第12話 とてもいい匂いです
翌朝――
「じゃあ、ここまでだな。今度こそお別れだ。達者でな」
ファジャスの街の門前、サグマの背中を見送りながら、俺は静かに頭を下げた。
彼はこれから東へと向かうという。
こんな生活をしているのだ。
ビーゼルの街の店が開くのが一週間に一度というのも頷ける。
――感謝してもしきれない。
サグマは魔法書の知識をくれた。
身分の壁を超えて、俺を守ってくれた。
旅の始まりを、確かな一歩に変えてくれたのは、間違いなくこの人だった。
どうしてここまでしてくれるのか――昨日、思い切って訊いてみた。
すると、サグマはあっけらかんと笑いながら、こう答えた。
「いつかお前が大物になったときにな。俺にちょっとだけ、忖度してくれりゃいい。今のうちに、恩は売っとく主義なんだよ」
……いい人なのか、ずる賢いのか。
でも俺は、その言葉に胸を打たれた。
ならば、応えるのが漢ってもんだ。
必ずこの恩を返す!
そう、心の中で誓った。
サグマを見送り、俺も駅馬車に乗り込みさらに南へ。
こういう移動時間こそ、俺のギフト――【ストック】が本領を発揮する。
席に座り、手には【雷撃】の魔法書。
魔力が回復したら、すぐさま【ストック】。
ただ、苦労したのが、宿の環境。
サグマが言っていた通り、途中で泊まるのは野営所や簡易宿泊所ばかり。
あのフルタス法爵家の掘っ立て小屋ですら、まだマシだったと思えるほどの劣悪さ。
「……むしろ、馬車で寝てた方が快適だったんじゃないか?」
そう後悔するほどの環境だった。
そして、ファジャスの街を発って三日後――
ようやく、迷宮都市バックスまでの折り返し地点へとたどり着いた。
フェリクの街。
ここはファジャスとまったく違う装いを見せる。
よく言えば素朴――悪く言えば田舎。これが、街と呼ばれているのが不思議なほど、小さな場所であった。
宿に空きがあるか、未成年の俺一人で泊まれるかという不安もあったが、心配は杞憂に終わる。
大銅貨五枚で、夕食と朝食がついてきた。
ほとんど中身のない鞄を部屋に放り込み、俺はさっそく外に出る。
どうせ、もう来ることもないだろう――
そんな気持ちで、この街を歩き回ってみる。
ふと目に留まった魔道具屋――何の気なしに足を踏み入れたその瞬間、予想外のことが起きた。
なんと、未成年の俺に対して何の咎めもないどころか、笑顔でおすすめの魔法書まで紹介してくる始末。
やはり、街によって常識も規律も違う。
ビーゼルやファジャスのような厳格な都市がある一方で、こうして背に腹は代えられない、懐事情に即した街も存在するのだろう。
この街では、俺のような子供にでも商売しないとやっていけないのかもしれない。
そんな現実を、店の空気が静かに物語っていた。
ただ、紹介された魔法書はすでに覚えているものばかりだったため、購入は見送り。
逆に、【治癒】の魔法書を売れないか訊ねてみたが――
「悪ぃな、一般人からの買取はやってねぇんだ」
まぁ、信用第一の世界だしな。
素性の知らない奴から買った魔法書なんて、誰も安心して使えないだろう。
魔道具屋には特に目ぼしいものがなかった。
そこで、明日の駅馬車の時間でも調べようと駅舎に向かった――そこで、予想外の一言が飛んできた。
「馬車はございますが、停車はグレスト男爵領との境にある停留所までです。その先の街までは、大人の足でも六時間ほどかかるかと……」
六時間か……まぁ歩けない距離じゃない。
そう思っていた矢先、受付の女性は言いづらそうに言葉を継いだ。
「……ただ、南に向かわれる際は、どうかご注意を。フェリク以南は治安があまり良くありません。私からはあまり申し上げられませんが、冒険者ギルドで情報を事前に耳に入れておいたほうがよろしいかと」
そういう理由で馬車が出ていないのか?
確かな情報を得るため、受付の女性に勧められた冒険者ギルドへと足を運ぶことにする。
冒険者ギルドとは、どのようなところだろうか?
見たことはあるが、中に入ったことはなかった。
心の奥から湧き上がる期待を抑えつつ、足早に向かう。
「これが、この街の冒険者ギルドかぁ……」
意外にも、しっかりとした造りだったが、かなり狭い。
木造の建物だが、印象的なのは、西部劇に出てきそうなウエスタンドア。
その扉に手をかけようとした、まさにその瞬間――
ギィィ……と、音を立ててドアが内側から開いた。
出てきたのは、ひとりの人物。
新緑色の外套を纏い、フードを目深に被り、表情は見えない。
しかし、すらりとした体躯で、胸元には膨らみがあり、しなやかな足取りで歩いていく。
何よりすれ違いざまに、ふわりと漂う香り。
それは、花のように気品に満ちた香りだった。
フローラルとも、石鹸のようでもあり、どこか神聖。
こんな香水が、この世界に存在するのか……と、驚きを覚えるほどに。
彼女の背を見送った後、俺はそっとドアに手をかけた。
すると、中は数秒前まで嗅いでいたあの匂いとは対極の匂い。
汗、埃、脂……そして獣臭。
鼻が曲がりそうな臭気に、思わず引き返したくなったが、ここで怯んでどうする。
心に鞭を打ち、足を踏み出す。
ギルドの内装は簡素だった。
壁には武具が飾られており、掲示板にはクエストが書かれているであろう羊皮紙。
正面には一人の受付嬢が座り、近くには冒険者と思われる男が四人。
そのうちの一人が、俺に視線を向け、ニヤつきながら、わざとらしくつぶやいた。
「なんだぁ? 今日は珍しい顔ぶれだな。女に……ガキかよ。明日は大雪か?」
小さく笑いが漏れる。
明らかに、俺を値踏みする視線。
彼らに構わず、受付嬢に訊ねる。
「すみません。南へ向かおうと思ってるんですが……治安があまりよくない耳にしたのですが、実際のところどうなんですか?」
俺の問いに受付嬢だけでなく、男たちも目を丸くする。
「お客様も……ですか」
「『も』? 他にも誰か南に行こうとしてたんですか?」
「はい……先ほどいらっしゃった、かわいらしい声の女性が。彼女も南を目指すと……」
なるほど。あの香りの彼女も、南へ向かうつもりなのか。
「そうですか……で、治安の方はどうなんですか?」
「はい……ここ、フェリクの南に位置するバーバラの街周辺はあまり治安はよくありません。最近、新興のグレスト男爵が治めるようになったのですが、街を興すのに精いっぱいで、周辺の開拓や治安維持までには手が届かない状況となっているようです。周辺には盗賊団が住み着いたり、魔物も徘徊していたりと、困難が続いているようで……」
「だったら冒険者たちに討伐依頼とか出せないのですか?」
四人の男たちに視線を向けると、先ほどまでの威勢はどこへやら。
急に視線を外し、肩をすくめた。
「クエストの依頼も出しているのが、この街に討伐できる者たちがいなくて……」
気まずそうに受付嬢が述べると、冒険者たちが反応する。
「最近、得物を握ると手が震えて……」
「どうも、敵を前にするとトイレが近くなって……」
「皮鎧でもあれば、倒せるんだけど……」
「なんか気が乗らねぇんだよな……」
一通り言い訳をすると、一斉に笑い声が起きる。
まぁ土地柄こういう人たちが多いのかもしれない。
にしても、困ったな。
どうにか手はないものか……。
ここで諦めるという選択肢は俺にはなかった。
目的地の迷宮都市バックスにはたくさんの迷宮があると聞く。
迷宮の数だけ、魔法陣もたくさんあるということだ。
美しい魔方陣をたくさん見たいし、空に浮かべたい!
でも、どうするか……と、ここでさっきの女性のことを思い出す。
「さっきの女性はなんと?」
すると、先ほどの四人のうちの一人の男が、答えてくれた。
「私には関係ないと言って、明日この街を発つみたいなことを言っていたぞ?」
ん?
ということは、何かしらの対策はあるということか?
蛮勇という可能性もなくはないが……。
もしかしたら、探せば見つかるかもしれない。
俺は受付の女性と、冒険者たちに頭を下げて、急いで冒険者ギルドを飛び出した。




