96.cry werewolf
青年が見上げた空は、今は別の場所にいる少女が抱く不満と同じ曇り空。
昼を過ぎても残る薄い霧は、わずかな青みを持った空模様の鏡写し。
はっきりとしない天候の中で貧民街を歩くザックは、ため息をついて後ろを振り返る。
探偵の調査に付き添うと決めて、早数時間。
いくども彼の後ろ髪を引っ張っているのは、探偵が住む下宿に置いてきたアンナの存在だった。
「そんなに心配でしたら、残っていただいてよろしかったんですよ? でん……アイザック氏」
「分かりますか」
「フォレスターくんでなくとも分かりますよ。下宿の方向を見るのは何度目か、数えきれないくらいです」
「弱ったな。そんなに見てましたか」
昨夜の話し合いの時点で、ザックは不安要素を洗い出せていたと思っていた。
信頼できるカメリア夫人の下、今日一日はアンナを下宿から外出させない。
あまり活動的ではない少女だから、室内だけで過ごすことに問題はなく。預かるカメリア本人も好意的なため、関係悪化と事件性のあるできごとは想像できない。
仮に客人が来たとしても対応するのは夫人だけ。アンナの好奇心が刺激されない限りは、無用な接触は少ないと考えられる。
だから平気だ。少女と別れ、国への貢献に従事できる。
そう思って下宿から出たはずだったが、自身の覚悟のなさにザックは苦笑する。
「国のためにフォレスターさんの仕事に同行する。嘘ではなく本心からの判断なんですが、ここまで不安になるとは思いませんでした」
「大切なお人なのでしょう? アンナ嬢は。なら心配も当然です。……一つよろしいでしょうか、アイザック氏。フォレスターくんが求めたのは資金援助だけだったはずですが、なぜここまで同行を? 危険では?」
国を脅かす脅威を除くため、探偵にザック個人の依頼を出すため。
その二つをこなし、かつ信頼を得るための手段としてザックが用いたのは、一個人では扱うのに限界のある桁の資金提供。
多額の投資をすることで、両方の早期解決を図るものだが、隣を歩く医師ウェスカーには疑問があった。
ようは今のザックは後援者。表立って動く必要はなく、身を預かっている少女が心配なら、なおさら離れる理由がない。
ましてやザックの身分は国の王子。身分を隠しているとはいえ、おいそれと危険しかない貧民街へ足を延ばす必要性もまたない。
護衛としてついて来ている使用人の一人の心境をおもんばかりつつ、ウェスカーはザックに迫るも、青年の口から出た答えは真っ直ぐさを感じるものだった。
「危険は承知の上です。それでも来たのは、上に立つ者として足場を見る機会がないというのが、本当の所ですね。王室に居ても耳に入るのは、政治家と貴族の思想を通した情報だけ。実際に見聞きするのとではあまりに違いすぎる。──僕はライトと出会えて良かったと思ってますよ、先生」
「王族だからこそ、下々の声は直で聞きたいと。立派だとは思いますが、しかし──」
「実際にそれをやられると困るというは、分かっているつもりだよ。だから貴方と一緒に行動して無理もしない。今回は、この三人で犯行現場を一度見て回るだけと理解しています 」
──怪物が絡んでいなければね。
譲れない個人的都合の部分を声には出さず、ウェスカーの青い感情を作り笑いでふらりとかわすザックは、付き添いの使用人にも笑いかけていく。
無理をしないことに関して信用できないウェスカーと、これまでのザックを知っている使用人。
両者ともに冷や汗をかくも、ザックは彼らの心境を露も知らずに進んでいく。
三人がこれまでに見て回ったのは四ヶ所。
次の五ヶ所目となるのは、ザックにとって苦い思い出の場所だった。
「この辺りですか。確か、アイザック氏のその怪我もここで負われたのでしたね」
「相手はここの住民ではなく、警察ですけれどね。まだ全身の痛みが引かないです」
「当然ですよ、あれだけの怪我なら」
二週間経っても完治には至らないザックの全身の傷。
医者としてそうなって当然と診断を下すウェスカーに、青年は未だに残る痛みとともに受けいれる。
「あの小屋が例のですか」
「ええ。流石に片づけられていますね。そこの扉が開いていてその奥にいたんですよ、被害者が」
「フォレスターくんから耳にはしましたが、なるほど。だいたいこの位置にいたのでしょうか、アンナ嬢は」
「そうですね、その辺りだったかと」
五ヶ所目の現場にたどり着くも、ザックの記憶とはほんの僅かに違う光景が、そこには広がっていた。
証拠になりそうなもの、証拠として現場に残して置くもの、捜査の邪魔となるもの。
遺体がないのは当然として、小屋全体が整理されている。
ここから事件解決の糸口を見つける、なんて真似は三人にはできない。
王子、医師、使用人。全員、特別推理力があるという訳でもなく、現場を見ても探偵パーシヴァルのように犯人像を描くのは難しい。
「先生は現場を見るのは初めてですか?」
「これまでのを含めて、全て初めてです。フォレスターくんから意見を求められたときはありましたが、実際に足を運んだことはなかったですね。ジャックくんとは別件で出会いましたし」
「会ったといえば、事件があった日はアンナが女の子を追いかけていて、その子もここにいたんです」
「ああ、第一発見者の子ですね。新聞には載っていませんでしたが、騒動でその辺りはあやふやになったのでしょう」
小屋の中には立ち入らず、まずはアンナたち二人の少女が立っていた場所から全体を見渡す。
ザックとしてはここから始まった感覚があったが、これまでの殺人鬼の起こした事件の現場を巡ったことで、別の視点が生みだされていた。
ずっと追っているパーシヴァルは元より、同じ下宿に住むウェスカーもその感覚はあっただろう。
「……それにしても、どこも似たような場所ですね、先生」
「ええ、まったくその通りです。犯行現場は人気の少ない小屋ばかり。意図したものだとしか思えませんね」
前後左右。どこを見ても視線が切れる場所を見つけられる。
ザックは密談に使える場所だと考えるし、ウェスカーは他者の視線を嫌う患者が落ち着けそうな場所だと考える。
使用人も今は護衛の任についているからか、この場に立つだけで緊張の色が濃くなっていた。
人の気配がなく、静かで、薄っすらとした灰色と白色が混ざる廃れた世界。
そんな場所で立ち尽くす三人の背中を、野太く攻撃的な声が叩いた。
「笑えるな。容疑者二人、ここで何やってる。ええ? お医者様にお偉いさんよ。またしょっ引いてやろうか」
ザックは痛みを思い出して顔をしかめ、ウェスカーは苦い顔を隠しもしない。
危険な相手が現れたと判断した使用人が、二人を逃がすための算段を立てつつ身構える中、歓迎しない色を全面に塗った二人が振り返ると、そこには大柄の男がいた。
「やあ、先日はどうも。キミは長い休暇を貰えたのかな?」
痛みがなくともザックは覚えている。
アンナと赤い少女を保護と称し、ザックの全身をこれでもかと痛めつけた警察官。
その本人が表情に赤色を満たしながら、三人へ近づいてきていた。




