第40話 永楽荘
「……え。一泊、一人銀貨五枚!?」
俺たちは、冒険者ギルドを出てすぐに宿を探し始めた。
そして、すぐ隣にあるその宿は、あのバーバラの宿の実に十倍の値段。
二人分だと、一泊で大銀貨一枚が飛ぶ計算だ。
確かに俺の懐には金貨が五枚――五十泊分の予算はある。
けれど、これから道具の購入、情報収集や食費を考えれば、宿代だけに使える余裕はない。魔法書だって欲しいのだ。
さすがに諦め、ギルドの受付嬢に聞いた北西に歩く。
そこで見つけたのが、この宿――《永楽荘》。
決め手は、あたりに漂う焼きたてパンの香ばしい匂いだった。
……ただし、ひとつ問題がある。
部屋代は一室で銀貨一枚。さらに食事代が一人、大銅貨五枚。
二人で別々の部屋に泊まれば、合計で銀貨三枚になってしまう。
しかも残りは一室のみ。
経営している奥さんに間取りを聞いてみると、部屋は四人用で、ベッドルームが二つ、中央にダイニングスペース。
「リン? ここでもいいか?」
「むしろ私はここがいいが」
まぁテントの中で二人で泊まっているしな。
今更か……リンの承諾も得られたので、同室で泊まることにした。
一泊、銀貨二枚。まずは様子見で十泊分、前払い。
大銀貨二枚を渡して、さっそく部屋へと入る。
木の扉を開けると、思いのほか広々とした部屋が広がっていた。
中央には四人用のダイニングテーブルが置かれ、左右に分かれたドアの奥には、それぞれシングルベッドが二つずつ配置された個室があった。
明日のクエストは荷下ろしや荷運び。
できるだけ【収納】の中を空けておいた方がいい。
荷物を取り出して、それぞれの部屋に置いていく。
荷を整理し終え、ダイニングに備え付けの椅子を引く。
リンと向かい合って座った。
「リン。さっきの、冒険者ギルドでの魔力診断のことなんだけどさ――ピンク色、出てただろ? あれについて、ちょっと話がある」
「ん? ああ。私の頭の中がピンク色って話か?」
まだ信じてたのか。
リンに冗談を言うときは、もう少し気を遣った方がよさそうだ。
「あ、いや。あれは冗談だって。で、これを見てくれ」
そう言って、俺は【収納】から【誘惑】の魔法書を取り出す。
「リン、多分だけど、これ……俺じゃ習得できない魔法なんだ。でも、リンならきっと覚えられると思う」
「……もしかしてこれが、ピンク属性ってやつか?」
なんか、ピンク属性と聞くととんでもなくいやらしく感じる。
……が、リンが言うと、それが薄れる気がするのはなぜだろうか?
「おそらく……な。これをリンが使いこなせるようになれば、鬼に金棒だ。考えてみてくれよ。今まではこっちから敵に向かってた。でもこれがあれば、向こうから寄ってくるんだ」
「おおっ! 確かに! ってことは、余計な体力を使わずに済む、ってことか!」
リンの瞳がキラリと輝いた。
「ああ。特位階魔法がどれくらいの期間で習得できるかは分からない。俺が【収納】を覚えるのに、半年かかったくらいだ。もしかしたら途方もなく時間がかかるかもしれない。それでも、リン――【誘惑】、覚えてみないか?」
「いいのか? これはレオがグレスト男爵からもらった褒美だぞ?」
「もちろん。これからは毎日、魔法書を読み解く時間を設けよう」
そう誓ったところで、遅めの昼食をいただくことに。
食堂にはもう昼食が用意されていた。
テーブルの上には、香ばしい肉のローストと、焼きたてのパン、季節の野菜をふんだんに使ったスープ。
決して豪勢ではないが、丁寧に作られた温かな料理が並んでいる。
リンは席に着くなり、目を輝かせてローストにナイフを入れた。
ぱくりと一口、口に運ぶと、すぐに顔がほころぶ。
「……ふふっ、美味い。これは当たりだな」
笑顔を浮かべたまま、もぐもぐと口を動かす彼女。
その頬はほんのり赤らんでいて、なんというか、剣を握っているときの鋭さとはまるで別人だ。
至福の時間を終え、外に出る。まず向かったのは魔道具屋だ。
もう俺は銅証魔法師。門前払いされることはない。
「すみません。【治癒】の魔法書、いくらで買い取ってもらえますか?」
以前、自分で書き上げた魔法書を店主に手渡すと、男の表情が一変する。
「なっ……!? これは……見事な魔方陣……! 大銀貨六枚……いや、七枚で買い取らせてくれ!」
思わず、ニヤける。
バックスには他にも魔道具屋があるし、値段を比べるつもりもあったが――この反応なら即決でいいだろう。
ただ、一つだけ気になることがある。
「バックスには、【治癒】を覚えられる迷宮って、ないんですか?」
「ん? 知らないのか? 冒険者ギルドで、どの迷宮にどんな魔法陣が刻まれてるか載ってる本が売ってるぞ? ちなみに、今のところ【治癒】のある迷宮はない」
なるほど。
迷宮を管理している街だからこそ、そういう情報が出回ってるってわけか。
だったら、魔法書を買うのも、まずはその本を見てからにした方がよさそうだ。
せっかく迷宮にある魔法を、わざわざ高い金で買う必要はない。
もう魔道具屋を見る必要もほとんどなくなったので、外に出ると、もう日は傾いていた。
魔石灯にライトアップされた中心街では、冒険者たちが今日の無事を祝い、グラスを何度も打ち合わせている。
その喧騒の中をすり抜け、俺たちは冒険者ギルドに向かう――が、迷宮帰りなのか、クエスト帰りなのか、とにかく人だかりで溢れかえっていた。
……というわけで、今日は大人しく宿に戻ることに。
まだ初日だしな。無理する必要はない。
リンが先に風呂に入り、その間に俺はダイニングで【治癒】の魔法書作成に取りかかる。
が、どうしても気になってしまう。
風呂場から、かすかに聞こえてくる水音が。
うーん……同部屋はこれがきついのか。
なんとか煩悩をねじ伏せ、魔法書の執筆に集中していると、やがてリンが風呂から出てきた。
「レオ、先にいただいた。いい湯だった。ありがとう」
「ああ……いいよ――ッ!?」
顔を上げた瞬間、思考がフリーズする。
いつもは肌の露出を避けているリンが、キャミソールにショートパンツという、まさかの恰好。
しかも手には、さっきまで身に着けていた衣服。
シルクのような生地がちらつくたびに、視線のやり場に困る。
ヤバい……いや、ヤバくはない。
むしろ、嬉しい……が、俺には刺激が強すぎる――!
洗濯物に気を取られていて忘れていたが――そういえば、バーバラも室内ではけっこう露出度の高い格好をしていたっけ。
「な、なんか……いつものイメージとだいぶ違うね……」
自分でもわかる。
声が妙に上ずっていて、完全に緊張してる。
「そうか? 部屋ではいつもこんな感じだが? 風呂が冷めてしまうからレオも早く入った方がいいぞ?」
そう言って、濡れた金色の髪をタオルでくるくると巻きながら、さりげなく気遣ってくれるリン。
促されるままに風呂へ向かい、熱めの湯に浸かって、気持ちをリセット。
上がると、彼女はもう【誘惑】の魔法書に目を通していた。
「レオ、早速で悪いが、分からないところがあるんだ」
そう言って、俺が座る椅子のすぐ隣に腰かけてくるリン。
剣を教わるときとは違い、今度は俺が教える番だ。
「ああ、そこはね……」
たまには、こうして立場が逆になるのも悪くない。
肩が触れそうな距離で、二人並んで魔法書に目を通す。
ページをめくる音と、静かな時間だけが流れていた。
ひと段落つけて、あとは夕食をとり、軽く言葉を交わして、灯りを落とす。
明日からの冒険に備え、早めに眠りについた。




