第72話 初デート?
目を覚ましたときには、すでに日は傾いていた。
部屋には夕闇が差し込み、室内はオレンジに染まる。
隣を見ると、リンの布団はきれいに片付けられていた。
どうやら、俺よりずっと早く起きていたらしい。
寝ぼけた頭を軽く振ってから、身支度を整えつつリビングへと足を運ぶ。
すると、テーブルに肘をつきながら、リンが一冊の魔法書を読んでいた。
【誘惑】――この一年、彼女が欠かさず目を通している魔法書だ。
「まだ覚えられない」と彼女はいつも苦笑いを浮かべるが、
最近は「もうそろそろかもしれない」という手応えを感じているようだった。
そんなリンの真正面に座り、俺も【風絨毯】の魔法書を開こうとする。
だが、椅子に腰を下ろす前に、ふと木窓の外がやけに騒がしいことに気づいた。
「……ん? なんだ、外……?」
耳を澄ませば、太鼓や笛の音、人々の笑い声や叫び声が入り混じっている。
玄関から外を除けば、村は祭り。賑わいを見せていた。
「リン? 祭り、行かなかったのか?」
俺が問いかけると、魔法書から目を離さず、彼女は小さく呟く。
「……レオを置いて、一人で行くと思うか?」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
「……誘ったら、来てくれる?」
「レオが行くところに行くと言ったはずだが?」
そう返された俺は、思い切って右手を差し出す。
すると、リンは躊躇うことなく、手を重ねてくれた。
「じゃあ……行こうか」
手をつないだまま玄関を出ると、夜風が肌を撫でる。
村の中央――見張り塔のすぐそばには、檜造りの仮設舞台が設けられており、そのまわりを村人たちが輪になって踊っていた。
舞台の上では、笛と太鼓の音色に合わせて、少女たちが華やかな衣装で舞を披露している。
冒険者たちもその輪に加わり、焚き火の灯りに照らされた顔には、満面の笑顔が張り付いていた。
そんな中――俺たちの姿を見つけたエイガーが、ふらりと近づいてくる。
「おっ、来たか。これは……どうやら俺たちを歓迎する祭りらしいぜ。サグマ様からの命で、酒は禁止されてるがな」
肩をすくめるエイガーに、俺は軽く苦笑を返す。
「分かりました。僕たちもハメを外さない程度に楽しませてもらいます」
「それがいい。俺も警備の合間に踊る予定だ」
そう言って、彼はまた人の輪の中へ戻っていった。
襲撃されるかもしれない、こんな時に――そう思う者もいるかもしれない。
だが、常に張り詰めてばかりでは、心が持たない。
緊張をほぐす時間も、時には必要だ。
とはいえ、やはり気になるのは警備体制だ。
俺はふと、見張り塔へと視線を向けた。
塔の上には、護衛の風魔法師と、銅証魔法師十段の風魔法師が配置されていた。
彼らは定期的に【風詠】を唱え、魔力を帯びた風を四方に飛ばして索敵している。
出入り口は固く閉じられ、村の外周を巡る見張りも怠っていない。
……うん、大丈夫だろう。
これだけの布陣なら、俺たちが少し肩の力を抜いたって問題ない。
何かあれば、すぐに対応できるはずだ。
そう思って、勇気を振り絞る。
「……リン、踊ってみないか?」
だが、返事はない。
目線を追えば――彼女の視線は、広場の反対側にある屋台に釘付けになっていた。
串焼き、焼き芋、焼き菓子、焼きフルーツ……。
どれも香ばしい香りを漂わせ、夜風に乗ってリンを誘惑している。
「……あれ、美味しそうだな」
リンがぽつりと呟く。
踊りの熱気もどこ吹く風。彼女の目には、今や屋台しか映っていないようだった。
花より団子――誰が花だよって話だが……。
思わず苦笑して、そっと手を差し出す。
「……じゃあ、まずは腹ごしらえしてからにするか?」
リンは小さく笑って、その手を取った。
「うむ、良き判断だな。何をするにもまずは腹を満たさなくてはな」
俺たちは人混みを縫いながら、屋台へと向かう。
あちこちから香ばしい匂いや甘い香りが漂い、目移りしてしまいそうなほどだ。
「レオ、見ろ。団子だ。しかも、三色……いや、四色だぞ」
リンが目を輝かせて屋台へと近づく。
「四色って珍しいな。どれが気になる?」
「全部だ」
即答だった。
俺は苦笑しつつも銅貨を数枚渡して、団子を四本受け取ると、二本をリンに渡す。
彼女は嬉しそうにそれを受け取り――
「……んっ」
一口。
柔らかく、ほどよい甘さの餡が舌の上でとろけたのか、瞳を細めてうっとりとした表情を浮かべる。
「……これは、当たりだ」
「そんなに美味いのか?」
「レオも食え」
俺の口元に、団子を突き出してくる。
断る間もなく一口かじれば、素朴ながら深い味わいが口いっぱいに広がった。
その後も、焼き芋、揚げ菓子、肉串……と、リンは興味を惹かれるものを次々と見つけ、屋台通りを縦断していく。
「リン、そんなに食べて大丈夫か?」
「今日は別腹だ」
どこかで聞いたような台詞をさらりと返しながら、彼女はまた別の屋台に目を止める。
顔に蜜をつけたまま、満足そうに微笑むその姿は、戦場で舞う姿とはまるで別人だった。
「……なぁ、リン」
「ん?」
「さっき、踊りに誘おうとしてたんだ」
「知ってた」
「……なんで言わなかった」
「団子に勝てると思ったか?」
俺は思わず笑ってしまった。
笑って、手を伸ばし――彼女の口元についた蜜をそっと拭ってやる。
「……次は、踊り。いいか?」
「うむ……もうお腹はパンパンだ。運動がてら踊るとしよう」
空には満月。檜の舞台から響く笛と太鼓の音が、村の夜を柔らかく包み込んでいた。
村人も冒険者も、子どもも老人も、誰もが輪を作り、ゆっくりとした調子で手を叩き、歩を刻む。
「リン、行くぞ」
「うむ」
俺たちもその輪に加わった。
隣にいた老婆が、手の振り方や足の運びを優しく教えてくれる。
やがて音が切り替わり、舞台の中央に立つ村の若者たちが先導し、動きの合図を送ると、輪全体がひとつの流れとなって回り始める。
輪の中に入ったリンは、少し不慣れながらも、周囲に合わせて動きを真似る。
剣を握る手ではない、柔らかく開かれたその掌が、俺の隣で美しく舞っていた。
「……案外、こういうのも楽しいものだな」
ぽつりと呟くリンに、俺も思わず笑みがこぼれる。
「そりゃ、隣にいるのが俺だからだろ?」
冗談交じりに答えると、リンは一拍置いてから笑顔を見せる。
「……そうかもしれぬな」
輪の中心では子どもたちが跳ね、冒険者たちも陽気に笑いながら拍手をしている。
戦場を潜り抜けてきた身体が、今はこの平和な時間の中に溶けている。
魔法も剣もいらない、ただ音に身を任せるだけの、穏やかで、優しい時間。
手と手が触れ合い、足元の土が柔らかく弾む。
輪の流れに身を任せながら、俺はちらりと横を見た。
月明かりに照らされたリンの横顔――凛としたその表情が、今夜はやけに眩しく見えた。
「この村の平穏を守るためにも、ザンクを倒さなきゃな」
踊りに慣れ、余裕が出てきたタイミングで、俺はぽつりと声を掛ける。
「当然だ。あの団子の味は、守り抜かねばならぬ」
相変わらずのリン。
俺は少しだけ真面目な顔になって、言葉を続ける。
「一つ、ザンクと戦うとき――俺に任せてもらえないか?」
リンの動きが一瞬だけ止まった。
それでもすぐに踊りに戻りながら、小さく息を吐くように言う。
「……通常状態であれば構わないが、魔含薬を飲んだ奴は危険だぞ?」
作戦と呼べるほどのものじゃない。
ただ、あいつに対して、俺自身がどうしてもけじめをつけたい。
それを説明すると、リンは踊りながら眉をひそめた。
「……確かに、それはザンクにとって一番嫌な戦い方かもしれんが……レオであれば、もっと早く、楽に、確実に、息の根を止める方法があるのではないか?」
「多分な。でも、それだと、あいつに痛みを与えることなく終わってしまう……せめて、後悔させたいんだ」
しばしの沈黙――
やがて、リンは踊りを止め、真っすぐに俺を見据える。
「……分かった。でも、レオが危ないと判断したら――私があいつの首を刎ねる」
「ありがとう。必ず俺が仕留めるよ」
リンの手を引き、踊りの輪から離れると、行く当てもないまま村の中を並んで歩き出す。
空を仰げば、満月が雲の切れ間から覗き込み、静かに村を照らしていた。
リンも足を止めて空を見上げる。
「月が団子に見えてきたな」
俺は思わず吹き出しそうになったが、ぐっとこらえた。
ロマンティックに寄りかけた空気を、あっさり食い気で持っていくところが、いかにもリンらしい。
「……そう言われると、腹が減ってきたな」
「屋台……もう片付けられたか?」
「分からない――急ごう!」
リンの手を引き、屋台に向かって駆け出す。
剣も魔法も使わずに済む夜。
このひとときだけは、すべてを忘れて、ただ隣を歩くことを楽しめばいい。
実に、素晴らしい休暇――俺にとって二度の人生で初めてのデートだった。




