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十秒で消える君の名前を、僕たちは記録する  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 先生は何を見なかったのか

 榊先生の家は、町の端にあった。

 地図で見ると、それは住宅地の外れだった。だが実際に歩いてみると、外れというより、町から半分こぼれ落ちた場所に見えた。新しい道路は途中で途切れ、古い農道に似た細い道が山裾へ向かって続いている。道路脇には使われなくなった倉庫があり、錆びたシャッターの前には枯れ草が積もっていた。

 レンとカリンは、放課後のバスを降りてから十五分ほど歩いた。

 空は曇っていた。昨日の雨の名残がまだ地面にあり、靴底がところどころ湿った土を踏む。風はない。町の中心で聞こえていた工事の音も、ここまでは届かなかった。

 カリンはスマートフォンの地図を確認しながら歩いている。

「この先」

「本当にここに先生が住んでるのか」

「住所は合ってる」

「休職中って聞いたけど、ひとり暮らし?」

「たぶん。学校の古い連絡網には家族構成までは載ってなかった」

「どうやって連絡取ったんだ」

「学校新聞の過去記事にメールアドレスが残ってた。地域記録整理係の担当として」

「先生、よく返信したな」

「文面に、楢原由奈の名前を書いた」

 レンは思わず足を止めた。

「書いたのか」

「うん」

「大丈夫なのか、それ」

「わからない。でも、普通にお願いしたら会ってくれなかったと思う」

 カリンは顔を上げた。

「返事は短かった。『学校には言わないでください。家に来るなら、日が落ちる前に』って」

「それ、完全に何か知ってる人の反応だな」

「うん」

 二人はまた歩き出した。

 榊先生。

 作業日誌に何度も名前が出てきた教師。地域記録整理係の顧問。ユナが告発ファイルを見せようとした相手。町長に話を通すと言った人物。そして、災害後に休職した人物。

 ユナは録音の中で言っていた。

 先生に渡す。

 先生が駄目なら新聞社に送る。

 つまり、榊先生は最初の窓口だった。

 もし彼がユナの訴えを受け止めていれば、何かが変わったのか。旧校舎の危険が明るみに出て、あの日の崩落を避けられたのか。ユナは死なずに済んだのか。

 考えても答えは出ない。

 だが、先生は何かを見たはずだった。

 あるいは、見なかったことにした。

 道の突き当たりに、小さな平屋があった。

 古い木造の家で、庭には手入れされていない植木鉢がいくつも並んでいる。表札には「榊」とあった。玄関の横に郵便受けがある。中には新聞が一部、斜めに差し込まれていた。廃屋ではない。人は住んでいる。ただ、生活の音が少なすぎる。

 カリンが呼び鈴を押した。

 家の奥で、かすかな物音がした。

 しばらくして、扉が開いた。

 出てきたのは、四十代半ばほどの男だった。

 写真で見たより痩せている。いや、レンは榊先生の写真をはっきり見た記憶があるわけではない。作業日誌の記述と、古い学校新聞に載っていた集合写真だけだ。そこでは眼鏡をかけた穏やかな教師という印象だった。だが目の前の男は、頬がこけ、無精髭が薄く伸び、目の下に深い影があった。

 それでも、教師だった人間特有の、相手を観察する癖のようなものは残っていた。

 彼はレンを見て、動きを止めた。

「久瀬、くん」

 その声はかすれていた。

 レンは軽く頭を下げた。

「久瀬蓮です」

「大きくなったな」

 その言葉は、時間の流れを確認するようでもあり、別の何かを避けるための挨拶にも聞こえた。

 榊は次にカリンを見た。

「朝倉さんも」

「お久しぶりです」

 カリンは丁寧に頭を下げた。

 榊は玄関の外を見回した。誰かに見られていないか確認しているようだった。

「入りなさい。長くは話せない」

 室内は薄暗かった。

 窓には厚いカーテンが半分閉められ、昼間の光がほとんど入っていない。玄関脇の棚には、町の広報誌が積まれていた。古いものばかりだ。リビングへ通されると、テーブルの上には湯飲みがひとつ、開きかけの本が一冊、そして薬の袋が置かれていた。

 榊はそれを慌てて片づけた。

「散らかっていて悪い」

「いえ」

 カリンは椅子に座る前に、部屋の中を一度だけ見回した。記録する目だ。カーテン、書棚、壁の写真、机の上の封筒。彼女の視線は短く、しかし細かい。

 レンはその隣に座った。

 榊は向かいに腰を下ろした。

 しばらく、誰も話さなかった。

 沈黙は、ただの間ではなかった。三人の間には、すでに楢原由奈という名前が置かれている。その名前に最初に触れるのが誰なのか、全員が待っていた。

 最初に口を開いたのは、榊だった。

「由奈の名前を、どこで知った」

 レンは鞄から黒いノートを出した。

「思い出しました。少しずつ」

 榊の顔が強張る。

「思い出した?」

「全部ではありません。でも、声が残っていました」

 カリンがボイスレコーダーを机の上に置いた。

 榊はそれを見た瞬間、明らかに呼吸を止めた。

「それは」

「旧校舎の地下保管庫にありました」

 カリンが言った。

「先生は、これを知っていますか」

 榊は答えなかった。

 ボイスレコーダーから目を離せないようだった。

 レンはその表情を見て、確信した。

 知っている。

 少なくとも、この機械の存在を知っている。

「再生します」

 カリンが言った。

 榊は止めなかった。

 再生ボタンが押される。

 ノイズ。

 雨音。

 そしてユナの声。

『はい、記録開始。今日の担当はカリンです』

 榊の顔が歪んだ。

 ほんの一瞬、教師ではなく、罪を抱えた人間の顔になった。

 録音は続く。

『町史では昭和四十二年の土砂災害の死者数は十二名。でも当時の地方紙では十五名、行方不明者三名。さらに旧墓地台帳には、町史に載っていない名字が三つあります』

 カリンが途中で止めた。

「この声、楢原由奈さんですね」

 榊は目を閉じた。

「そうだ」

 初めて、大人の口から肯定が出た。

 レンの中で何かが沈んだ。

 ユナはいた。

 教師も知っていた。

 それなのに、町の記録にはいない。

「先生は、ユナを覚えているんですね」

 レンが言うと、榊は目を開けた。

「忘れられるわけがない」

 その声には、怒りではなく疲れがあった。

「では、どうして名前が追悼碑にないんですか」

 カリンの問いは鋭かった。

 榊はすぐには答えなかった。湯飲みに手を伸ばしかけ、結局触れなかった。

「私は、すべてを知っているわけじゃない」

「知っていることだけで構いません」

「君は、昔からそうだったな」

 榊は苦い笑みを浮かべた。

「記録に厳しい」

 カリンは表情を変えなかった。

「先生が教えました」

「そうだったか」

「そうです」

 その短い会話だけで、かつての関係が少し見えた。榊は三人の活動を見守っていた。少なくとも最初は。紙の扱い、資料の読み方、記録の取り方を教えたのは、この人だったのかもしれない。

 だからこそ、裏切られた重みもある。

 レンは机の上に、作業日誌のコピーを置いた。

「先生の名前が何度も出てきます。ユナは町史の矛盾を見つけて、先生に相談した。先生は町長に話を通すと言った」

 榊は、作業日誌を見た。

 古い字。三人の筆跡。ユナの丸い文字。

 彼はそれに触れようとしなかった。

「私は、止めるべきだった」

「実際、止めたんですよね」

 レンが言うと、榊は顔を上げた。

 その目には、驚きではなく、覚悟のようなものがあった。

「ああ。止めた」

 カリンの指がわずかに動いた。

「なぜですか」

「危ないと思ったからだ」

「誰が」

「由奈が」

「町長に?」

「町に」

 榊はゆっくり息を吐いた。

「君たちが調べていたものは、ただの郷土史の誤記ではなかった。北谷の災害記録、旧墓地、移転補償、危険区域指定、旧校舎の立地。全部がつながっていた。もし公になれば、町は過去の行政判断を問われる。復興計画にも影響が出る」

「だから、黙らせたんですか」

 カリンの声は低かった。

「違う」

「違わないでしょう」

「私は、由奈を守りたかった」

「守れていません」

 その言葉は、部屋の空気を切った。

 榊は何も言えなかった。

 レンはカリンを見た。彼女の顔は冷静だったが、膝の上で握られた手は白くなっている。怒っている。だが、その怒りをきちんと形にして言葉へ変えている。

 榊は、しばらくして言った。

「そうだ。守れなかった」

 声は小さかった。

「私は、何も守れなかった」

 レンはボイスレコーダーを指差した。

「ユナは、町長室に呼ばれたと言っていました」

 榊の肩がかすかに揺れた。

「先生が話を通したからですか」

「……そうだ」

「何を話したんですか」

「北谷の旧災害資料について、生徒が疑問を持っていると。町史の記載と新聞記事に差があると。資料の確認をさせてほしいと」

「町長に直接?」

「最初は教育委員会へ話した。そこから町長へ伝わった。数日後、私と由奈だけが呼ばれた」

「僕たちは?」

 レンが訊いた。

「君と朝倉さんは呼ばれていない」

「なぜユナだけ」

「楢原の家の子だったからだ」

 その言葉で、すべてが少しだけ濃くなった。

 榊は続けた。

「町長は、由奈の名字を知っていた。北谷の楢原だな、と言った」

「町長は、昔の楢原家のことも知っていた?」

「知っていた。詳しくは言わなかったが、明らかに知っていた」

「それで何を?」

「古い記録を掘り返すのは、復興の妨げになると言った」

 録音に残っていた言葉。

 カリンがノートを開く。

「『亡くなった人を静かに眠らせてあげるのも行政の仕事だ』」

 榊はうつむいた。

「録音に残っていたのか」

「ユナの証言として」

「そうか」

 彼は苦く笑った。

「あの子は、何でも録る子だった」

「先生はそのとき、何と言ったんですか」

 レンが訊く。

 榊はすぐには答えなかった。

 部屋の時計の針が、小さく音を立てる。

「私は、謝った」

「誰に」

「町長に」

 レンは意味がわからなかった。

 カリンも動きを止めた。

「先生が、町長に?」

「ああ。生徒が不用意に騒がせて申し訳ありません、と言った」

 榊の声はかすれていた。

「由奈は、私を見ていた」

「先生を?」

「あの目を、私は忘れられない」

 榊は両手で顔を覆った。

「失望した目だった。怒っていた。泣いてはいなかった。あの子は泣かなかった。ただ、私を見ていた。先生もそっちなんですね、という目だった」

 レンは胸が詰まった。

 ユナが町長室で何を感じたのか、少しだけ見えた気がした。頼ろうとした大人が、町の側に頭を下げる。自分の調査が、迷惑として処理される。記録を残したいという訴えが、復興を妨げるものとして扱われる。

 それでもユナは止まらなかった。

「そのあと、先生はユナに何と言ったんですか」

 カリンが訊いた。

「もうやめなさい、と言った」

「理由は?」

「君を危険に晒したくない、と」

「本音ですか」

「半分は」

「もう半分は?」

 榊は顔を上げた。

「自分が怖かった」

 正直な言葉だった。

 あまりにも遅すぎる正直さだった。

「教師として、町と揉めるのが怖かった。学校から外されるのが怖かった。復興の空気に水を差す人間になるのが怖かった。由奈の言うことが正しいと認めたら、自分が今まで見て見ぬふりをしていたものまで認めなければならない。それが怖かった」

「見て見ぬふりをしていたもの?」

 レンが訊く。

 榊は頷いた。

「旧校舎の裏山が危ないことは、教師の間でも話題になったことがある。雨の日は水が流れ込みやすい。古い斜面だから、補強が必要かもしれない。そういう話はあった。でも正式な危険区域ではないと言われ、点検でも問題なしとされていた。だから、それ以上は誰も言わなかった」

「正式な記録がなかったから」

「そうだ」

「その正式な記録が、過去に小さくされていたかもしれないのに」

 榊は、言葉を失った。

 レンの声は震えていた。

「ユナはそれを見つけたんですよね。過去の死者数が小さくされていたから、危険も小さく扱われた。その結果、旧校舎が使われ続けた。そういうことですよね」

「可能性はある」

「可能性じゃない」

 レンは思わず机を叩きそうになった。だが、手を握りしめて堪えた。

「ユナは死んだ」

 榊は目を閉じた。

「ああ」

「追悼碑から名前も消された」

「ああ」

「先生は、それを知っていたんですか」

 沈黙。

 この問いだけは、すぐに答えられないらしい。

 榊は長い時間をかけて、口を開いた。

「最初から知っていたわけじゃない」

「いつ知ったんですか」

「追悼碑の除幕式の前」

 レンとカリンは同時に息を呑んだ。

「由奈の名前がないと気づいた。学校の職員名簿、死亡者名簿、式典資料。どこにもない。私は教頭に訊いた。楢原由奈の扱いはどうなっているのか、と」

「教頭は何と」

「調査中だと。公式には旧校舎内で死亡が確認された生徒として扱わない、と」

「どうして」

「遺体が、すぐには確認されなかったから」

 レンの胸が冷えた。

「すぐには?」

 榊は唇を結んだ。

「災害直後、由奈は行方不明扱いだった。だが、数日後に……」

 言葉が止まる。

「発見されたんですか」

 カリンが静かに訊いた。

 榊は頷いた。

「地下通路の近くで、遺留品が見つかった。本人と見られる痕跡もあった。だが、正式な発表はされなかった」

「なぜ」

「町は、旧校舎の危険性をめぐる調査中だった。楢原由奈の名前が出ると、彼女が何を調べていたのかも問題になる。だから……」

「消した」

 レンが言った。

 榊は否定しなかった。

「私は、抗議しようとした」

「しましたか」

 カリンが訊く。

 榊は首を横に振った。

「できなかった」

「なぜ」

「自分が、由奈を止めたからだ。町長室で頭を下げ、調査をやめるように言い、災害の日にも……」

 榊の声が途切れた。

 レンは顔を上げた。

「災害の日にも?」

 榊は目を閉じたまま言った。

「由奈がファイルを持って職員室へ来た。雨が強くなっていた。地震の少し前だ」

「ユナが?」

「ああ。今日中に先生に渡す、と言っていた。私は、受け取らなかった」

 カリンの顔色が変わった。

「どうして」

「その日は町の担当者が学校に来ていた。式典準備の打ち合わせで。私は、その場でファイルを受け取るのが怖かった。だから後で資料室に行くと言った」

「それでユナは資料室へ戻った」

 レンの声は、ほとんど掠れていた。

「そうだ」

「先生が受け取っていれば、ユナは資料室へ戻らなかったかもしれない」

 榊はうつむいた。

「そうだ」

 部屋が静まり返った。

 レンは、胸の中で何かが崩れる音を聞いた。

 ユナはファイルを渡そうとしていた。

 榊は受け取らなかった。

 ユナは資料室へ戻った。

 そこで地震が起きた。

 録音の中で、ユナはファイルを持っていた。レンはそれを見ていた。そして自分は叫んだ。

 ユナ、そのファイルを持って逃げろ。

 いくつもの選択が、ユナを資料室へ押し戻していた。

 町長が止めた。

 榊が受け取らなかった。

 レンがファイルを持って逃げろと言った。

 そして、町が名前を消した。

 誰か一人の悪意だけではない。小さな保身と、小さな恐怖と、小さな沈黙が積み重なって、一人の少女の名前を押し潰した。

「先生は」

 レンは、言葉を絞り出した。

「何を見なかったんですか」

 榊は顔を上げた。

「ユナが、助けを求めていたことですか。町が過去の名前を消していたことですか。旧校舎が危なかったことですか。それとも、自分が逃げたことですか」

「全部だ」

 榊は答えた。

「私は、全部を見なかった」

 その声には、もう言い訳はなかった。

「見えていた。由奈が正しいことも、町が隠していることも、旧校舎が安全ではないことも、自分が怖がっていることも。全部見えていた。でも、見なかったことにした」

 カリンが静かに訊いた。

「それを、証言してくれますか」

 榊は固まった。

「証言?」

「私たちは、ユナの名前を戻したい。追悼碑に。記録に。町史に。そのためには、先生の証言が必要です」

「私は……」

「先生はもう一度、見なかったことにしますか」

 カリンの声は、静かだった。

 だからこそ、逃げ道がなかった。

 榊はボイスレコーダーを見た。作業日誌を見た。三人の文字を見た。ユナの名前を見た。

 そして、ゆっくりと言った。

「時間をくれ」

「どれくらいですか」

「明日まで」

「式典は明後日です」

「わかっている」

「明日、返事をください」

 カリンは立ち上がった。

「証言してくれるなら、私たちは先生の言葉を記録します。してくれないなら、先生が知っていて沈黙したことも記録します」

 榊は苦しげに笑った。

「厳しいな」

「先生が教えました。記録に感情を混ぜるな、と」

「そんなことまで覚えているのか」

「覚えています。忘れていたけど、戻ってきました」

 その言葉に、榊は目を伏せた。

 レンも立ち上がった。

「先生」

「何だ」

「ユナの顔、覚えていますか」

 榊はしばらく黙った。

「覚えている」

「どんな顔でしたか」

 それは、レンがずっと知りたかったことだった。

 写真では顔だけが消えている。夢でも見えない。声は残った。名字も戻った。けれど顔だけがまだない。

 榊はゆっくりと答えた。

「よく笑う子だった。でも、笑っていても目だけは真剣だった。何かを見つけると、すぐに身を乗り出す。人の話を最後まで聞く前に、もう次の疑問を持っていた。少し危なっかしくて、でも周りを巻き込む力があった」

 レンは息を止めた。

 顔そのものではない。

 だが、輪郭が少し近づいた。

「髪は?」

「肩より少し長い。体育祭のときは、白い鉢巻きをしていた」

「手首にミサンガを?」

 榊は驚いたようにレンを見た。

「覚えているのか」

「見つけました」

 レンはポケットから青と白のミサンガを出した。

 榊の表情が崩れた。

「それを、どこで」

「旧校舎の地下で」

「そうか……」

 榊はミサンガを見つめた。

「あの子は、それを大事にしていた」

「何の願掛けだったか知っていますか」

 榊は首を横に振った。

「直接聞いたことはない。ただ、一度だけ言っていた」

「何を」

「名前を返すまで切らない、と」

 レンの手の中で、ミサンガが重くなった。

 名前を返すまで。

 それは、自分の名前ではなかったはずだ。

 昭和四十二年に消された三人。楢原の墓。町史から外された名前。ユナは、その名前を返そうとしていた。

 そして今、彼女自身の名前が消されている。

 家を出ると、日が傾きかけていた。

 レンとカリンはしばらく無言で歩いた。榊の家が遠ざかる。山裾の道に、夕方の影が長く伸びている。

 先に口を開いたのはカリンだった。

「先生は、証言すると思う?」

「わからない」

「私も」

「でも、揺れてた」

「うん」

「揺れてる人は、まだ戻れるかな」

 カリンは少し考えた。

「戻るかどうかは、その人が決めること」

「厳しいな」

「甘くすると、また誰かが消える」

 レンは何も言えなかった。

 バス停まで歩く途中、スマートフォンが震えた。

 森下からだった。

『写真、もう一枚見つけた。やばい。お前ら三人で写ってるっぽい』

 続けて、画像が送られてきた。

 開いた瞬間、レンは足を止めた。

 そこには、旧校舎の資料室で撮られた写真が写っていた。紙写真をスマホで撮ったものらしい。画質は悪い。だが、奇妙なことに、その画像には三人目の輪郭がうっすらと映っていた。

 完全な姿ではない。

 顔はぼやけている。体も半透明のように薄い。だが、机の中央に立ち、ボイスレコーダーを手にした少女の姿がある。

 カリンも画面を覗き込んだ。

「写ってる」

「デジタルなのに」

「森下くんの記憶が戻り始めているから?」

「そんなことがあるのか」

「わからない。でも、消え方が弱まっているのかもしれない」

 レンは画像を拡大した。

 少女の顔はまだ見えない。

 だが、手首には青と白のミサンガがある。

 白い指。

 録音機。

 肩より少し長い髪。

 笑っているような口元。

 レンは画面を見つめた。

 胸の奥に、言葉にならない感情が込み上げる。

 戻ってきている。

 ユナが、少しずつ。

 その夜、レンは榊先生の証言をノートにまとめた。

 町長室に呼ばれた。

 先生は町長に謝った。

 ユナを止めた。

 災害の日、ユナはファイルを渡しに来た。

 先生は受け取らなかった。

 ユナは資料室へ戻った。

 追悼碑の前に、ユナの名前がないことを知った。

 抗議できなかった。

 先生は全部を見なかった。

 書いている途中、何度も手が止まった。

 先生だけが悪いわけではない。そう思う。

 だが、悪くないわけでもない。

 町長だけが悪いわけではない。母だけが悪いわけではない。レンだけが悪いわけではない。けれど、誰も悪くないと言ってしまえば、ユナの名前はまた消える。

 責任は、一人に押しつけるためではなく、消えたものを戻すために必要なのだ。

 レンはミサンガを机の上に置いた。

 名前を返すまで切らない。

 その願いは、まだ叶っていない。

 深夜、スマートフォンが鳴った。

 榊先生からのメールだった。

 本文は短かった。

『明日、話します。記録してください』

 レンはその文面を何度も読んだ。

 胸の奥で、何かが静かに動いた。

 大人の一人が、ようやく見なかったものを見る。

 それだけで何かが解決するわけではない。

 けれど、記録はそこから始まる。

 レンはノートの最後に書いた。

 榊先生は、明日話す。

 ユナの名前は、少しずつ戻っている。

 ペンを置いたとき、机の上の写真に目が止まった。

 森下から送られてきた画像を印刷したものだ。三人目の姿は、紙の上ではスマートフォンより少しだけ濃く見えた。

 顔はまだ見えない。

 だが、レンにはもう、その少女が笑っていることがわかった。

 声だけではない。

 影だけではない。

 ユナは、戻ってきている。



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