第38話 婚約破棄に全力を尽くそうと思います!
バックスまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
雨に降られ、ぬかるみに馬車がはまり、魔物の影に緊張する夜もあった。
それでも、楽しかった。
馬車がスタックすれば、俺たちが後ろから押し、苦難を越えれば、皆で笑い合い、支え合う。そんな旅だった。
それもこれもすべて、リンが隣にいてくれるから。
馬車の揺れに身を預けるたび、ふと感じる彼女の体温と、花のように淡い香り。
言葉にしなくても、それだけで、心は満たされていく。
もちろん、【毒矢】の魔法書は読み進めている。
さらに魔力と時間を持て余してしまうので、【治癒】の魔法書の作成にも取り掛かっている。
ちなみに【収納】の中にはまだ完成した【治癒】が一冊。
だが――
ずっと聞かずに済ませられる話ではなかった。
ある晩、宿の食堂。
湯気を立てるスープを前に、俺は切り出した。
「リン、ギースとは……一体、どういう人なんだ?」
食事をとる彼女の手が止まり、短い沈黙。
やがて、深いため息と共に、重い言葉がこぼれる。
「……典型的な魔法師といえばいいだろうか。ベンダが可愛く思えるくらいにはな」
あのベンダよりも……?
俺が言葉を探していると、リンはわずかに目を伏せ、静かに続けた。
「いずれは宰相……権力そのものが、服を着て歩いているような男だ。誰も逆らえない。誰も咎めることができない……そして、誰も咎めようともしない。どんなに間違っていようとも、な」
声は静かだったが、その言葉には怒りと諦めが入り混じっていた。
「しかも、無類の女好きでな。メイドの乳や尻を触ったり、気に入った女を侍らせたり……ついには、こんな私にまで手を出そうとした。結婚前にはそういった行為はしないという婚前契約を結んでいるというのに、それすら無視してきた」
それに、あんなにも魔法師を嫌っていた理由が、少しだけわかった気がした。
にしても、婚前契約でそんなことを結ぶのか。
よっぱどなんだな……ギースという奴は。
「さすがの母も、これには堪忍袋の緒が切れてな。成人直前にフローラル伯爵家に戻ることを条件に、家を出ることを許してくれたのだ」
だから、二年間だけの契約を俺に持ちかけたのか。
逃げている、と言ったのにも納得ができる。
「……ギースと結婚したいと思ってるのか?」
「まさか。一番結婚したくない相手だ。母もそう思っているだろう。だからこそ、婚前契約に、婚約破棄の条項を入れさせたのだ」
「じゃあ、婚約破棄できる可能性はあるってことか?」
思わず声が高くなる。
「ああ。ただし条件がある」
リンは少し顔を上げ、まっすぐ俺を見る。
「私を想ってくれる人が現れて、さらにはギースよりも強いというのが条件だ。これだけは言えないのだが、フローラル伯爵家にはどうしても強い者が必要だからな」
その瞬間、俺の中で何かが跳ね上がった。
……ってことは、俺にもチャンスがあるってことじゃないか!?
ギースがどれだけの権力を持っていようが、どんなに魔法が使えようが、俺に力さえあれば、リンを――!
その時、正面のリンが不思議そうに俺を見つめた。
「ん? 今、変なこと考えてないか?」
「い、いや、なんでもない! なんでもないから!」
必死に誤魔化しながらも、顔が熱くなるのをどうにもできなかった。
だけど、心の奥でふつふつと沸き上がる思いがある。
――絶対に、負けられない。
そして、強くなってやる!
そう心に誓った数日後――
ついに、その姿が見えてきた。
迷宮都市バックス。
遠くからでもはっきりと分かる、巨大な城壁。
だが、どうやら街中で馬車を走らせるには許可と金が必要らしい。
仕方なく、俺たちは馬車を降りた。
「リン、バックスに来たことはあるか?」
見上げたままの視線を彼女に向けて訊ねると、隣のリンもまた、城壁を仰ぎ見ながら静かに答えた。
「いや……王都から南に来たことない。だから初めてだ」
「そうか……じゃあ行こう。しばらくここが俺たちの拠点となる」
本当は手を差し出したかったが、ぐっと堪える。
その手を握る資格が俺にはまだない。
人々が吸い込まれるように城門へと流れ込んでいく中、俺たちもその波に紛れた。
そして、門を潜った瞬間。
目の前に広がっていたのは、興奮と熱気が渦巻く、まさに冒険者たちの街。
通りのあちこちには、魔法陣や剣の徽章をつけた者たちが行き交い、昼間だというのに、酒場の扉は開け放たれ、楽しげな笑い声が漏れている。
さらに、道端にはずらりと並んだ露店。商人たちの威勢のいい声が響いた。
「迷宮帰りかい? だったら回復薬の補充を忘れるなよ?」
「今時魔法師で武器を持たないのは時代遅れ、ちょっと見て行かないか?」
「穴あきにはこの防具は必需品だぜ?」
穴あき――それは、俺たちのように徽章の穴が空いている者を指す俗称らしい。
魔法師で武器を持たないのが時代遅れ?
そんな言葉に、隣のリンも小さく首をかしげていた。
もしかしたら、この街には、この街ならではの独自文化が根づいているのかもしれない。
そんなことを思いながら、まずは冒険者ギルドを目指して、街の中心へと足を向けた。
そんな中――強く俺たちの目を引いたのは、北門付近にひっそりと佇む、奇妙な扉だった。
通りの喧騒からわずかに外れた場所。
石造りの建物の壁面に、まるで異物のように埋め込まれた鉄扉。
それはただの出入口ではなかった。扉全体に、淡く青い光を放つ魔法陣が刻まれていたのだ。
そして、その扉の傍らには、冒険者ギルドの紋章が刻まれた腕章をつけた男が立っていた。
「……あれが、迷宮か?」
バーバラのように山肌などで口を開けているのが迷宮だと思っていた。
しかし、これは違う。まるで都市機能の一部のように、堂々と存在している。
誰かが発見したのではなく、都市の内部に組み込まれるように建てられた――そんな印象すら受ける構造だ。
「にしても……人が多いな」
街の中心に向かえば向かうほど、人の往来が多くなる。
「そうだな。活気だけなら、王都以上かもしれん」
リンと軽く言葉を交わした――その時だった。
ドンッ!
肩に、強めの衝撃が走る。
誰かとぶつかった。
思わず「悪い」と言いかけた、その瞬間。
「……ちっ、ハズレか」
低く吐き捨てるような声が、耳元をかすめた。
――ハズレ? どういう意味だ?
怪訝に思いながら、ぶつかってきた男の背中を目で追う。
すると、そいつはまた別の通行人とわざとぶつかり――今度は素早く、相手のポケットに手を滑り込ませた。
次の瞬間。
男の手の中には、いつの間にか大銅貨が握られていた。
――スリか!
なるほど。ぶつかりざまに懐へ手を入れる古典的な手口か。
俺は荷物をすべて【収納】に入れているため、被害はなかったが……油断していたら、危ないところだった。
気を引き締め直し、隣のリンへ視線を送る。
すると、彼女はふっと口元に笑みを浮かべていた。
どうした?
視線でそう問いかけると、リンは目でスリの男を追いながら、答える。
「いや……あのスリ、後悔することになるな」
後悔?
考えてみれば、リンが悪を見逃すなんて、らしくない。
そう思っていると、彼女はわずかに肩をすくめて続けた。
「スられた男、ただ者じゃない。スラれると分かって、大銅貨をわざとポケットに入れていた……たぶん、あとで締め上げる気だな」
よく見ると、その男の胸には銀の徽章が光っている。
台座には剣の意匠――銀証冒険者だ!
なるほど。餌を撒いて、逆に狩る気か。
「……どうやらこの街では、善意で首を突っ込むのは、少し考えた方が良さそうだな」
そう呟いた俺に、リンもコクリと頷いた。
油断すれば隙を突かれる。
街の中だからといって、安全とは限らない――その現実を思い知らされる。
気を引き締め直し、俺たちは足を進めた。
歩くこと三十分――
ようやく、街の中心部にたどり着く。
そして、視界に飛び込んできたのは、目を疑うほど巨大な建物だった。
「ここが……バックスの冒険者ギルドか……」
その威容に、思わず息を呑む。
「迷宮都市の中枢にふさわしい、堂々たる構えだな」
リンは言いながら、外套のフードをより深く被る。
俺たちは無言でうなずき合い、肩を並べて、ギルドの重厚な扉を押し開けた。




