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完成する距離

結局、彼女は何もできなかった。


声をかける理由がなかったわけじゃない。

ほんの一言でいい。


――最近、少し元気ない?


それだけでよかったはずなのに。


その一言を口にした瞬間、

何かが決定的に変わってしまう気がして、

どうしても踏み出せなかった。


もし気のせいだったら。

もし彼が、ただ少し忙しいだけだったら。

もし――本当に、距離を置こうとしているのだとしたら。


どの答えも、怖い。


だから彼女は、これまで通りに振る舞うことを選ぶ。

何も気づいていないふりをして、

同僚としての距離を、丁寧になぞる。


笑顔も、声の調子も、

すべて以前と同じように。


――でも。


同じように振る舞うほど、

届かないものの存在だけがはっきりしていく。


彼は優しい。

変わらず、優しいままだ。


だからこそ、わかってしまう。


その優しさが、

踏み出すためのものではなく、

線を引くための優しさに変わっていることを。


会話はある。

笑顔もある。

沈黙さえ、穏やかだ。


それなのに。


そこにはもう、

触れてはいけない何かが横たわっている。


手を伸ばせば届く距離のまま、

二人のあいだだけが遠くなっていく。


――どうして。


問いかけても、答えは返らない。


けれど本当は、薄く、かすかに理解している。


これは突然起きたことじゃない。

大きな出来事があったわけでもない。


もっと静かで、

もっと彼らしい理由。


彼自身が、

自分から遠ざかろうとしているのだということ。


その理解は優しさに似ていて、

同時にどうしようもなく残酷だった。


責められない。

引き止める言葉も、見つからない。


ただ見送るしかない形の距離が、

ゆっくりと出来上がっていく。


胸の奥が、静かに冷える。


泣くほどでもない。

絶望と呼ぶには、まだ早い。


それでも確かに、

何かが失われはじめている。


――このまま、終わるのかな。


その言葉を、彼女はすぐに打ち消す。


終わりなんて、まだ決まっていない。

何も始まってすらいないのだから。


それなのに。


始まらなかった未来の気配だけが、

こんなにもはっきりと胸を締めつける。



距離は、ある日突然広がるわけではなかった。


昨日と今日に、大きな違いはない。

挨拶もある。

仕事のやり取りも続いている。


ただ――

ほんの少しだけ、温度がない。


それだけのことなのに、

その“少し”は、取り返しがつかないほど深い。


目を合わせる時間が、わずかに短い。

名前を呼ぶ回数が、気づかないほど減っている。

沈黙を埋めていた人が、沈黙を通り過ぎる。


どれも些細な違い。


けれど彼女には、はっきりとわかった。


――離れていこうとしている。


大切に思うほど、遠ざかる。

壊したくないから、触れない。

守ろうとして、手放す。


優しさの形をした回避。


それを知っているからこそ、

彼女は何も言えない。


引き止めれば、彼を追い詰める。

気づかないふりをすれば、距離は完成する。


どちらを選んでも、

失う方向にしか進まない。


だから彼女は、何も選ばない。


時間だけが、静かに進む。




一方で彼は、

表面上はこれまで以上に穏やかだった。


丁寧で、落ち着いていて、

誰に対しても同じ距離を保つ。


完璧な均衡。


――そう見えるだけで。


感情が消えたわけではない。

消せないから、閉じた。


近づけば壊す。

望めば失う。

手に入るはずがない。


その確信だけが、静かに固まる。


彼女の笑顔を見るたび、

心はわずかに揺れる。


それでも、出さない。


出してしまえば、戻れなくなるから。


彼が選んだのは、

何も起こらない場所。

何も始まらない距離。


傷つけない代わりに、

永遠に触れられない位置。


それは安全で、正しくて、

そして――どうしようもなく孤独だった。




気づけば二人は、

同じ空間にいながら、

まったく別の時間を生きていた。


声は届く。

言葉も交わせる。


それなのに。


本当に伝えたいものだけが、

もう届かない場所へ沈んでいる。


距離は完成しつつあった。


まだ終わってはいない。

けれど始まる可能性も、ほとんど見えない。


静かに。

確実に。


取り返しのつかない形で。


二人のあいだに、

“何も起こらなかった未来”が、

現実になろうとしていた。


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