しておくこともできる。


 以前しまっておいた人間の脚を、影から取り出した。


 振り下ろす。


 鈍い音が響いた。


 倒れた男が動かなくなる。


 もう一人は逃げようとしたが、俺は死んだ男の身体を掴み上げた。


 そして、逃げる男に向かって投げつけた。


 鈍い衝撃音が響き、二人の身体が地面に転がった。


 もう一人の男も、動かなくなった。


 俺は倒れた男の魂を引きずり出した。


 俺はその魂を喰った。


 男の記憶が流れ込んでくる。


 薄暗い路地。安酒の匂い。盗んだ金を数える手。仲間と交わした下品な笑い声。


 くだらん人生だった。


 他人から奪い、奪ったものを使い果たし、また奪う。それを繰り返しているだけの男だ。


 やがて、今日の昼間の記憶が目に留まった。


 見覚えのある住宅街。


 少し古い平屋。


 玄関の建具には、父親が修理していた跡が残っている。


『ほう』


 俺は思わず声を漏らした。


 ナツミの家だ。


 記憶の中で、男はもう一人の仲間とともに、その家の前に立っていた。


 なんという偶然だろうな。


 俺は、その先の記憶を覗いた。



 


 男たちがナツミの家に目をつけた理由は、実に単純だった。


 裏手の窓が通りから見えにくく、周囲に人影もなかった。それだけだ。


 二人は窓を破り、家の中へ侵入した。


 物音に気づいた父親が駆けつけ、男たちを追い払おうとした。だが、相手は刃物を持っていた。


 父親は抵抗した末に刺され、床へ倒れた。


 母親も、寝室で休んでいるハルを守ろうと男たちの前に立ちはだかった。


 子供だけは見逃してほしいと懇願したが、男は聞く耳を持たなかった。


 母親もまた、命を奪われた。


 二人の男は、倒れた両親を放置して金品を探し始めた。


 引き出しを開け、棚を漁り、金目のものを袋へ詰め込んでいく。


 やがて、一人が寝室の扉を開けた。


 そこには、布団に横たわるハルがいた。


 扉の開く音に気づいたハルが、ゆっくりと顔を上げた。


「おじさん、誰?」


 熱で赤くなった顔を男へ向ける。


「お父さんとお母さんは?」


 男は答えなかった。


 ハルは不思議そうに首を傾げた。


 そして、枕元に置かれたパンに目を向けた。


「おじさん、お腹空いてるの?」


 ハルはパンを手に取った。


「これ、あげる」


 布団から少し身体を起こし、小さな手を伸ばす。


「ぼく、まだあんまり食べられないから」


 ハルは微笑んだ。


「おじさん、食べていいよ」


 男は無言でその手を払いのけた。


 パンが床に転がった。


「あっ」


 ハルがパンへ目を向けた、その瞬間だった。


 男は刃物を突き出した。


 ハルの身体が床へ倒れ込む。


 男は動かなくなったハルを一瞥すると、寝室を出ていった。


 床に転がったパンを拾い、埃を払って口へ運ぶ。


 そして、パンを食べながら、再び金品をかき集め始めた。


 男の記憶には、ハルの顔さえろくに残っていなかった。


 名前も知らない。


 何歳だったのかも覚えていない。


 ただ、自分にパンを差し出してきた子供がいた。


 男にとっては、それだけの出来事だった。


 



 俺は男の記憶から意識を戻した。


 実につまらん。


 こいつは殺しておきながら、そのことを少しも悔やんでいなかった。


 死の間際に浮かべた後悔も、自分の命を失うことに対してだけだ。


 あの家で奪った命については、何の感情も抱いていない。


 それどころか、ハルの差し出したパンを食べたことさえ、取るに足らない出来事として記憶していた。


 俺にとっては味気ない魂だったが、一つだけ収穫があった。


 ナツミの家族を殺した犯人が、偶然にも俺の目の前で死んだのだ。


 しかも、もう一人の犯人は生きている。


 これは面白くなりそうだ。


「シオンさん」


 ナツミの声がした。


『なんだ?』


「もう、終わりましたか?」


『ああ』


 ナツミは恐る恐る目を開けた。


 目の前には、二人の男が倒れていた。


 先ほどまで自分を殺そうとしていた男たちだ。


「この人たち、死んだんですか?」


『そうだ』


 ナツミは口元を押さえた。


 死体から目を逸らそうとしたが、どうしても視線が戻ってしまうらしい。


「私を、守ってくれたんですね」


『お前が死ねば、俺も死ぬ。それだけのことだ』


 ナツミは小さく頷いた。


「それでも、ありがとうございます」


 俺は返事をしなかった。


 ナツミはしばらく男たちを見つめていた。


「この人たちも、泥棒なんですよね」


『ああ』


「どうして、こんなことをするんでしょうか」


 答えるのは簡単だった。


 欲しいものがあるから奪う。


 邪魔な者がいれば殺す。


 この男たちにとって、それ以上の理由など必要なかった。


 だが、今のナツミにそんな説明をしても、納得はしないだろう。


『ナツミ』


「はい」


『お前に見せたいものがある』


 ナツミは顔を上げた。


「何を、ですか?」


『お前の家族が、どうして死んだのか。その答えだ』


 ナツミの表情が強張った。


「どういうことですか?」


『この男は、お前の家族を殺した犯人の一人だ』


 ナツミは動かなかった。


 俺の言葉が理解できなかったのか、理解したくなかったのか。


「この、人が?」


『ああ』


 ナツミは男の死体を見下ろした。


「どうして、分かるんですか?」


『魂を喰ったからだ。こいつの記憶は、今見た』


 ナツミは死体から目を離さなかった。


「じゃあ」


 唇が震えた。


「シオンさんは、見たんですか?」


『見た』


「お父さんと、お母さんと、ハルが」


『ああ』


 ナツミは胸元を握りしめた。


 しばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。


「私にも、見せてください」


『いいのか?』


「お願いします」


 俺はナツミの意識へ、男の記憶を流し込んだ。


 窓を破って侵入する二人の男。


 父親が抵抗し、倒れる。


 母親がハルを守ろうとして、命を奪われる。


 そして、寝室。


 布団に横たわるハルが、見知らぬ男に顔を向ける。


「おじさん、お腹空いてるの?」


 小さな手がパンを差し出す。


「これ、あげる」


 ハルが笑う。


「おじさん、食べていいよ」


 男がその手を払いのける。


 パンが床に転がる。


 刃物が突き出される。


 ハルが倒れる。


 そして、男が床からパンを拾い上げる。


 何事もなかったかのように、それを食べ始める。


 すべてを見せた。




 ナツミは膝から崩れ落ちた。


「どうして」


 涙が地面に落ちた。


「どうして、こんなひどいこと…」


 ナツミは両手で顔を覆った。


 しばらく嗚咽が続いたが、やがて顔を上げた。


 その目は、男の死体を捉えていた。


 「本当にこんな奴らに、奪われたんですね」


 俺は黙ってナツミを眺めていた。


 その目に宿っているのは、もはや悲しみだけではなかった。


「シオンさん」


『なんだ?』


「私が、連れていったからですか?」


『何をだ?』


「シオンさんを、です」


 ナツミは俯いた。


「ハルが、私を心配してくれたから」


 握りしめた拳が震えていた。


「私が断っていれば、ハルは」


 その先を口にすることができなかったらしい。


『少なくとも、俺があの家にいれば、ハルは死ななかったろうな』


 ナツミの肩が跳ねた。


『あの小僧は、お前を守ろうとして俺を譲った』


 ナツミは地面を見つめたまま動かない。


『その結果、家族全員が死んだ。皮肉な話だな』


「やめてください」


『事実だ』


「もう、やめて!」


 ナツミは両手で耳を塞いだ。


 無駄なことだ。俺の声は宿主の内側に響く。耳を塞いだところで、聞こえなくなるわけではない。


「お願いですから、もう何も言わないでください」


 俺は黙った。


 ナツミは地面にうずくまり、肩を震わせていた。


 しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。


 目の前には、家族を殺した男の死体が転がっている。


「この人、もう死んでいるんですよね」


『ああ』


 ナツミは男の顔を見つめた。


「そうですか」


 胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。


「私、さっきまで、この人が怖かったんです」


『そうだろうな』


「シオンさんが殺したときも、怖くて。人が死ぬところなんて、見たくありませんでした」


 ナツミは一度目を伏せた。


「でも、この人が家族を殺したって分かったら」


 再び死体へ目を向ける。


「死んでいて、よかったと思ってしまったんです」


 ナツミは困ったように笑った。


「おかしいですよね。人が死んでいるのに、安心するなんて」


 俺は何も言わなかった。


「でも、少しだけ楽になったんです」


 ナツミは胸元を押さえた。


「ずっと苦しかったのに、この人がもう生きていないって分かったら、少しだけ」


 その目から涙がこぼれた。


「ハルが帰ってくるわけでもないのに」


 ナツミは涙を拭い、もう一度男の死体を見た。


 その目には、先ほどまでの恐怖とは違う感情が宿っていた。


「シオンさん」


『なんだ?』


「もう一人、いるんですよね」


『ああ』


「お父さんとお母さんと、ハルを殺した人が」


『この男と一緒に家へ押し入った奴だな』


「その人は、まだ生きているんですか?」


『少なくとも、こいつと別れたときには生きていた』


 ナツミは静かに頷いた。


「そうですか」


 それから、ゆっくりと立ち上がった。


 足元がふらつき、近くの壁に手をつく。


「みんなは、もう生きられないのに」


 ナツミは俯いたまま呟いた。


「その人は、今もどこかで普通に暮らしているんですね」


『そうだろうな』


 ナツミは服についた土を払った。


 その動作は、妙に丁寧だった。


「シオンさん」


『なんだ?』


「その人も殺したら、もっと楽になれるんでしょうか」


 俺は答えなかった。


 ナツミはしばらく考え込んでいた。


 やがて顔を上げると、穏やかな声で言った。


「手伝ってください。その人も、殺しましょう」


 俺はナツミの内側で笑った。


 つい先ほどまで人が死ぬことに怯えていた少女が、今度は自ら殺人を望んでいる。


 人間というものは、実に変わりやすい。


 もっとも、俺にとっては好都合だ。


 





 葬儀の日、ナツミは三つの棺の前に立っていた。


 父親。


 母親。


 そして、ハル。


 親戚や知人たちが次々と訪れ、花を手向けていく。


 ナツミは誰かに声をかけられるたび、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


 何度も同じ言葉を繰り返した。


 だが、その視線はほとんどハルの棺に向けられていた。


 やがて、最後の別れの時間が訪れた。


 ナツミは弟の顔を覗き込んだ。


「ハル」


 返事はない。


 ナツミはそっと髪を整えた。


「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってきましたよ」


 微笑もうとした口元が震えた。


「遅くなって、ごめんなさい」


 その手は、なかなか弟から離れなかった。


 係員に声をかけられ、ようやくナツミは身を引いた。


「よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げる。


 棺が火葬炉へ運ばれていく。


 扉が閉まる直前、ナツミは小さく手を振った。


「ハル、またね」


 扉が閉じられた。


 ナツミは、その場から動かなかった。


 やがて火葬が終わり、三人の遺骨が収められた。


 ハルの骨壺は、両親のものより小さかった。


 ナツミはそれを両手で抱えた。


「こんなに、小さくなっちゃったんですね」


 誰にともなく呟いた。


「まだ、十一歳だったのに」


 近くにいた親戚が顔を背けた。


 ナツミは泣かなかった。


 ただ、骨壺を落とさないように、両腕に力を込めていた。


 





 船が沖へ出た。


 空は晴れ渡り、穏やかな波が陽光を反射していた。


 ナツミは父親、母親、そしてハルの遺骨を、順番に海へ撒いた。


 最後にハルの遺骨が波間へ消えると、ナツミは空になった容器を胸に抱きしめた。


「さようなら」


 その声は、風に紛れて消えた。


 アマツでは、こうして遺骨を海へ撒くことが一般的になっていた。


 墓石の盗難や墓地荒らしが相次ぎ、一部の外来者による無許可の土葬も問題となった結果、今では海洋散骨が主流となっている。


 ナツミがしばらく海を眺めていると、船内のラジオからニュースが聞こえてきた。


『本日未明、市内で発生した強盗事件について、警察は外国籍から来た男二人の行方を追っています。現場では住人が負傷しており、現在も捜査が続けられています』


 ナツミはゆっくりと顔を上げた。


『また、近隣地域で発生した少女の誘拐事件について、逮捕されていた容疑者の男が、不起訴処分となりました。少女は現在も行方が分かっておらず、警察は引き続き捜査を進めています』


 ラジオはそのまま、別のニュースを読み上げ始めた。


「また、ですか」


 ナツミが小さく呟いた。 


「シオンさん」


『なんだ?』


「昔は、もっと平和だったんですよ」


 ナツミは海を見つめたまま話し始めた。


「イミーン人がたくさん来るようになる前は、こんなに強盗も誘拐もありませんでした」


『そうか』


「お母さんも、最近は物騒だから気をつけなさいって、いつも言っていました」


 ナツミは小さく笑った。


「私、ちゃんと気をつけていたんですよ。寄り道もしないで、まっすぐ帰ったんです」


 空になった容器を抱く手に力がこもった。


「でも、家にいたみんなが殺されちゃいました」


 笑みが消えた。


「家族を殺した人たちが、憎いです」


 ナツミは唇を噛み、海へ視線を落とした。


「どうして、あんなことができるんでしょうね。人を殺して、物を盗んで、何もなかったみたいに生きていけるなんて」


 俺は何も言わなかった。


 ナツミの言うことは、もっともだ。あの男は三人もの命を奪いながら、そのことを少しも悔やんでいなかった。


 死の間際にさえ、自分が殺されることしか考えていなかったのだからな。


「許せない」


 ナツミは顔を上げた。


「イミーン人が、憎いです」


 その言葉を聞いて、俺は少し興味を覚えた。


 なるほど。家族を殺した連中だけでは飽き足らず、今度は無関係な者まで憎み始めたか。


 実に愉快な話だ。


「あの人たちがいなくなれば、昔みたいに平和になるんじゃないでしょうか」


 ナツミは誰に尋ねるでもなく呟いた。


「そうですよね。いなくなればいいんです」


 その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「世直しをしましょう。イミーン人を殺すために力を貸してください」


 ずいぶんと穏やかな声だった。


 まるで、明日の予定でも決めるかのように。


「そうすれば、もう誰も私たちみたいな思いをしなくて済みますよね」


 ナツミは胸に手を当てた。


「あの人が死んだとき、少しだけ苦しくなくなったんです。だから、きっと」


 言葉を切り、涙の残る顔で微笑んだ。


「みんないなくなれば、もっと楽になれると思うんです」


 なるほど。


 一人の死によって得た安堵を、今度は大勢の死によって得ようというわけか。


 実に単純で、実に人間らしい考えだ。


「あっ、でも」


 ナツミは何かを思い出したように顔を上げた。


「イミーン人だけじゃ駄目ですね」


『ほう?』


「あの人たちをアマツに入れた国の偉い人たちも、責任がありますよね」


 ナツミは一人で頷いた。


「そうです。あの人たちが入ってこなければ、お父さんも、お母さんも、ハルも死なずに済んだんですから」


 空になった容器を抱き直す。


「政治家の人たちも、許せません」


『そいつらも殺すつもりか?』


「はい」


 迷いのない返事だった。


「だって、放っておいたら、また誰かが殺されてしまいます」


 ナツミは俺に語りかける。


「シオンさんが手伝ってくれれば、できますよね?」


『さてな』


「できますよ。だって、あんなに強いんですから」


 俺の返事など、初めから必要なかったらしい。


 ナツミは海へ向き直った。


「お父さん、お母さん、ハル」


 波が船腹を静かに叩いていた。


「もう大丈夫ですよ」


 涙に濡れた顔に、明るい笑みが広がる。


「私が、平和な世界を取り戻しますから」


 ナツミは胸の前で両手を握った。


「全部、許さない」


 俺はナツミの内側で笑った。


 家族を奪われた少女が、今度は他人の家族を奪おうとしている。


 それも、自分が正しいと信じて疑わない。


 実に愉快ではないか。


 こいつがこれから何人殺すのか、俺には分からん。だが、そんなことはどうでもいい。


 俺が楽しみにしているのは、その先だ。


 いつか、自分が憎んでいた人間と同じことをしていたと気づいたとき、こいつはどれほどの後悔に沈むのだろう。


 想像するだけで腹が空いてくる。


 もっとも、こいつが死ねば俺も死ぬ。魂を味わうためにも、それまでは生かしておかねばならん。


 俺はナツミの目を通して海を眺めた。


 陽が傾き、水平線が赤く染まり始めている。


 ナツミはまだ微笑んでいた。


 その姿を見ているうちに、ふと、あの小僧のことを思い出した。


 ハル。


 俺を悪魔と知りながら、少しも恐れなかった奇妙な少年。


 すべては、あの小僧との出会いから始まった。


プロローグ 終

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