本との出会い
その本に気づいたのは、午後のことだった。
リラはカイと市場を回った後、一人で古書店に寄っていた。カイは「用がある」と言って別の方向に行った。用が何なのかは言わなかった。リラも聞かなかった。
古書店は王都の外れにある。店主は老人で、いつも奥の椅子で居眠りをしている。リラが来ても起きない。起きなくていい、とリラは思っている。この店が好きなのは、誰も話しかけてこないからでもある。
棚を見ていた。
端から順番に背表紙を確認していく。いつもの習慣だった。全部は読めない。でも触れていくと、今日の自分がどの本を必要としているか、分かることがある。
棚の端に、見慣れない本があった。
差し込まれたような置き方だった。背表紙が他の本より少し厚く、色が違う。深い緑色だった。文字が入っているが、読めない。どこの言語でもなかった。
リラは手を伸ばした。
触れた瞬間、手がびりっとした。
指の先から肘まで、電気が走るような感触があった。でも痛くはなかった。むしろ——温かかった。
言語になる前の何かが来た。感情だけが来た。温度だけが来た。
でもその温度は、リラが今まで感じてきたどの本とも違った。
古い本の持つ、時間の堆積した重さではなかった。人間が書いた本の持つ、書いた人間の体温でもなかった。
もっと——根本的な何かだった。言葉にしようとすると逃げる。形にしようとすると消える。でも確かにそこにある。
リラは本を棚から抜いた。
開こうとした。ページが動かなかった。糊で固められているわけではない。ただ、開かない。開く気がない、とでも言うような。
リラは本を抱えたまま、しばらく立っていた。
老人はまだ居眠りをしていた。
リラは本を持ってレジに向かった。値段を聞くと、老人は目を開けずに「それは売り物じゃない」と言った。
「でも棚にあったんです」
「おかしいな」と老人は言った。「そんな本、仕入れた覚えがない」
結局、老人はリラに本を持っていくよう言った。「どうせ誰かに届くべき本が届いただけだろ」と言った。目を開けないまま。
リラは本を抱えて店を出た。
夕方の光の中で、もう一度表紙を見た。深い緑色の装丁。読めない文字。
胸の奥に、何かが静かに灯った気がした。
リラがカイにその本を見せたのは、三日後だった。
最初の二日は、一人で抱えていた。見せようとして、やめた。説明できないものを説明しようとすると、必ずうまくいかない。言葉が先走って、感覚が嘘になる。
三日目の夜、カイが縁側にいた。
空を見ていた。星が出ていた。カイはこの世界に来ると、時々こうして空を見ている。エルド・ラインでは見ない習慣だ、とリラは思っている。聞いたことはないけれど。
リラは本を持って縁側に出た。カイの隣に座った。
しばらく黙っていた。
「これ」とリラは言った。
カイが横を見た。リラが本を差し出した。
カイは受け取った。表紙を見た。ページをめくろうとした。ページが動かなかった。もう一度試した。動かなかった。表紙を閉じて、また開こうとした。やはり動かなかった。
「変な本だな」
「触った時、何か感じる?」
カイは表紙に手を当てた。一秒。二秒。
「……何も感じない。ただの本だ」
それから一拍置いて、リラを見た。
「お前が感じるなら、そうなんだろう」
リラはその言葉を、胸の奥にしまった。
「古書店で見つけたの。店主も仕入れた覚えがないって言ってた。でも棚にあった」
「どこの言語だ」
「分からない。どこの言語でもない気がする」
カイは本をリラに返した。それから星を見た。
「アルヴィに見せたか」
「まだ」
「見せてみろ。あいつなら何か分かるかもしれない」
「アルヴィさんは、もう旅に出てしまった」
「そうか」
カイは少し間を置いた。
「お前はどう感じた。触れた時」
リラは本を膝の上に置いたまま、考えた。
「温かかった。でも人間の本の温かさじゃなかった。もっと——根っこみたいな感じ。言葉にしようとすると逃げる」
カイは頷いた。
「逃げるなら、追いかけなくていい。来る時が来たら来る」
リラはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
カイらしい言い方だと思った。でも間違っていない、とも思った。
二人は並んで星を見た。虫の声がしていた。本が膝の上にあった。




