104.cry werewolf(9)
色濃く残っていた黒い霧は薄まり、次第に白い霧すら雨へ舞台を譲っていく。
誰もが頬に雫を伝わせる中、まず動きだしたのは怪物アイザックだった。
「去ったか。ここで抑えられなかったのは手痛いが、退くというのならいいだろう」
どこを見ても霧散した人狼の気配はなく、声も聞こえてくることはない。
アイザックとデュークを相手取るのは一筋縄ではいかないと判断したか、それとも事態が人狼にとって都合の悪い方向へ転んでいたのか。
その意図が読めなかったが、この場は退散してくれるというのはアイザックには都合がいい。
ここには自身の枷となるものが多すぎる。
そう考える青年が最初に向かったのは、下宿内で未だ立ち上がることもできない二人の女性の下だった。
「アイザック、あれは……どこ行ったの……?」
「不明だ。だが、既に近くにはいないらしい」
「じゃあ、わたしたち……無事なの……?」
「怪我もない貴様たちはそうだろうな」
あの人狼はもう近くにはいない。
その言葉を聞いたアンナは、魂が抜けたように下を向いて深く息をついていく。
そんな少女を襲うのは、安心の周りに集った不安と恐怖。
みるみるうちに顔色が青になり、全身が震えるアンナは、正真正銘立つ気力さえも無くなってしまう。
廊下の壁一面に広がっていた黒い霧たちもアンナに影響されたのか、血の気とともに引いては消えていった。
アンナに残されたのは意識と、そして赤く発光を伴なった黒い長髪だけ。
しかし、そんな状態だとしても無事には変わりないとするアイザックは、それ以上の関心は見せなかった。
「──怪我……そうです、パーシヴァル! デューク!」
黒い霧の人狼は姿を消した。アンナと自分は怪我もなく、王子も別人のようになっているが無事の様子。
そこまで理解が追いついたカメリアは、次に視線を向けるのは外にいる人物たち。
王子たちの護衛を務めていた使用人と警官も頭をかすめるも、夫人の思考は瞬く間に見知った男性二人によって支配される。
まだ震えが止まらない足で駆けだし、全身を濡らす冷たい雨すら物ともせず。
一目散にパーシヴァルとデュークの下へと走ったカメリアが見たのは、思わず足の進みを緩めてしまう光景だった。
「どういうつもりなんだ、君は。どうして今さら私たちの前に現れた。こんな……こんなことで、私たちを守ったつもりか!」
頭部から赤い雨水を流し、立つのもやっとのはずのパーシヴァルは、無言を貫く真っ黒なデュークの胸倉を掴んでいた。
両手を煤で汚し、それでも弱った力で彼を逃がすまいとする探偵に、デュークは抵抗するどころか倒れそうな彼を支えようとしている。
罵倒はもっとも、言い訳はしない。自分はパーシヴァルに責められるべきだし、カメリアにどう思われていようと自身の非だと受けいれる。
──気が済むまで俺を自由にしてくれ。
そんな心境を態度で表す屈強な男性は、口元に黄色と青が混じっていた。
「君がいなくなったとき、夫人がどうなったのか分かっているのか。友人、警察の同僚、そして君に救われた人々。どれだけの人が君の葬儀に参列したと思っている」
デュークの黒い体に、多くの雨水が浸透し始める。
足元には黒い液体が広がり、体の亀裂が増えていくも、そこから見える熱を帯びた赤い光は健在のまま。
「君の口癖だったな。強くなりたい、人を救えないのなら生きているのも苦しい。その果てがこれか。本当に人でなくなってどうする。間違っているだろう、今の君は」
パーシヴァルに言葉を打ちこまれながらも、デュークの顔はチラリと別の方向へ。
赤い光がカメリアの視線と重なると、デュークの口元は苦々しい味を感じたのか、複雑な形を作っていった。
「これが正しいとは私は認めない。もう一度聞くぞ、デューク。──これで私たちを守ったつもりか?」
一年前、デュークが姿を消した理由は、今さっき判明した。
詳細は不明だが、警察である彼を狙った黒い霧の人狼によって食べられて消失。
パーシヴァルの推測通り、人間には抗えない災害のような事件であり、探偵とて食べられたことへ言いたいことはない。
問いたいのは、今の姿と現れた理由。
強くなりたいと願い続けたデュークの行きつく先が、こんな怪物の姿だとするならば、認めないとパーシヴァルは叫んでいく。
「君は、私たちの何を守ったつもりなんだ!」
少なくともカメリアは、いなくなることも怪物となることも望んでいない。
そう襟を掴む拳にこめるも、返ってくるのは寂しく散る火花の音だけ。
ほんの一瞬、目の前の怪物がかつての声を発したように思えたパーシヴァルは、今一度の奇跡を信じてみたものの、叶うことなく。
しかし代わりというべきか、これまで全てを受けいれていたデュークは、そっと右腕を動かし始めた。
「──なんだ。君の心配なら私には……煙草か。人の話を聞かずに煙草とは、君も変わったな」
それを注意されていたのは、かつての私のはずだ。
そんな言葉を受けながら、デュークは手探りでパーシヴァルの懐にある紙巻煙草を見つけだした。
雨で濡れ、弱々しくなって火が点きそうにない煙草をデュークは咥えると、全身の亀裂から覗く赤い光を強めていく。
黒く汚れた煙草に訪れたのは、確かな燃焼と湿気に負ける気弱な煙。
自身の熱を使って煙草へ強引に火を点けたデュークは、暗い空へと口から煙を立ち昇らせる。
「吸わんよ、禁煙中だ。あの怪物を捕まえるまでと、君の墓前で決めた。……悪いな」
続けてデュークは、もう一本取りだしてパーシヴァルに渡すも、探偵は浮かない表情で断っていく。
すれ違い続け、噛み合うことのない二人は、煙草を間に挟むとそっと口元を緩めた。
こんなことになってまでも、君とは気が合わない。
そんな結論を二人とも出したのか、これまでぶつかっていた空気は混ざり始め、デュークはパーシヴァルに肩を貸して歩きだした。
行き先は、雨に打たれたまま二人を見つめていたカメリアの前。
「夫人。大馬鹿な君の夫が帰って来た。君からも何か言ってくれないか」
「……ええ、そうですね。本当に大馬鹿な二人が帰って来ました」
「待ちたまえ、夫人。それは私も含まれているのか」
「他に誰がいますか。私の知っている大馬鹿は、夫と貴方。二人だけです」
何もかもが違うのに、なぜか綺麗に組み合わさる凹凸コンビ。
それが貴方たちだとカメリアが告げると、探偵は不服そうに、そしてデュークは少し口元の喜色の色を濃くしていく。
「それにしても、本当にいたのですね。ブラックマンというのは」
「なんだそれは?」
「探偵といえど、オカルトには明るくありませんでしたか。巷の噂になっているのですよ、知人の姿をした黒い人影。想い人の姿であれば、恋が成就するなんて話もあります」
「恋もなにも、君たちは夫婦だろう」
噂は噂。探偵と夫人が目にしているのはよく知る男性であり、きっと王子たちも同じ姿を捉えている。
関係はあるのだろうが、事実とは異なると考えたパーシヴァルは、噂の変わり果てた内容にため息をついた。
そんな二人の会話を黙って聞いていたデュークだったが、既に亀裂の数は数えきれないほど増え、足は棒状となるまで溶けている。
全身を駆ける赤い光も弱くなり、人の形状からは逸脱していった。
もうすぐ水で溶かされた煤の塊となる。
そんな状態のデュークは、パチンと火花を散らしてパーシヴァルをカメリアに手渡した。
「──もう、お別れなんですね。あなた」
なかば放り投げる形だったパーシヴァルを、カメリアが受け止めるのを認めると、デュークは加速度的に形状を崩していく。
もはや生物ではない形となったデュークへ夫人が声をかけると、返ってくるのは赤い発光だけ。
帰らぬ人にもう一度会え、意思疎通を図れ、できなかった別れを見届けられる。
それができるだけでも充分とばかりなカメリアだったが、不意に背中を押されてしまう。
体が前に倒れ、煤の塊となったデュークに抱き止められる形となった夫人が何事だと振り返ると、そこにはよろけながらも下宿の中へ入っていく探偵の背中。
「馬鹿な人。本当、嘘ばかりの馬鹿な人たちです、あなたたちは……!」
探偵にだって言いたいことは山ほどある。
それを飲みこんで夫人へ譲った彼と、たった一秒でも長く二人と居ようと粘るデュークだったもの。
二人に対して声を浴びせながら、カメリアは煤の塊を抱きしめた。
身がどれだけ汚れようと構わない。残り火が尽きるまで、かつての夫とともにいる。
「──ああ、嘘だよ。俺もお前たちともう逢えなくなる方が、生きるよりも苦しい」
最期の火花は音か、それとも声か。
アンナの黒い長髪から赤い光が消えると同時に、デュークは煤の塊となってカメリアの流す雫に溶けていった。




