第7話 返す音
朝の空は薄く晴れていた。港の音は遠く、潮の匂いは弱い。昇降口のガラスは冷たくて、額を近づけると小さな曇りが花みたいにひろがった。十秒、と昨夜眠る前に決めた。呼ぶでも呼ばないでもなく、十七の前で十秒だけ黙る。返す場所は、きっとその黙るあいだに見つかる。そう思っていた。
教室に入ると、黒板の名前はそのままだった。白鐘ユナ。粉は落ちず、線は痩せない。十七番の席の上には朝の光が斜めに差して、透明の名札台の角が小さく光っている。机の奥に押し込んだ名字だけの紙は、昨日よりほんの少しだけ内側に寄っていた。誰かがそっと押したのかもしれない。押して、戻しきらなかったのかもしれない。
カリンが先に来ていて、ノートを閉じた。彼女の髪は少し湿っている。洗ってそのまま急いできたのだろう。目がよく動く朝は、だいたい強い日だ。
「今日の十秒、記事にしていい?」
「いい。記事にするってことは、約束にするってことだ」
「うん。約束は、紙に置いたら少し重くなる」
彼女は微笑まずに言って、ペンを持ち直した。笑いは取材のときに使う。教室では使わない。それが彼女のルールだ。
チャイムが鳴る前、樫井先生が入ってきた。いつものように黒板をひと目見て、僕を見る。僕はうなずく。先生は出席を取りはじめた。十五、十六。そこで一拍。僕は立ち上がらない。代わりに背筋だけを伸ばした。教室の空気が、ほんの少し沈む。沈む音はしない。沈黙だけが置かれる。
十秒。長くも短くもない。けれど、十秒のなかにはいろんなものが入る。黒板の右下に置いた白い糸。机の奥に押し込んだ名字。資料館で見た刻印。返響は心に在り。裏庭の棒。掲示板の紙。音楽室の譜面台。すべてが一度同じ場所に集まって、また散る。散る様子が、今日ははっきり見えた。
十八、と先生が呼ぶ。空気は揺れない。揺れないまま、教室は前に進む。普通、に戻る。普通は弱くない。普通は、誰かが少しずつ持っている力の総和だ。
午前の授業が終わる頃、校内放送が鳴った。短いチャイムのあと、事務室の声。
「午後一時より、地域教育委員会の見学があります。授業の妨げにならないように、ご協力ください」
カリンがノートを閉じ、僕の肩を軽く叩く。
「来る」
「来るね」
「廊下の展示は、瓶と粉と影だけ。鐘の舌は布に包んで下げた。先生がそうした」
「一番重いものは、隠しても重いままだ」
「うん」
昼休み、掲示板の前に新しい紙は出ていなかった。昨日の紙が風で端をめくっている。留める画鋲の位置は低い。三回目くらいの貼り直しの高さ。紙は何度でも重力を思い出す。僕たちは紙の前に少しだけ立って、すぐに教室へ戻った。
午後一時。教育委員会の二人と、副校長、生活指導の先生。黒いスーツの人たちは体育館から順に回って、最後に廊下の展示へ来る。人の集まりには決まって順路がある。順路の最後に“何も写っていないもの”を見せるのは、先生の性格だと思った。先に強いものを見せて、あとで軽いものを見せる。軽いものの強さは、最後にしか分からない。
廊下の突き当たり。僕とカリンと倉田は、入口に立って来場者を通した。瓶のラベルは剥がれかけたまま、剥がしきらない。黒いフレームの余白は、光の加減で紙の白さが変わる。針金で作った曲がった脚の影は、時間で少しずつ長さを変える。それを見ながら、人は立ち止まり、目を閉じ、また開く。音は鳴らない。鳴らないことが、今日いちばんの音だ。
スーツの二人は、最後に折れた鐘の舌の包みの前で足を止めた。布はほどかれていない。ほどかないで置くことで、何が中にあるのかを想像できる。想像は、実物より長く残る。二人のうち背の高いほうが、布の縁に指を添えた。添えただけで、動かさなかった。副校長が小さく頷く。生活指導の先生は無言で瓶を見て、ラベルの剥がれた端に視線を置いた。視線は言葉より静かな力を持つ。視線の熱で、瓶のガラスがほんの少しだけ汗をかいたように見えた。
一通り見終えた三人が廊下の入口へ戻ってきた。背の低いほうの委員が口を開く。
「写っていないものを見せる展示、という説明は分かりました。子どもたちが自分の中で何かを現像する時間になっている。それは良いことです。ただ、名簿はどうするのかな」
副校長が、黒板のある教室のほうへ目を向ける。カリンが一歩出た。
「名簿は、今日までこのまま置いて、明日の朝も確認します。ここで決めます。外の意見は、今日まで置いておいてください」
言い方は柔らかいのに、背骨がまっすぐに立っている。委員の二人は顔を見合わせ、うなずいた。
「分かりました。明日の朝、もう一度来ます。もし消すなら、その理由もここで決めて、ここにいる人たちの言葉で紙にしてください」
「はい」
返事の声は、思っていたより強く出た。声の強さは、自分では選べない。体が勝手に選ぶ。体は、僕らより先に世界と折り合いをつける。
見学が終わると、廊下の空気が軽くなった。少しだけ疲れが出る。笑いの出ない笑顔で、僕たちは片づけの確認をして、教室へ戻った。戻る途中、音楽室の前を通りかかったとき、扉がほんの少し開いていた。中に人影はない。譜面台が一つだけ前に出ている。昨日直した列がまた乱れている。乱れは注意を呼ぶ。注意が呼ばれると、人はそこへ視線を置く。視線が置かれると、そこに場所が生まれる。生まれた場所は、誰かの来る場所になる。来ないかもしれない。けれど、来るかもしれない。
放課後。話し合いは昨日の続きだった。机は動かさない。席順はそのまま。黒板の名前はそのまま。樫井先生は通路に椅子を置いて座り、腕を組まずに手を膝に置いた。
「今日は結論を出す気で話してもいい。出せなくてもいい。出す準備を続けよう」
最初に手を挙げたのは、昨日声を出した吹奏楽部の女子だった。
「返すって言葉、ずっと考えてた。楽器も楽譜も借りて使って、最後返す。返すときって、きれいにして返す。名前もそうだと思う。置いたまま埃をかぶらせて返すのはイヤだ。だから、置くなら毎日誰かが拭く。拭くのを忘れない仕組みを作る。そうできないなら、消す」
仕組み。教室の空気が少しだけ引き締まった。倉田が続ける。
「俺は、置きたい。けど、置くなら誰かが一人で抱えないように分けたい。『名簿当番』みたいなのを作ってもいい。十七の前で十秒黙る係。交代でやる。神木の仕事を、クラスで持つ」
木下が肩をすくめて笑った。
「十秒当番、って名前だけ聞くと、ちょっとダサいけど、やることは分かる。ダサさは、強い。続くから」
浜崎がゆっくり手を挙げる。
「俺は、消す選択も残したい。ずっと続けるのは、怖い。続けられなくなったときに、誰かが悪者になるのもイヤだ。だから、消す案も紙にしておく。消すならこういうふうに消す、って。丁寧に」
消す方法を先に決めておくという発想に、教室の空気が少しざわついた。けれど、ざわつきはすぐに静まった。消す、は終わりではない。返す、の一部かもしれない。そう思えたからだ。
カリンが手を挙げた。
「新聞部としては、十秒当番を紙にします。どうして十秒なのか、十秒のあいだ何をしているのか、十秒のあと何をするのか。全部、紙にして渡す。外から来る人にも見えるように」
先生が最後に立った。
「よし。じゃあ、明日の朝までに『置く案』と『消す案』をそれぞれ紙にして、教室の後ろに貼れ。全員が好きなほうに名前を書け。多数決で決めるわけじゃない。名前を書いた紙を明日の朝僕が読む。読むときに、十七の前で十秒黙る。そこで決める。決めるのは、担任としての俺だ。決める理由は、ここにいる全員の文章の中にしか探さない」
それで終わり、のはずだった。けれど、終わらなかった。教室の扉が開いて、副校長が顔を出した。顔は丁寧な笑顔で、声は静かだった。
「少しだけ、いいかな。今朝の時点で、名簿について町から電話がいくつか来ている。消してほしい、置いてほしい、どちらも。学校としては、生徒と担任の判断を尊重する。ただひとつ、お願いがある。教室の窓際の掲示は、外から見えないようにしてほしい」
外から。つまり、通学路の向こう、校庭の外。僕たちが貼ろうとしている紙の一部は、背の高い人なら外からも見える。副校長はそれを指していた。僕はうなずいた。カリンも、うなずいた。
「分かりました。見える紙は、この教室の内側に寄せます」
副校長は安堵したように息をついて、言った。
「ありがとう。明日、委員の人がもう一度来る。よい判断を」
扉が閉まった。静けさが戻る。静けさの中で、僕たちは紙に向かった。置く案。消す案。十秒当番。拭く仕組み。返す約束。書くことは山ほどあった。ペンは足りていた。時間は少し足りなかった。足りない時間は、僕らが少しずつ補った。
夕方、廊下に出ると、音楽室の前で足が止まった。扉は開いていた。窓からの光が床に格子を描いている。譜面台は、やはりひとつだけ前に出ていた。ピアノの蓋は半分開き、黒と白の帯が静かに並んでいる。僕は中に入り、鍵盤に指を置いた。押さない。押さないまま、少しだけ時間を置く。鍵盤の冷たさが少しずつ温まる。温めてから鳴らす。旧市街の女性が言っていたことが、指先の温度で分かる。
扉のところで足音。振り返ると、倉田がいた。彼は靴を脱いで、そっと入ってくる。
「今日、裏庭じゃなくて、ここで息あわせてもいい?」
「いい」
僕たちはピアノの横に並んだ。鍵盤に指を置いたまま、息だけ合わせる。合わせるって、拍子を揃えることではない。呼吸の終わりと始まりの位置を、たまたま重ねることだ。重なった瞬間、窓の外の雲が細く切れて、光が斜めに入った。譜面台の前に置いてある紙が、風もないのにゆっくり捲れ、すぐに戻った。音は鳴らなかった。鳴らなかったのに、鳴ったと思った。鳴ったと思ったのに、誰も鍵盤に触れていない。こういうとき、人は笑う。僕らは笑った。笑いは、呼ぶより近い。
夜、家で手帳を開いた。今日のまとめを紙にする前に、机の端に立てかけてある写真がひとりでに傾いた。触れていない。風もない。写真の端が重力を思い出しただけだ。戻そうとして、やめた。傾いたままでも倒れない角度がある。そこに置く。置けるだけで、今日は十分だと思った。
眠りの前、携帯が鳴った。差出人なしのメッセージ。
あした、十秒のあと、呼んでください
句点はない。文字は震えていない。昨日より少し近い位置の声だと思った。僕は返事を打たなかった。返事を打つ代わりに、手帳の最後に一行書いた。
十秒は、返す音を聴くための余白
翌朝。雲は高く、風は弱い。教室の黒板の名前はそのまま。十七番の席は空。机の奥の名札は、昨日よりまた少しだけ内側に寄っている。樫井先生が入ってきて、僕を見る。僕はうなずく。十五、十六。十七の前で、僕は立つ。立って、黙る。十秒。昨日より短く感じる。短く感じるのは、呼びたい気持ちが動いているからだ。
十秒が終わる。呼ぶ。白鐘ユナ。教室の空気は揺れない。揺れないまま、窓の外で鳥が鳴いた。昨日とちがう声だ。高くて、短い。誰の耳にも届く。届いたあと、すぐに忘れられる種類の声。忘れられる声は、忘れられない。
点呼が終わると、先生は黒板の前に立った。二枚の紙、置く案と消す案は、後ろの掲示から外され、先生の手にあった。先生は十七の前に戻り、机の上に二枚を並べた。クラス全員が立ち上がらないまま前傾する。息の方向が同じになる。先生は目を閉じて、十秒だけ黙った。僕らは息を止めなかった。黙ることと、息を止めることは違う。
先生は目を開け、言った。
「置く。置くけれど、置きっぱなしにはしない。十秒当番を回す。拭く係を回す。紙は外から見えない位置に寄せる。消す案はこの紙に残す。消すと決めたときのために。——そして、返す約束をここに書く」
チョークが黒板の端で小さな音を立てた。先生は黒板の右下、板書が始まらない場所に、小さく書いた。
いつか、この名前をやさしく消す
やさしく。消す、の前に置かれた言葉が、教室の空気を少し上げた。誰も拍手はしなかった。拍手はいらなかった。息が合った。
その日の三限目、教育委員会の二人が再び来た。先生の黒板の言葉を見て、二人はうなずいた。背の高いほうが言う。
「決めたのですね。責任は、ここにある。良い判断です」
副校長も頷いた。生活指導の先生は、黒板の右下に視線を置いて、初めて小さく笑った。
放課後、裏庭に出ると、棒はいつもの位置。足元の紙は新しい。筆跡は同じ。短い。
ありがとう。やさしく、がいちばんむずかしい
僕らは紙を折りたたみ、棒に軽く結んだ。ほどける前提の結び。ほどけるとき、きっと音はしない。音がしないほど、やさしい。
夕方、掲示板に紙はなかった。代わりに、ベンチの曲がった脚の上に細い白い糸が一本落ちていた。拾い上げると、糸はいつもの軽さで、いつものように風を探した。風は弱く、糸は掴まる場所を見つけられずに、僕の指にしがみついた。僕は糸をポケットに入れた。返す場所は、今夜はここだと思った。
夜、家で手帳に今日のことを書いた。十秒。呼んだこと。鳥の声。先生の言葉。やさしく消す。十秒当番。拭く係。外から見えない位置。返す約束。書きながら、言葉の間の空白が音を持ちはじめた。紙の上の白は、鐘の舌の裏の刻印を思い出させた。返響は心に在り。音が外から来るのではなく、ここから返る。返る場所を、僕たちは少しずつ作っている。作りながら、いつか、やさしく消す。そのとき、誰も悪者にならないように。誰も置き去りにしないように。
灯りを消す前、机の端の写真がまた少し傾いた。直さなかった。傾いたものは、傾いたままの美しさがある。まっすぐに戻すことだけが正しさじゃない。やさしく消す、のやさしさも同じだ。消す前の傾きを、そのまま覚えておく。覚えて、明日の十秒へ持っていく。
枕に顔を半分埋めて目を閉じる。耳の奥に、短い音が残っていた。鐘の音ではない。ピアノでもない。呼吸の終わりと始まりが重なる、その小さな瞬間の音。返す音。鳴って、止まり、また鳴る。僕はその合間に、名前を呼ばずに、名前の場所だけを思い浮かべた。そこが、今夜の返す場所だった。




