第9話 やさしさの重さ
朝の風は乾いていた。港のクレーンが鉛筆の線で空を切り、潮の匂いは遠い。昇降口のガラスに手を当てると、曇りはできない。温度が釣り合っている。今日の十秒当番は木下、拭く係は浜崎。黒板の右下には、先生が書いた一文が残っている。いつか、この名前をやさしく消す。白い線は薄くなっていない。消そうとしない限り、黒板の言葉は残る。
教室に入ると、十七番の席の上に朝の光が斜めに落ちていた。机の奥の名札は相変わらず「白鐘」の二文字だけを正しく見せ、透明の台座が小さく光る。角の欠けは昨日より目立たない。見慣れただけかもしれない。見慣れることは、軽くなることではない。持ち上げやすくなることだ。
木下が黒板の前に立ち、背中を伸ばした。十秒。彼の十秒は、見た目より丁寧だ。吸って、吐いて、止める。止めたところに乱れがない。ダサいと笑われる役割を、なぜか彼はうまく育てる。十秒の終わりに、彼は何も言わず席に戻った。僕は呼ばない。今日の僕らは、呼ばない日に予定を置いてある。
午前の授業は普通に進む。英語の教科書の短い会話、数学の公式の例題、社会の年表の穴埋め。十七番の席はその全部の後ろに静かにいる。誰もいないのに、遅刻でも欠席でもなく、教室の一部として、今日もいる。
昼休みに、風紀委員の黒い腕章が教室の入口に現れた。三年の先輩だ。腕章はきつく巻かれ、笑顔は丁寧だけど目は硬い。
「樫井先生、少しよろしいですか」
廊下で話す声は低く、単語だけが聞こえた。外から見えないように、掲示の位置、名簿、責任、説明。最後に先生の声が落ち着いて響く。
「ここで決める。ここで持つ。いまはそういう時間だ」
「ただ、今日の放課後の校内巡視では、教室の窓際に立ち入りがあります。念のため」
「分かった。その時間には教室にいる」
先輩は頷いて去った。役割を持つ人の歩き方は速い。速いけれど、急いではいない。急ぐと、見るものが減るからだ。
午後、カリンがノートに「今日」と書いてから下線を引いた。下線は真っ直ぐだが、端に小さな跳ねがある。緊張は、線の端に溜まる。
「取材は最低限にする。今日やるのは『練習の次の段』。練習と本番の間に挟む、予行という名前の練習。記事の言葉は薄く、写真は撮らない。音を拾わない。拾うのは空気だけ」
「十秒のあと?」
「十秒のあとに、息を置いて、そのあと、粉を拭く。粉を拭きながら、返す練習をする。拭く、は『消す』と似てるけど、違う。違いを紙にする」
「分かった」
三限が終わる直前、校内放送が鳴った。声は事務室。
「十五時から二十分間、校内巡視が行われます。授業に関係のない掲示物は教室の内側に寄せてください」
声は柔らかいのに、意味は固い。僕たちは頷くだけ頷き、やることを少し早くした。
放課後。教室の窓は開けない。風を入れないで、音を薄くする。樫井先生は通路に椅子を置き、腕を組まずに手を膝に置いた。椅子の位置はいつもと同じ。いつもと同じ位置で別のことをするのが、今日のやり方だ。
「予行だ。十秒、息、拭く、そして置く。置くのは、言葉でも物でもなく『約束』だ。やってみろ。決めるのは、明日じゃない。いつでもいい。けれど、いましかない時間もある」
吹奏楽部の彼女が立った。立つ前の息が小さく深い。彼女は立たずにやるときも美しいが、立つときはもっと綺麗だ。十五、十六の名前は呼ばれない。放課後の教室に点呼はない。けれど、僕たちは自然にその順で呼吸の準備をする。彼女は息を置いた。吸う、吐く、止める。止めた後、唇がわずかに動いた。声にならない歌が一瞬だけ生まれて、消えた。忘れるために生む、短い声だ。
浜崎が前へ出て、拭き始める。黒板消しは新しくない。角が丸くなり、布の目が柔らかい。白鐘ユナ、という白い線の周辺だけを、円の外側を撫でるようにそっと拭く。文字そのものに触れない。触れないで、周りの粉だけを落とす。粉は小さな雪みたいに黒板消しに集まり、瓶に戻される。昨日より手つきがゆっくりだ。ゆっくりは、やさしい。
木下は黒板の右下へ行き、小さな白い点をチョークで一つ打つ。昨日はそこに糸があった。今はない。点は、その代わりに置かれる。点は目印。目印は約束の仮置き。点があると、人は迷わない。迷わないで、立てる。
倉田は十七番の席の後ろから一歩だけ前へ出た。出て、止まる。彼は何も言わず、机の奥の名札をそっと引き出し、元の位置に少し戻した。ほんの数ミリ。内側に寄っていた紙が、外へ近づく。外と言っても、机の中の話だ。けれど、その数ミリで、呼吸が変わる。
僕は最後に、黒板の右下に短い紙を貼った。手のひらから汗が出ないよう、ゆっくり貼る。紙には、こう書いた。
返す約束を、ここに置く
やさしさの重さは、皆で持つ
文字は細く、濃すぎない。濃すぎる言葉は、嫌われやすい。軽すぎる言葉は、忘れられやすい。その中間に置く。
予行が終わった瞬間、廊下の向こうで靴音が近づいた。風紀委員の巡視だ。扉が開き、先輩が三人入ってくる。目は硬く、声は柔らかい。
「窓際の掲示、確認します」
「こちらです」
カリンが先に出て、紙の位置と意図を短く伝える。先輩は頷き、黒板の右下の小さな紙に視線を置いた。視線は指と同じくらい跡を残す。跡が残れば、ここが場所になる。
「内容は承知しました。外から見えません。……一点だけ、確認。名簿は、いつ消すんですか」
樫井先生が椅子から立ち、黒板の一文を指さした。
「いつか。この言葉を消す日と一緒だ」
先輩は短く息を吐き、首を縦に振った。「分かりました。責任の持ち方は見えました。見えないものについては、いまは言いません」
巡視が去る。扉が閉まる音は軽い。軽い音の後ろに、教室の空気が少しだけやわらかく戻る。
「もう一回、やろう」
僕が言うと、みんな頷いた。二回目の予行。十秒、息、拭く、点、名札、紙。順番は同じ。やり方は同じ。でも、同じではなくなる。繰り返しは、同じの顔をして、違いを増やす。
終わったころ、音楽室の方角から低い音がした。雷ではない。鐘でもない。床板が人を受け止める音。誰かが跳ねて着地したくらいの、短い重さ。僕とカリンは目を合わせた。倉田が息を飲む。
「行こう」
音楽室の扉は少し開いていた。窓からの光が床に格子の模様を作り、譜面台はまっすぐ並んでいる。が、列の一番手前だけが、またわずかに前へ出ている。ピアノの蓋は半分開き、鍵盤の端の白が細く光った。中に人影はない。誰もいないのに、人がいるときの空気がある。
「十秒、ここで」
カリンが言う。僕らは鍵盤の横に並んだ。息を合わせる。合わせない練習も挟む。合わせたところで、合わせない。合わせないところで、合わせる。鍵盤に触れない。触れないで、温める。旧市街の女性の言葉を思い出す。鳴らす前に、舌を温める。鳴らさないときも、温める。
そのとき、譜面台の列のいちばん手前の紙が、風もないのに一枚だけ捲れた。めくれて、戻る。戻って、ほんの少しだけ角度を変えた。見間違いでも、構わない。見間違いを受け入れるのが、今日のやり方だ。
帰り道、掲示板の前で足が止まった。紙は新しくない。昨日までの紙の角がめくれ、裏に小さな字があった。誰も気づかないくらいの大きさで、こう書かれている。
やさしさは、軽くしないこと
立ち尽くした僕の横で、カリンが小さくうなずいた。「軽くしてしまうと、持つ人が減る。減った分だけ、落としやすくなる。——分かってるよ、って言われてる気がする」
夜。家に帰って、手帳を開く。今日の予行、巡視、音楽室、譜面台、紙の裏の言葉。書き終える頃、机の端の写真がまた傾き、今度は床に落ちた。拾い上げる。裏を見る。何も書いていない。何も書いていない裏は、見えないまま残る。残るから、置ける。
携帯が震えた。差出人なし。短い三行。
あした
十秒のあと
やさしく、呼んでください
句点はない。命令でもお願いでもない調子。僕は返事を打たない。打たないかわりに、息を練習した。吸って、吐いて、止める。止めた先に、声を置かない。置く代わりに、声の形を机の上に描く。指で、空気に。描いた形は、紙に残らない。残らないから、持てる。
眠る前、窓の外に月はなかった。雲は薄い。風は曲がらず、まっすぐに通る。耳の奥で短い音が一度だけ鳴った。誰かの笑いの手前の息だ。返す音。鳴って、止まる。止まって、鳴らないまま、朝へ繋がる。
翌朝。港の音は遠く、空は高い。教室に入ると、黒板の名前は少しだけ薄く見えた。粉が落ちたのではない。目のほうが昨夜より遠くを見ているからだ。十七番の席は空。机の奥の名札は、また数ミリ外に出ている。誰かが触れたのか、自分で出てきたのか。自分で、という言い方は馬鹿みたいだ。でも、馬鹿みたいでいい。馬鹿みたいな言い方が、正しい日がある。
今日の十秒は、僕だった。吸って、吐いて、止める。止めたあと、僕は黒板の右下の点を視界の端に入れ、先生の一文を小さく読んだ。いつか、この名前をやさしく消す。読む、は声を出さなくても読める。読めば、体のどこかが整う。
十秒が終わる。呼ぶ。白鐘ユナ。声は小さい。届く分だけの大きさ。教室の空気は揺れない。窓の外でカーテンが少しだけ膨らむ。誰かが椅子をひく音が、教室の外、遠い教室で一度だけ鳴る。響かない。響かないのに、返る。返る、は心のほうだ。
点呼のあと、先生は黒板の前に立ち、名前の周りを黒板消しで軽く撫でた。触れない。周囲だけ。粉は瓶に戻され、拭く係の二人がゆっくり蓋をする。そのゆっくりに、教室の全員が合わせる。合わせられない人もいる。合わせられない人の呼吸が、今日は整って見えた。
二限の終わり、資料館からメモが届いた。司書さんからだ。小さな封筒。中の紙は薄い。二行だけ。
鐘の舌は、来週には一度、箱にしまいます
代わりに、空の額縁を置きます
箱。額縁。空。僕は紙を見つめ、胸の真ん中が少しだけ軽くなるのを感じた。軽くなるのに、薄くならない。こういう軽さは、支えるためのものだ。
昼休み、校庭の端で旧市街の女性に会った。ベンチの脚の上に座り、白い布袋を膝に置いている。彼女は僕を見て、微笑まないまま目だけ柔らかくした。
「今日は、呼んだんですね」
「はい。十秒のあと、やさしく」
「やさしく、が難しかったでしょう」
「難しいです。声が先に走りそうになる。走りそうになったところで、手綱を持つ感じです」
「それを何度もやると、走りたい気持ちそのものが、やさしさに変わります」
彼女は布袋から細い白い糸を一本取り出し、指に巻いた。
「これを、返します。もともと、あなたたちのものではないけれど、預かってもらっていた。預かったものは、返すと軽くなる。軽くなった分だけ、やさしくなる」
糸を受け取り、ポケットに入れた。糸は軽い。軽いものは失いやすい。けれど、見つけやすい。見つけやすいものは、返しやすい。
午後、校内は少しざわついた。誰かが体育館のガラスを割ったのではないか、という噂。実際は、強い風で外の看板が倒れた音だった。噂はすぐに別の形になって流れた。噂は、呼吸の逆側にいる。吸ったものが嘘になりやすい。嘘が全部悪いわけではない。嘘は、人を守ることもある。でも、今日の僕らは、嘘の力を借りない。
放課後の話し合いは短かった。明日の段取りだけを決める。明日の十秒、息、拭く、呼ぶ、呼ばない、紙、瓶、額縁。鐘の舌は箱に戻る。戻った箱の前に、空の額縁を置く。空は写っていないものを写す。写っていないものは、写る。
帰り際、黒板の名前を見た。白鐘ユナ。線は同じなのに、厚みが違う気がした。厚くも薄くもない、ちょうどの厚み。ちょうど、は難しい。難しいのに、たしかにそこにある。
廊下を曲がると、音楽室の扉が開いていた。中に入る。譜面台は揃い、ピアノの蓋は半分。鍵盤に指を置く前に、息を揃える。揃えたところで、息を離す。離したところで、声にならない歌を一度だけ置く。置いた歌は、すぐ忘れる。忘れると、遠くへ届く。届いた先で、返る。返った音は、心のほうで鳴る。
夜。窓の外の風は静かで、星は少ない。手帳に今日のことを書き、最後に、黒板の右下の点のことを短く書いた。点は小さい。小さいものは、消えやすい。消えやすいものを、毎日書き足す。書き足すと、消えることが目的じゃなくなる。ここにいる、が目的になる。
灯りを消す前、机の上の写真がまたずれた。落ちなかった。落ちない角度を覚えたらしい。覚えるのは、やさしさだ。やさしさは、軽くしないこと。持てるだけ持つこと。持てないときは、持てる人にだけ少し渡すこと。渡して、返すこと。
目を閉じる。耳の奥で、短い音が鳴った。鐘ではない。雷でもない。呼吸の終わりと始まりの、間の音。返す音。あの音を、明日も聞けますように。あの音の重さを、皆で持てますように。僕はそう思いながら、眠りについた。
翌朝。空は薄く、港は静か。教室に入る。黒板の名前は、昨日より少しだけ白い。粉が落ちていないのに、白い。十七番の席の上、光が短く跳ねる。机の奥の名札は、台座ごと前へ出ていた。誰かが動かしたのではない。朝の掃除で机をずらした拍子に、自然に滑り出たのだろう。自然、という言葉は便利だ。便利だけど、正確ではない。正確じゃなくていい。今日の僕らは、便利のほうでやる。
十秒は、倉田だった。吸って、吐いて、止める。止めた先で、彼は目を開けないまま、片手を胸に当てた。胸の熱は手のひらに移る。熱は移ると軽くなる。軽くなると、持てる人が増える。彼は目を開け、僕を見る。僕は頷く。呼ぶ。白鐘ユナ。声は昨日より少しだけ低い。低い声は遠くへ行く。遠くへ行って、戻る。
点呼が終わると、先生は黒板の前へ来て、名前の右端に細い白を、ほんのひと撫でだけ重ねた。重ねたあと、右下の点を指でつつく。粉が指先に少しつく。先生は瓶の蓋を開け、その粉をそっと戻す。戻す、は返すの仲間だ。返すを増やしたぶんだけ、消すがやさしくなる。
放課後、資料館から連絡があった。鐘の舌は箱に戻された。箱の前に空の額縁が置かれた。額縁は何も囲っていないのに、そこに四角い場所ができた。場所は、呼びもしないし、呼ばれもしない。立つだけだ。立てば、来る。来れば、返る。
僕らは帰り道に資料館に寄った。扉は静かに開き、空の額縁は静かに床に影を置いていた。額縁の中の空気は、外の空気と同じなのに、少し違う。囲われると、空気は落ち着く。落ち着いた空気は、呼吸を楽にする。僕らは額縁の前で十秒だけ黙り、息を置いた。置いて、忘れた。忘れるのが、今日のやさしさだった。
帰り際、司書さんが小さな紙片を渡してくれた。古い書類の端に書かれた、短い言葉。
名は借りもの
息は自分のもの
返し方だけ、皆のもの
紙は薄く、折り目は深い。折り目の深さが、その言葉の重さと同じに見えた。
夜。手帳に書く。額縁、箱、紙片。明日、僕らはまた十秒を持つ。やさしく呼ぶ日も、やさしく呼ばない日も、同じにする。やさしさの重さを軽くしない。軽くしないで、皆で持つ。持ちきれない分だけ、明日に残す。残った分だけ、物語になる。物語は、いま、ここにある。
灯りを消す前、机の端の写真がほんの少しだけ前へ滑った。滑り、止まる。止まった角度を見て、僕は笑った。まっすぐじゃないほうが、たしかにそこにいる気がする。たしかにいる。いることを、明日も持っていく。やさしく、持っていく。やさしく、消せる日のために。




