第101話 春風と背中
ルークが旅立ってから最初の朝、執務室は驚くほど静かだった。
いつもなら整然と書類が並ぶ机の向こうに彼の姿はなく、代わりにあるのは昨日まで二人で精査した『北部流通総書』の最終控えだけだ。
「……しんみりしている暇はないわね」
頬を両手で軽く叩き、気持ちを切り替える。
ルークが南西の地で過酷な現場に挑んでいるのだ。北領の留守を守る私が、彼の残した仕組みに甘えて座っているわけにはいかない。
「お嬢様、朝のお茶をお持ちいたしました」
アルフレッドさんが静かな手つきでカップを置いてくれる。
「ありがとうございます、アルフレッドさん。ルークの穴を埋めるために、今日から私の動き方を変えようと思うの」
「と、おっしゃいますと?」
「これまではルークの計算をもとに、この部屋で指示を出すことが多かったでしょう? でもこれからは、私が直接現場へ足を運ぶわ。東部開拓村や問屋街、カルナ村への定期巡回も私の日課にするの。現場の人間と直接話して、小さな引っかかりをその場で拾い上げたいのよ」
受け身で報告を待つのではなく、自分から動き、現場の声を拾う。それが私にできる一番の役割だ。
アルフレッドさんは嬉しそうに目を細めた。
「頼もしいお考えでございます。現場の者たちも、お嬢様が直接顔を出くだされば何よりの励みになるでしょう。……ただ、道中の護衛体制だけは強化しておきませんと」
その時、執務室のドアがノックされ、急ぎの報告が入った。
「失礼いたします! 領主代理様、王都より『特別駐屯警備隊』と名乗る一団が城門に到着いたしました!」
「特別駐屯警備隊……?」
私とアルフレッドさんは顔を見合わせた。
ヴァルターの監査を跳ね返したばかりの王都が、今度は「北領の治安維持と監視」という名目で実力組織を送り込んできたのだ。不当な落ち度がないか、四六時中張り付いて探る腹づもりだろう。
「通しなさい。応接室でお会いします」
緊張感を胸に秘め、私は応接室へ向かった。
王都の正規騎士たちが列をなす中、中央で甲冑を響かせて立ち上がった隊長格の青年に、私は思わず目を見張った。
明るい栗色の髪に、優しくも引き締まった翠の瞳。
「……レオン?」
「久しぶりだな、リーゼ」
そこに立っていたのは、王都の最精鋭たる騎士の装備を身にまとった、幼馴染のレオンハルトだった。
「どうしてあなたが王都の駐屯隊長としてここに……?」
戸惑う私に対し、レオンハルトは周囲の部下たちに部屋の外で待機するよう短く指示を出した。ドアが閉まり、二人きりになると、彼はそれまでの固い表情を緩め、昔通りの柔らかい笑みを浮かべて私の前で静かに膝をついた。
「驚かせてすまない。……王都の上層部は、北領の落ち度を探るための監視役を探していたんだ。アルトハイム家の人間で、君と面識のある俺なら、警戒されずに潜入して内情を探れると踏んだらしい」
「それって、あなたを捨て駒にするつもりで……」
「ああ。『適当に探って報告を持ち帰れ』とね。だから俺はそれを利用したんだ」
レオンハルトはまっすぐに私を見つめた。
「『あの女の性格は熟知しています。俺なら簡単に内情を暴けます』と上層部を巧みに誘導して、この駐屯隊の指揮権を勝ち取った。装備も馬も、手当てもすべて王都の持ち出しだ。王都には適当な偽報告を送っておく」
彼は胸に手を当て、力強い声で言葉を重ねた。
「あの婚約破棄の夜、俺は君を守れなかった。……だが、今は違う。王都からどんな圧力がかかろうと、俺の剣と忠誠は最初から君だけのものだ。リーゼ、君の警備はすべて俺に任せてくれ」
王都の仕掛けた嫌がらせの裏をかき、堂々と最高の護衛を引き連れて駆けつけてくれた幼馴染。
「ふふ……王都の予算で最高峰の騎士隊を雇えたと思えば、これ以上の最適化はないわね」
「相変わらずだな、リーゼ」
レオンハルトが困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
頼もしい仲間が加わり、北領の守りはより一層強固になった。私は彼の差し出した手に自分の手を重ね、新しい季節へ向けて確かな笑みを浮かべた。




