消えきらない光
家に帰ると、
世界は驚くほど静かだった。
扉を閉めた瞬間、
外で保っていた形が、わずかに歪む。
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
上着を椅子にかける。
毎日と同じ動作。
体は正確に覚えているのに、
その中にいる自分だけが、
うまくはまっていなかった。
部屋の空気も、照明の色も、
時計の音も変わらない。
それなのに。
ここに立っている自分だけが、
もう元の場所に戻れない気がした。
しばらく動けなかった。
何をするでもなく、
ただ立ったまま、呼吸だけを続ける。
胸の奥に、重いものが沈んでいる。
痛いわけではない。
苦しいとも少し違う。
もっと静かで、
もっと逃げ場のない感覚。
――終わった。
言葉にすると、あまりにも簡単だった。
何も始まっていないのに。
失ったと呼べるものもないのに。
それでも確かに、
何かは終わっていた。
ゆっくりと床に座り込む。
力が抜けたわけじゃない。
立っている理由が、見つからなかっただけだ。
テレビもつけない。
音も流さない。
静けさだけが、部屋いっぱいに広がる。
その中で、ようやく気づく。
どれほど必死に抑えていたのかを。
呼吸が乱れる。
それでも涙は出ない。
泣く資格がないと、どこかで知っているから。
何もしていない。
何も伝えていない。
何も選んでいない。
失う前に、自分で手放した。
――それだけだ。
それなのに、
胸の奥だけが理解を拒んでいる。
小さく、息が漏れる。
声にも、言葉にもならない。
その瞬間、
抑えていたものが静かに崩れた。
好きだった。
認めないまま、終わらせようとしていたけれど。
どうしても、消えてくれなかった。
あの時間も。
あの声も。
あの安心も。
全部、本物だった。
――だからこそ、怖かった。
顔を覆う。
音のない部屋に、途切れた呼吸だけが落ちる。
誰も見ていない。
誰にも知られない。
それでももう、
立っていられなかった。
どれくらいそうしていたのか、
時間の感覚は消えていた。
ただ一つ、残り続けるものがある。
――このままでいいのか。
それは問いというより、痛みに近い。
近づかなければ傷つかない。
望まなければ失わない。
そうやって守ってきたはずなのに。
守った先に残っていたのは、
何もない部屋と、一人の自分だけだった。
長い沈黙のあと。
彼はゆっくり顔を上げる。
何かを決めたわけじゃない。
勇気が生まれたわけでもない。
ただ。
このまま終わることだけは、
違う気がした。
初めて、ほんのわずかに思う。
――それでも。
もし、まだ間に合うなら。
壊れたままの呼吸で、
彼は静かに目を閉じる。
救いを求めたわけじゃない。
許されたかったわけでもない。
それでも。
胸の奥に、消えきらない光が残っている。
弱く、触れれば消えそうな光。
けれど確かに、そこにある。
壊れなければ、ここには来られなかった。
失ったと思った場所の底で、
ようやく――
彼は、
もう一度だけ立ち上がる理由を、
探し始めていた。




