足りない朝
目が覚めたとき、
最初に感じたのは――
静けさだった。
昨夜のざわめきは、残っていない。
代わりにあるのは、
よく知っている感覚。
何も起きていない朝。
いつも通りの自分。
それでいい。
そのはずだった。
顔を洗い、
決まった順番で支度をする。
ネクタイを結ぶ手つきも、
靴紐を締める力も、
昨日までと同じ。
元に戻った。
そう思えば、
安心できるはずなのに。
どこかが、わずかに重い。
理由は考えない。
考えれば、
昨夜の続きを思い出す。
家を出て、
同じ道を歩く。
同じ信号、
同じ風景。
変わらない世界の中にいれば、
心もまた動かずに済む。
そうやって、
これまでやり過ごしてきた。
職場の建物が見える。
足取りが、
ほんの少しだけ遅くなる。
気づかないふりをして、
そのまま歩く。
扉を開ける。
――そして。
視界の端に、彼女がいる。
それだけで、
胸の奥が揺れた。
すぐに目を逸らす。
近づきすぎない。
期待させない。
守ると決めた距離。
席に向かい、
椅子を引く。
それで終わるはずだった。
「おはようございます。」
柔らかい声が落ちる。
顔を上げる。
昨日と同じ表情で、
彼女はそこに立っていた。
探る気配も、
特別な意味もない。
ただの朝の挨拶。
それだけなのに。
胸の奥が、
ゆるむ。
責められていない。
何も求められていない。
変わらないままで、
そこにいる。
それが――
こんなにも楽だなんて。
「……おはようございます。」
声は、思ったより普通だった。
彼女は小さく笑い、
何も足さずに自分の席へ戻る。
追いかける理由も、
引き止める必要もない距離。
――それでいい。
そう思うのに。
胸の奥が、
わずかに足りない。
気づいた瞬間、
呼吸が浅くなる。
求めている。
ほんの少しだけ、
昨日の続きを。
その事実から目を逸らすように、
資料を開く。
文字を追う。
意味は入ってこない。
ページをめくる。
視界の端で、
彼女が誰かと話している。
穏やかな声。
変わらない笑顔。
胸の奥が、
また揺れる。
昨日より、
少しだけ深く。
逃げるほどではない。
けれど、無視もできない。
その揺れが、
静かに残る。
彼は目を落としたまま、
気づかないふりをする。
それでも――
消えなかった。




