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第56話 球

「やったぁ! カタリナ! 【鈍化《スロー》】覚えたよ!」


 ミザリーの歓喜の声が弾けたのは、迷宮に潜ってから三十五日経ったときだった。

 魔法の習得に成功した彼女は、歓喜のあまりカタリナに勢いよく飛びつき、そのままリンにまでダイブ。


 そして――


「わわっ、ちょっ……!」


 リンの隣で魔法書を読んでいた俺の頭までも、遠慮なくわしゃわしゃと両手でかき回す。


 その瞬間だった――


 ばっしぁぁぁん!


 水の塊が空中で弾け飛び、ミザリーの頭を直撃。

 ……そう、俺が練習中だった水球《ウォータースフィア》が、見事なタイミングで彼女の頭頂部に落下したのだ。


「ご、ごめんなさぁいっ! 突然のことでびっくりしてっ!」


 その頭からは水が滝のように滴り、もはや彼女も俺もびしょ濡れだった。だが……


「えへへ……いいよ! 【鈍化《スロー》】を覚えられたの! すっごく嬉しいっ!」


 水で髪がべったり張り付こうとも、服がびしょびしょになり身体のラインを露にしても、ミザリーは満面の笑みで、全身から嬉しいオーラを放っている。



 ちなみに、フリードとゲルドの二人は、すでに迷宮を後にしていた。

 やはり、フリードは【鈍化《スロー》】を習得することはできなかったのだ。


 それでも彼は、俺が【水撃《ウォーター》】を覚えるまで迷宮に残り、俺に水球《ウォータースフィア》を丁寧に教えてくれた。

 どうやら、俺はスジが相当いいらしく、魔法陣の加筆と削除はすぐに覚えること――いや、コツを掴んだ。


 というのも、フリード含め、普通の魔法師は魔法を唱えるときに魔法陣を描く。

 だからその都度、加筆や削除をしなければならない。


 しかし、俺には【ストック】がある。

 頭の中で思い浮かべた魔法陣に魔力を込めるので、イメージをそのまま出力できるのだ。


 ただ、いくら正確に魔法陣の加筆と削除ができたとしても、コントロールするというのは、また別物。

 水球《ウォータースフィア》を維持するだけでもかなり集中力を必要とし、動かすとなると、さらなる練度が求められる。


 最初は維持するのにも苦労し、すぐに水が散っってしまったが、形となって空中に留まるようになったのは、まぎれもなくフリードの根気強い指導のおかげだ。


 それからの時間は、まさに宝物のようだった。


 俺は合間に【水盾《ウォーターシールド》】の魔法書を読み込み、【解毒《キュア》】の魔法書を描き進めつつ、水球《ウォータースフィア》の練習をしたり、素振りに打ち込んだり、あるいはリンに剣の稽古をつけてもらったり。

 どれもこれも貴重で、贅沢で、満たされた時間だった。


 また、少しだけだが、カタリナやミザリーと、フリード、ゲルドの関係にも変化があった。

 まぁあれだけ俺とリンが彼ら……主にフリードだが、話しかけていたからな。


 最初の頃は、視線が交わっただけで反射的に逸らすほどだったが、彼らが迷宮から出るその日……すれ違いざま、わずかに会釈を交わす姿があったのだ。

 


 そして……


「着替え完了っと」 


 俺とミザリーが着替えを終えた頃、帰還の準備が整った。

 迷宮の出口へ向かう道中、俺は浮かべた水球《ウォータースフィア》を何度も何度も発現させる。


 戦闘の途中でふと集中が切れてしまうこともまだあるが、それでも諦めず、魔力が尽きるまで繰り返した。

 今は未熟な技であっても、これが将来、自分の戦い方の核になる。そんな予感があったからだ。


 そして数時間後――


「ふぁぁぁあああ。やっぱり地上の風はいいね」

「うん、空気も美味しいし」

 

 一カ月以上ものあいだ、地下の冷たい空気に包まれた迷宮に籠もり続けていたのだ。

 太陽の光も、風のぬくもりも、こうして外に出て初めて、その尊さが心に染み渡ってくる。


 街に足を踏み入れた瞬間、その空気は一変した。


「なんか……いつもと比べて活気がないような?」

「うむ、確かに」


 陽の高い時間帯だというのに、通りに姿を見せる冒険者の数はわずか。

 いつもなら、昼間から酔っぱらいがのさばっているはずの通りも、閑散としていて、どこか張りつめた気配が漂っている。


 その理由は、ギルドの扉を開いた瞬間に理解できた。

 迷宮に潜る前には、黄色の緊急クエストだったものが、今は真っ赤な緊急クエストとなっているのだ。

 掲示板に貼り出された布告書には、こうあった。


『南部の脅威が完全に排除されるまで、迷宮探索と酒類の提供を禁止とする。

――バックス辺境伯』


 ここまでするのか……と、思いつつ、俺たちはカウンターに向かい、迷宮で回収した魔石の納品を終えた。

 すると、職員が笑顔で、俺にひとつのバッジを差し出してきた。


「おめでとうございます。これで銅証初段に昇格となります」


 バックスに来てから、約三か月。

 これでようやく、第一位階、第二位階に限定されるとはいえ、自由に迷宮へ潜ることが許されたのだ。


「失礼ですが……ひとつ、注意点をお伝えさせていただきます」


 目の前の受付嬢が、柔らかくも真剣な声で口を開いた。


「お手元の記録では、第一位階魔法の迷宮のみでの実績のようですね。老婆心ながら、ひとつ忠告を。第二位階魔法の迷宮は、それだけ核の力が強くなっています。それに比例して魔物の強さも増し、迷宮構造そのものも、格段に複雑となるでしょう」


 彼女の目は至って真剣。


「ですから……最初は、すでにパーティ募集が出ている探索隊への参加をおすすめします。初見での単独潜行は……命を落としかねませんから」


 なるほど。

 どんなものか見ておいた方がいいということか。


「最後に。先ほど見ておられたのでお分かりだとは思いますが、現在、緊急クエスト発令中につき、迷宮探索は全面禁止となっております……そこでお伺いします。皆様は、この緊急クエストへの参加をご希望されますか?」


 俺は隣に立つリンの顔をそっと見る。

 彼女は、いつも通り、俺にすべてを任せるといった瞳で、何も語らず、微笑む。


「はい。僕とリンは参加します」


 すると、カタリナとミザリーもうなずく。


「私たちも、やるわ。これが最後のつもりで」

「うん……北カリ村に帰るとしても、あの森林地帯の周辺を通らないといけないから。今、脅威を減らせるなら、それに越したことはないよね」


 受付嬢の表情がやわらぎ、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。クエスト用紙にも明記されておりますが、口頭でもお伝えしておきます。今回の緊急クエストは、フェーズ森林に現れた大規模魔物群の殲滅です。討伐は各パーティに分かれて進軍する形となります」


 彼女は背筋を伸ばし、ギルド職員としての口調で告げた。


「出発は明後日の朝六時。集合場所はここ。朝早くはありますが、遅刻は一切認められません。どうか、命を守るためにも、万全の準備を整えてお越しください」


 大規模討伐《レイド》になったということか。

 とはいえ、問題は距離だ。


 確か、緊急クエストの詳細にはこう書かれていた。

『フェーズ森林、バックスより南へ約三十キロ』

 荷物を背負ったまま行軍すれば、七時間以上はかかるだろう。


 俺たちのように【収納《ストレージ》】があればまだしも、ほとんどの冒険者は荷物を丸ごと担いで行くしかない。

 気温も、湿度も、地形も考えれば、ただの道中で体力を削られかねない。


 ……が、もう一つ、心配なことがある。


「あの、たくさんの冒険者が一斉に出払ってしまって、この街は……大丈夫なんでしょうか?」


 問いながら、ふと脳裏に浮かんだのは、バーバラでの出来事だった。

 盗賊団の討伐に向かったら、別の盗賊団に街を襲われてしまったからな。

 これだけ街と離れてしまったら、たとえ気づいたとしても戻りようがない。


 だが、俺の言葉に対し、受付嬢はふんわりと微笑みながら首を振った。


「はい。この街には――バックス辺境伯爵がおられますから」


 たったそれだけの言葉なのに、彼女の声には確信があった。

 まるでこの街が落ちることはないと言外に示すような、穏やかで、揺るがぬ口調。


 ……そんなに、強いのか?


 思わず顔に出てしまっていたらしい。

 受付嬢は、俺の表情を見て、くすりと笑った。


「バックス辺境伯爵は、第五位階魔法、【闇玉《アビス》】の使い手です。ギフトこそ【迷宮管理《ダンジョンマスター》】ですが、それでもなお、宮廷魔法師百席に名を連ねると言われるほどの実力をお持ちです」


 第五位階魔法――【闇玉《アビス》】!?

 このギルドの下から通じる迷宮に刻まれている魔法か!


 そして、ギフト【迷宮管理《ダンジョンマスター》】。

 あの魔法陣の扉も、辺境伯のギフトによって管理されているのかもしれない。




 ギルドを後にし、俺はカタリナたちと明後日の出発を約束して別れた。


 問題は、宿だった。


 迷宮封鎖と緊急クエストの影響で、戻ってきた冒険者たちが一斉に宿を確保していたのだ。

 俺たちの定宿《永楽荘》は、すでに満員御礼。


 仕方なく、他の宿を探すが――選択肢は二つ。


 ひとつは、虫とカビの香りが歓迎してくれそうな安宿。

 もうひとつは、まるで貴族でも泊まるのかというほど敷居の高い超高級宿。


 ちらりと横を見れば、リンはいつも通り……いや、飯だけちゃんとしたのが食えれば野宿でも構わないといった様子。


「……よし。今日は贅沢しよう」


 そう自分に言い聞かせて、一泊・一人・大銀貨一枚。

 財布が悲鳴を上げる音が聞こえた気がしたが、振り切るように宿の帳簿に名前を書いた。

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