異世界の転生
「カイ、見て! あの向こうに見える、巨人の背骨みたいに歪んだ形の岩の並び……あれはきっと"竜の顎"だわ!」
翌朝、見渡す限りの荒野を歩きながら、リラは興奮した声を上げた。
「竜の顎……ただの風化した岩場に見えるけどな」
「いいえ、ただの岩場じゃないわ。本にはね、その麓を西へ回り込んだところに、旅人のための古い給水所が残っているはずよ!」
「……本当だな? よし、行ってみよう」
岩の隙間を縫うようにして進むと、リラの予言通り、崩れかけた石造りの祠のような建物が現れた。中には冷たい水が湛えられた古い井戸が、ひっそりと息を潜めていた。
「……あった。本当に水があるぞ、リラ」
「まあ、本当ね! 私の記憶は間違っていなかったわ!」
カイが井戸の縁を確かめながら、何気なく聞いた。
「なあ、リラ。この世界に、本物の竜はいるのか」
リラは少し考えた。
「おとぎ話では……いるわ。勇者メルドが千年前に封じたって書いてあった。でも今もいるかどうかは、私にも分からない。本に書いてあることと、現実が同じとは限らないから」
「エルフは本物だった」
「……そうね」
リラは井戸の水面を見た。
「ワイバーンは今も山脈に棲んでいるって、旅行記に書いてあったわ。あと、北の森には人語を解する魔獣もいるって。エルフが本物なら……竜も、たぶん」
「つまり、あの岩の名前は伊達じゃない、ってことか」
「竜の顎は、千年前に本物の竜が墜ちた場所だって書いてあったもの。骨が岩になったって伝説があるの」
カイは振り返って、さっきの岩場を見た。風化した岩の並びが、遠くにある。
「……なるほどな」
今度は「ただの岩場」とは言わなかった。
「お前、本当にすごいな。あんたの頭の中にある"おとぎ話"は、この世界じゃどんな偵察兵の報告書よりも正確だ」
リラは少し照れたように頬を染め、それから、どこか誇らしげに胸を張った。
しかし、「竜の顎」を抜けて平原へ出たとき、リラの足が止まった。
リラが指さした先、遥か遠くの地平線に見える影。明らかに様式が異なっていた。中世ヨーロッパ風の石造りではなく、有機的で、巨大な生物の殻をそのままくり抜いて積み上げたような、不気味な建造物のシルエット。
その時、カイは一歩だけ前に出た。
左の拳を、ゆっくりと、音を立てずに握った。誰かに見せるためでも、戦うためでもない。ただ、握らないと何かが溢れる気がした。
(……俺の知っている、あの形だ)
カイは鼻から短く息を吸い、吐いた。ゆっくりと。確実に。
街道へ出ると、大きな荷車を引いた商人一行に出会えた。御者の男が、声を落とした。荷台の幌の向こうを、本能的に確かめてから続けた。
「噂じゃあ……空を飛ぶ、巨大な虫みたいなバケモノが出るんだ。羽があって、金属みたいな皮を持ってて……矢も槍も通らないって話だ」
「見たのか」
「俺じゃない。南の村から逃げてきた連中が言ってた。村ごと、一晩でやられたって」
男は唾を飲んだ。
「おかしいだろ、あんた。この辺にゃワイバーンも飛竜もいるが、あんな動き方はしない。まるで……意思があるみたいな飛び方なんだと」
カイの表情が、わずかに変わった。リラだけが、それに気づいた。
「意思がある、というのは……中に誰かいるってことですか」
リラが静かに聞いた。男は驚いたように彼女を見た。
「……嬢ちゃん、怖いことを聞くね。そうかもしれない。でも、そんなバケモノを操れる人間がいるとしたら、そっちの方がよっぽど怖い」
その言葉が耳に届いた瞬間、リラはカイの顔を見た。見上げたというより、反射的に確かめた、という方が近かった。
カイの表情は変わっていない。いつものように、冷静で、固い。だがリラには分かった。その目が、一瞬だけ遠くに向いたことが。
(……そうか)
リラの脳裏に、翠縁農場でカイが言ったあの言葉が戻ってきた。「空を飛ぶ"巨大な虫のバケモノ"とか、"鉄の鎧をまとった巨人"が攻めてきたりはしないのか?」
(カイが今まで、どれだけのものを一人で抱えていたか)
リラは口を開きかけて、やめた。今は、目の前の商人から情報を得る局面だ。
「……間違いない」
カイは拳をきつく握り締め、地平線の向こうの歪な城を見据えた。
「リラのおとぎ話の世界と……俺のいたエルド・ラインが、混ざり合ってやがる」
「そんな……そんなことって……!」
「行くぞ」
カイはリラを振り返り、その手をぐっと力強く掴んだ。




