102.cry werewolf(7)
瞬きする間なんて欠片もない。
ラルフの全身を捕え、嘲笑うように赤い光で三つの円弧を描いた黒い霧は、そのままの勢いで彼の体を連れ去っていく。
直進し、向かいの家の壁面へ。
衝突することで足を止めた黒い霧は、赤い三日月たちを二つ満月へ変えると、その輪郭をおぼろげながら形作った。
黒い霧という毛皮を被った、巨大な狼。
満月となった虚ろな眼は充血し、残る三日月は牙を生やして赤いしずくがあふれ出す。
霧がゆえに明確には定義できないが、四足にも二足にも見える四肢は、それを目にする者たちへある言葉を彷彿とさせた。
「人狼、か……?」
誰も動けない中、代表するかのごとく呟いたパーシヴァルだったが、自身の音が耳を打っても、体の芯まで響くことはない。
今、目の当たりにしているのは不条理な光景。
理解されることを拒み、感情を湧かせる隙すら与えない黒い霧は、形作った姿を誇示するように赤い三日月の大口を開く。
鋭利な牙がそろった赤い口の先は、どこに続くか分からない不明の空間。
一面の黒を目にしたラルフだったが、何かを言おうと口を開くや否や、音が漏れることなく黒い霧に食われてしまった。
咀嚼もない、抵抗もない。ただするりとラルフを体に収めた黒い霧は、空すら見えない霧がかった曇天へ吠えていく。
「ハハッ、人狼だあ? 上等だよ。悪魔だろうが何だろうが、コイツで撃たれちまえば一発だ!」
正体不明の怪物。どこから現れ、どうしてラルフを食べたのか。
何もかも分からず、しかし眼前にいる人狼らしき霧は敵だと直感した警官は、我に返ると同時に拳銃を相手へ向ける。
ためらないのない全弾発射。
遮るものもなく、そして霧も避けることをせず。拳銃に残された全ての銃弾が霧に当たるも、聞こえてきたのは固いものへぶつかった音だけ。
痛みを覚える素振りすらない霧は、ちらりと警官へ赤い目を向けると、また狼から霧へ姿を変えた。
「──がぁッ!」
「もしかして武器が効くと思ったの? バカだなあ、そんな訳ないじゃんって、ああもう聞こえないか」
霧散した。そうパーシヴァルが目の前の現象を理解した次には、近くにいた警官の声が足元から上がる。
また人狼の姿を取り、警官の頭を地面へぶつけていた黒い霧は、少女めいた声で彼を笑っていた。
一つ行動を起こせば嘘みたいな出来事ばかりの黒い霧の狼。
そんな相手と目があったパーシヴァルだが、危険を察知して距離を置こうとするも、常識的な反応は許されない。
「久しぶり、探偵さん。遊びたいけど、今はいいや。また明日」
白と黒の霧が混じり合い、引いたはずのパーシヴァルの足は宙に浮く。
現実的な動きは、黒い霧の前ではないも同じ。
前後不覚。探偵の心に届いたのは霧の狼の言葉ではなく、後頭部を襲った衝撃。
何が起きたのか分からない、直前の言葉すら耳に残っていない。あるのは朦朧とした意識と、視界に映る揺らめく霧だけ。
「ふう、こんな感じかな。んー、あと一人ぐらいは……でも、そんなに美味しくなさそう。こっちの玩具は気分じゃないんだよねえ」
警官へ目を向けては不満とうなり、探偵を見ては用はないと関心を遠ざける。
人間を襲ったときには獣そのものだった黒い霧だが、雨に打たれながら思考にふける様子は、実に人間らしい。
その姿はお伽噺に登場する悪役の代名詞。人のように振る舞う悪い狼。
──人狼そのもの。
「あの靄の塊みたいなもの、あのお客様を飲んだ……?」
考える人狼を遠巻きに見るのは、アンナとカメリア、そしてザックの三人。
護衛についていた使用人たちも慌てて三人のそばへ駆け寄るも、その顔色は外と同じ雨模様。
彼らを守らなければいけないと命令が頭にはあっても、心にあるのは命の危機。
しかも相手は正体不明の怪物。次に目を閉じたら二度と開けないと想像してしまい、行き先に迷いが生じてしまう。
無理もない。使用人たちの動向から心情を察したザックは、そう心の中でつぶやいた。
「二人とも無理をする必要はない。逃げて構わないよ」
「……ねえ、ザック。なに、あれ」
「分からない。でも、あれが僕たちの後ろから流れていったのは確かだ。もしかしたら──」
人狼の注目がザックへ向いたとしたら、できることはある。
だから自分を守ることが優先だと使用人たちへ指示を出しつつ、青年は少ない情報からあの人狼が何なのかを探っていく。
現れたのは探偵の背中よりもさらに後ろ。下宿の中から現れ、アンナやザックたちすら通り抜けていった。
なら考えられるのは、室内から現れたということ。どこかの魔笛の怪人と同じで虚空から出てきたのならお手上げだが、それ以外となると消去法として一つだけとなる。
「──うん、やっぱりお兄さんは厄介だ。あの探偵に似てるのかな。でも、これでおしまい」
室内から顔だけを覗かせて、父親のことを見ていた少女。
そう思い当たった瞬間、黒い霧がザックの胴体を刺し貫いた。
屋内へ入ろうとしていた使用人たちはよろめき倒れ、ザックの体は黒い霧に押されて壁まで飛んでいく。
壁に真紅の花が咲き、しかし黒い霧には違う赤が混ざる余地はない。ずっと同じ、黒い霧と赤い月。
触れるかどうかを選べるのか、体を貫く硬度を持っていたはずの黒い霧は霧散することでザックを解放し、青年はずるりと壁に沿って力なく崩れ落ちた。
「あー、めちゃくちゃになっちゃったなあ。でもいいや。邪魔そうなお兄さんを仕留められたからね。もう帰ろうかな」
ラルフの告白から、三分にも満たないわずかな時間。
意識があるのはアンナとカメリアの二人だけ。そうなったのは、おそらく人狼の気まぐれ。
殺人鬼だったラルフは体ごと消えた、警官とパーシヴァルは外で倒れたまま。
使用人たちも同様で、ザックにいたっては生存の可能性は低い。
災害と同じぐらいの理不尽。それを目の当たりにした二人は、言葉どころか感情すら遠く感じていて。
そんな二人の瞳に映る黒い霧は、次の瞬間には赤い笑顔が移り変わった。
「ねえ、どうしようか。それとも遊んでくれる? お姉さん」
「……やっぱり、シエナなんだ」
「あっ、やっと呼んでくれた。でも残念、ボクはシエナじゃないよ。シエナはもう死んでる、一年も前にね」
ザックの推測はアンナも考えていた。
しかし現実味のない答えを前に、少女はぼんやりとつぶやいただけだったが、眼前に現れた人狼はあっさりと肯定する。
突如現れた黒い霧の人狼の正体は、シエナ。しかし彼女自身ではないと告げる人狼は、上の空な二人につらつらと続きを口にしていった。
「本当のシエナの母親ってさ、ラルフが初めて殺した奴なんだ。自分のことばっかりで、娘の命すら商売道具にするそんな女。ずぅっと一緒にいたのはラルフなのに、勝手に売り物にした酷い奴さ」
天真爛漫な少女、道化めいた笑い声の少年。どちらにも捉えられる声へ変わっていく人狼は、二人に対して何もしない。
ただ話をしている、それだけなのにアンナたちの体は硬直するばかり。
「だからラルフは復讐した。そこで晴れて敵討ちはおしまい。でもさ、それだけでいいのかなーって、ボクは声をかけたんだよね。下宿のお姉さんなら分かるかな、この気持ち」
「それだけでいいのかって……そんな理由で、他の人を……」
「うん、そうだよ。でも、ラルフは満足してたよ? ボクがシエナの代わりになって、家族ごっこして。そして母親と同じ悪い奴らを一人ずつ消していく。しかもボクは狼だっていうのに、一緒に寝たら向こうが狼になっちゃって。ほら、いいことだらけ」
「何も、いいことない……」
シエナはもういない、代わりなんてない。
復讐をこなして、正義を掲げて凶器を振るって。あたかも善行だと人狼は言うも、広まったのは不穏な空気だけ。
挙句、ラルフは人狼によって、この世からいなくなってしまった。
何もいいことがないとアンナは告げるも、人狼から返ってくるのは明るい声だけ。
「いいことなんて、いくらでもあるよ。よく考えて、お姉さん。ボクが食べたからさ、殺人鬼はもういない。これのどこが悪いことなの?」
悪に染まった魔性の女性たちが数を減らし、愛娘の穴埋めをされた殺人鬼のラルフはもういない。
だからいいことばかりと人狼は笑い、アンナは奥歯をかみ締める。
言葉が通じるのに、会話ができない。
これまでの怪物たちは、言葉が通じるのならある程度の意思疎通は取れていた。
なのに、今目の前にいる人狼は何もかもが違っている。
本当の怪物。人狼をそう捉えたアンナは、胸の内で広がっていく覚えのある不快感と戦っていた。
「悪者はみんないなくならないと。そう昔から決まってるんだから。悪い奴らはみんな、みーんな罰を受ける」
一方的に決めつけて、相手の言葉には耳を貸さない。
──お前が悪い、だからいなくなれ。
カメリアの腕の中にいるアンナの耳に聞こえるのは、人狼と似たことを語る誰かの声。
それにつられて強まる、アンナの黒髪に散らばった赤い光たち。
パチパチと音の数も増え、廊下一帯に広がり薄まっていたはずの黒い霧も濃さを取り戻していく。
「違う、あなたのそれは罰じゃない」
「……下らぬこと吠える犬だ。貴様ごときが罰を与えていると? 身の程を知れ」
目をつぶり、人狼の言葉をアンナが否定したその時、人狼の体へ二つの拳が打ちこまれた。
一つは褐色肌の男性の手、そしてもう一つは黒色の筋肉質。
人狼を形成する黒い霧が二つの手をすり抜けることはなく、衝撃はそのまま体を吹き飛ばした。
膂力のほどは人を外れ、人狼は転がるように雨天の中へ。
そんな人狼を見届けることなく、アンナの瞳は拳を放った人物たちに捕まっていた。
「現況を報告しろ、アンナ」
作り笑いの青年とは違う、冷たく無機質な男性の声。
前髪を上げて赤い宝玉の瞳をさらすのは、ザックの内で眠っていたはずの怪物アイザックだった。




