安心する背中(彼女視点)
夜。
雨が降っている。
同棲して三週間。
生活は静かに回り始めている。
彼はキッチンに立っている。
珍しく、自分から。
「今日、俺がやるよ。」
それだけ。
特別な日じゃない。
機嫌取りでもない。
ただの生活。
彼女はソファに座って、その背中を見る。
包丁の音。
換気扇の音。
テレビの小さな雑音。
なんでもない夜。
ふと気づく。
(私、緊張してない。)
彼が無口にならないか。
距離を取らないか。
母から何か言われてないか。
未来を急に怖がらないか。
どこかでずっと、微細に構えていた。
でも今、
身体が柔らかい。
「味見して。」
彼が振り向く。
エプロン姿で、少し得意げ。
彼女は立ち上がる。
スプーンを受け取る。
少ししょっぱい。
でも言わない。
「おいしい。」
思わず、少し笑ってしまう。
彼が照れる。
「適当だからな。」
そう言って、また鍋を見る。
その横顔。
逃げない人の顔。
その瞬間。
胸の奥の最後の硬さが、ほどける。
(大丈夫だ。)
彼は揺れる。
これからも、きっと揺れる。
でも、戻る。
彼女は後ろから彼を抱きしめる。
初めて、自分から。
計算じゃない。
支えるためでもない。
ただ、触れたいから。
彼が少し驚く。
「どうした?」
彼女は小さく言う。
「安心しただけ。」
彼は何も分析しない。
何も深掘らない。
ただ、片手で彼女の手を包む。
それだけ。
彼女は思う。
私はもう、強くなくていい。
試さなくていい。
追わなくていい。
“選ばれている”と感じられる。
そして、
“選び続けられる”と信じられる。
雨音の中、
二人はそのまま立っている。
未来の約束はまだない。
でも、
今この生活を
ちゃんと持っている。
外では
まだ雨が降っている。
部屋の中は、
静かだった。




