第57話 秘められた志
夜が深く静まり返った執務室に、羊皮紙を繰る音と、ランプの微かな油の匂いだけが漂っていた。
「これで本日の帳簿と、明日の資材搬入計画の照合は完了です」
ルークが羽根ペンを置き、眼鏡を外して軽く目元を揉んだ。
連日の業務で疲れているはずなのに、その瞳にはどこか澄んだ光が宿っている。
「遅くまでありがとう、ルーク。あなたが提示してくれるデータのおかげで、北領の運用は驚くほどスムーズだわ」
ハーブティーをカップに注ぎ、彼の前へ置く。ルークは「恐縮です」と小さく頭を下げ、温かい湯気に視線を落とした。
ふと見ると、彼が手元に広げていた書類の隅に、北領のものではない王国全土の地図と、過去の貧困地域のデータが記載された古い手帳が添えられていた。
「それは……?」
私が問いかけると、ルークは一瞬だけ躊躇うような仕草を見せたが、やがて静かに語り始めた。
「……王都にいた頃、僕が学者たちの間で『危険分子』として排除された理由をご存じでしょうか」
「ええ。既存の税制や領地管理の非効率さを批判したからだと聞いているわ」
「はい。ですが、僕の本当の目的は批判ではなく……理不尽に虐げられ、声も上げられずに倒れていく王国各地の貧村や農民たちを救うことでした」
ルークは手帳を愛おしむように指先で撫でた。
「貴族たちの搾取と放置によって、北領と同じか、それ以上に凄惨な環境で苦しんでいる村が王国にはいくつもあります。僕は法と数理の力で彼らを救うシステムを作ろうと論じましたが、王都の権力者たちには『農奴を甘やかす異端の思想』と笑われ、切り捨てられました」
彼は一度言葉を切り、私をまっすぐに見つめた。
その黒い瞳には、静かだが揺るぎない情熱の炎が揺らめいている。
「ですが、あなたと出会い、この北領で起きた奇跡を目にして、僕の考えは確信に変わりました。リーゼロッテ様が作り上げた『最適化』の手法――生産性の向上、流通の効率化、そして教育による自立。これを使えば、北領だけでなく、王国中の苦しむ人々を救うことができるはずです」
かつて王都で理想を踏みにじまれながらも、捨てずに温め続けてきたルークの「本来の志」。
前世で数字や成果だけに追われる日々に疲弊していた私にとって、彼の語る理念はあまりにも眩しく、そして高潔だった。
単なる優秀な分析官としてではなく、一人の強い意志を持った男としてのルークに、胸の奥が熱く震えるのを感じる。
「素晴らしい志ね、ルーク」
私は彼の目を見返し、深く頷いた。
「絵空事でも夢物語でもないわ。現に私たちは、この北領でそれを実証してみせたのだから。あなたのその高い理念を、私が笑うはずがないでしょう?」
「リーゼロッテ様……」
「いずれ北領の基盤が完全に固まったら、あなたのその夢を形にするための資金と人材を惜しみなく投入するわ。あなたが王国中の人々を救うためのシステムを、今度は私が全力でバックアップさせて」
「……あ……」
ルークは息を飲み、驚きに目を見開いた。
やがて彼の頬が微かに赤らみ、眼鏡の奥の瞳が潤みを帯びていく。
「僕の理想を……ただの一度も否定せず、こうして対等な言葉で受け止めてくれた人は、人生であなたが初めてです」
ルークがそっと手を伸ばし、机の上に置かれた私の手に、自らの手を重ねた。
温かく、少し震える指先。
「僕の知識も、この命も、すべてあなたのために捧げます。……あなたと共に歩めるなら、どんな困難も恐れることはありません」
そのまっすぐな誓いと、手に伝わる確かな体温。
理屈やロジックでは説明のつかない甘い熱が、私の胸全体を満たしていく。
「ええ……二人で、もっと遠くまで行きましょう」
静かな夜の執務室で、私たちは互いの瞳に映る自分を見つめ合いながら、確固たる絆を静かに深めていた。




