第4話 名札
文化祭の翌朝、教室の窓は少し曇っていた。昨日の人の気配が、まだガラスの内側に残っている。廊下を歩く靴の音が、いつもより一定の間隔を保っているのは、皆どこかで緊張しているからだろう。展示は、思っていた以上に反響があった。帰り道、見知らぬ大人に軽く会釈されたり、旧市街のパン屋でおまけのラスクをもらったり。嬉しいはずなのに、胸の真ん中に重い玉がひとつ残ったままだ。
教室に入ると、空気が他の教室と違う。目には見えないけれど、位置が少しだけずれている気配。黒板の端の名簿の紙を見上げた瞬間、息が止まった。昨日まで空白だった十七の位置に、細い字で名前が書かれている。
白鐘ユナ
チョークの粉がまだ乾いていない。白い字は、書いた手の震えを残していた。僕は無意識に教壇に近づいた。指で触れたら、簡単に消せるだろう。でも、触れなかった。触れた指が、何かを壊してしまう予感がした。
「誰が書いたの」
背後から声。カリンだった。彼女は僕の隣に並んで、名前を見上げる。瞳の奥が暗く揺れる。怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。何かを選ばないで立っている人の目だ。
「朝、教室に入ったら、もうこうだった」
僕が言うと、カリンはしばらく黙っていた。やがて、黒板の隅に置かれた黒板消しに手を伸ばした。持ち上げる。持ち上げたまま、動かない。手の甲の筋が浮き出る。そのまま黒板消しを元の場所に戻した。
「消さない」
「消さないで、いいのか」
「うん。消す権利が、あたしたちにはない」
僕は頷いた。頷いたあとで、体の奥から別の声が出かけた。消さなかったあとで起こることを、僕は知っているわけじゃない。見えない先のことで、誰かが傷つくかもしれない。それでも、黒板の白い字を前に、僕たちは何もできなかった。
チャイムが鳴り、クラスのざわめきが流れ込んでくる。最初に見つけたのは浜崎だった。
「おい、十七に名前があるぞ。昨日の展示のやつ?」
木下が近づき、眉をひそめる。
「誰が書いたんだよ、これ」
倉田は名簿の前で立ち止まり、息を呑んだ。その顔を見て、僕は書いたのが誰か、ほとんど確信した。倉田の指先には、薄く白い粉がついている。
「……悪い」
彼が小さな声で言った。誰に対しての言葉か、彼自身も分かっていないような響き。隣で木下が肩をすくめる。
「まあ、昨日、あんだけ見せられたらな。書きたくなるやつ、出てもおかしくない」
その言い方は軽いけど、軽さは彼の防御だ。僕は倉田に目を向けた。彼はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「昨日、展示見て帰ったあと、眠れなくてさ。夢のなかで点呼してんだよ。先生が『十七』って言うの。誰も返事しない。なのに、その空気が『はい』って言ってる。朝、ここ来たら、手が勝手に動いた」
「怒られるぞ」
浜崎が言うと、倉田は弱く笑った。
「それでもいい」
ホームルームの直前、担任の声が教室に届いた。入ってきた樫井先生は、黒板を見て一秒だけ固まった。次の一秒で、視線が一気に教室の全員を掃く。点呼の前の息継ぎみたいに短い沈黙。そのあと、先生はゆっくり前に進んだ。
「誰が書いた」
倉田は立ち上がりかけた。けれど、僕の前で彼の膝が止まる。彼の肩の緊張を見て、僕は一歩だけ前に出た。
「先生、消さないでください」
教室の空気が変わった。軽いほうから、重いほうへ。樫井先生は僕を見て、目を細めた。
「理由を言いなさい」
「昨日の展示を見て、誰かがここに名前を置いた。消しても、消さないでも、責任は残ります。だったら、消さない責任を僕たちが持ちたい」
言いながら、言葉の足元が崩れないか確かめる。崩れるかもしれない。でも、今は支えるだけの力があると思いたかった。先生は腕を組み、黒板の字を前に長い沈黙を置いた。やがて、ほんの少し口元がほころぶ。
「ならば、今日のホームルームは特別授業にしよう。『名前』というものについて一時間、話をする」
ざわめきが起きた。樫井先生は、僕たちの反応をいったん受け止めてから、チョークを取った。黒板の左端に大きく線を引く。その上に、いくつかの問いを書いた。
名前は誰のものか
呼ばないことは許しなのか暴力なのか
記録と忘却の境目はどこにあるのか
問いの言葉は固く見えたが、声にされると少し柔らかくなった。先生はチョークを置き、教室の前の片隅に腰をかける。
「話せ。書いたやつも、書かなかったやつも、見ていたやつも」
最初に手を挙げたのは木下だった。
「俺は、どっちでもない。書いても書かなくても、この空気は変わる。だったら、書いたほうが話ができる分だけマシだと思う」
浜崎が続ける。
「でもさ、名前って本人のもんだろ。いない人の名前を勝手に書くの、どうなんだ」
倉田は立たない。顔を両手で覆っている。彼の肩が揺れる。カリンがその様子を見て、手を挙げた。
「新聞部の立場から言うと、名前を出すかどうかは責任の問題だと思っています。出さないことは逃げでもあるけど、守ることでもある。今回は、出さないほうを選んだ。でもクラスの誰かが、出すほうを選んだ。両方とも間違いじゃない。ただ、書いた手に『その後』まで持たせる覚悟があるか、そこだけが大事です」
僕は教室の後ろの窓を振り返った。曇ったガラスの向こうで、風が薄く動く。窓の内側には、昨日の展示の匂いがまだ残っていた。
「先生」
手を挙げる。先生は顎で合図をした。
「僕は、名前を呼ぶことは、確認だと思う。ここにいるか、いないか、誰の耳にも届く形で確かめる行為。呼ばないでいることは、間違いじゃないけど、ずっと続けると、呼べなくなる。今日は、呼ぶ側に立ちたい」
「神木。呼ぶのか」
先生の声が低くなった。教室の空気が一段落ちる。僕は頷いた。喉の奥に小さな穴が開く。そこを風が通る。
「十七番」
口に出す前に、何度も頭の中で言っていた言葉。声にすると、教室の壁がわずかに近くなる。
「白鐘ユナ」
呼んだ瞬間、教室の空気は揺れなかった。鈴の音も、ピアノの弦も鳴らなかった。何も起きない、ということがあまりに大きい。僕たちは、その何も起きないという出来事を、丸ごと受け取るしかなかった。
代わりに、十七番の席に、遅れて温度が落ちた。落ちて、戻った。誰かが座ってすぐに立った時に椅子が残す温度の変化。倉田が息を呑む。カリンは目を閉じた。教室のどこかで、机の金具がかすかに鳴る。
先生は黒板の名前に視線を戻し、チョークを取った。名前の最後の「ナ」の右上に、小さく点を打つ。先生の点は、昨日僕が導入の紙の下に打った点と同じ高さだ。
「よし、今日はこれでいい。明日の朝、まだこの名前が残っていたら、その時もう一度考える。消すか、置くか、どうするか。担任としての判断は、そのときのクラスの空気の責任として俺が持つ」
チャイムが鳴った。授業の時間は過ぎていた。皆、椅子を引いて、少しだけ乱れている時間割の隙間に戻っていく。僕は席に戻り、机の中を覗いた。昨日の写真の切れ端は、右奥に移動していた。裏を見ると、薄い鉛筆の線で「いないよ」と書かれている。いないよ、という言い方は、優しくもあり、突き放すようでもあった。
放課後、音楽室のピアノの蓋は半分開いていた。カリンが鍵盤の上に手を置き、音を出さずに指だけ動かす。そこに、笹原先生が入ってきた。先生は鍵盤の上に散っていたチョークの粉を指で払って、僕らを見た。
「名簿に名前が出たそうだな」
「はい」
「消すな」
先生の言い切りは短い。僕とカリンは目を合わせた。
「でも、先生」
「消すな。だが、増やすな」
「増やす?」
「記録は増えやすい。誰かが一つ置くと、誰かがまた置く。置いたものは、すべて呼ぶ。呼ばれたものは、来る。来たものは、帰らないことがある」
先生の目に、今まで見たことのない影が浮かんだ。彼の視線は僕らの向こう、ピアノの蓋の隙間を見ている。
「明日の朝、名簿の前で点呼をしろ。お前がだ、神木。呼んで、空気と席の温度を確認して、それを手帳に記録しろ。記録は棺だと言ったな。棺の蓋を開けるなら、最後まで手を添えろ」
「はい」
返事をすると、胸の重い玉が少しだけ形を変えた。怖さと責任は、同じ形をしている。違うのは、掴んだあとに残る温度だけだ。
部室に戻ると、机の上に茶封筒が一つ置かれていた。宛名は僕の名前。裏には差出人なし。開けると、写真が二枚。どちらも白黒。片方は三十年前の教会の鐘楼の足場。もう一枚は、昨夜の展示の廊下の奥。誰かが撮ったらしい。ただ、どちらにも、白いものが斜めに写っている。帯。光。布。判断がつかない。それでも、見えないものを見たという実感だけが残る。
封筒の底に、紙がもう一枚入っていた。短い文字。
あした、呼ばないで
字は震えていない。大人の字でも、子どもの字でもない。音のない声のかたち。僕は紙を畳み、手帳に挟んだ。読むと紙の匂いが立ち上がる。暗室で印画紙を出したときと同じ匂いだ。
家に帰って、机に座る。手帳を開く。今日のことを書き始める。名簿の名前。倉田の指先。先生の点。音の出ない点呼。封筒の写真。最後に、短い一行を書き足した。
明日の朝、呼ぶ。呼ばないでという手紙のことも書く。書いて、蓋を閉じる。閉じた手帳は軽い。軽いけれど、静かな重さを持つ。窓の外で、風が方向を変える。耳の奥の小さな穴が開き、すぐに閉じる。眠る前に、展示の箱の中の白いリボンのことを思い出した。あの布は、今夜どこで呼吸しているのだろう。
翌朝、学校の前の坂は湿っていた。空は曇り。昇降口の扉のガラスに自分の顔が薄く映る。教室に入ると、黒板の名前はまだ残っていた。粉は乾き、線は昨夜より落ち着いている。十七の席には誰も座っていない。椅子の背はまっすぐ。机の上は空。何も置かれていない空のほうが、ものが多いときより重い。
時間になった。樫井先生が入ってきて、いつもの通り点呼を始める。十五、十六、と続き、頷きのリズムが一定になる。僕は先生の視線を受け取って、立ち上がった。
「十七番、白鐘ユナ」
教室の空気はまた揺れない。音は鳴らない。何も起きない。僕は椅子に目をやった。温度は変わらない。昨日より冷たいわけでも、温かいわけでもない。そう、何もない。ただ、机の中に白い小さなものが見えた。僕はそっと引き出しを開けた。名札だった。透明な台座に、白い紙が差し込まれている。そこに、細い文字で
白鐘
だけが書かれている。名字だけ。名前の続きは空白。黒板の字の最後の点と、机の中の空白が、一本の見えない線で結ばれる。
「レン」
カリンが囁いた。彼女は目で出口を示す。廊下に出ると、笹原先生が立っていた。手には今日の朝刊。地域欄の片隅に、文化祭の記事。写真はない。文章だけ。見出しは小さく、けれど真っ直ぐに並んでいた。
写っていない展示が写したもの
先生は新聞を折りたたんで、僕に視線を戻した。
「呼んだな」
「はい」
「何が起きた」
「何も」
「何も、か」
先生はうなずいた。うなずきながら、ポケットから小さな封筒を出した。昨日の茶封筒と同じものだ。先生は封筒を僕に渡す。
「届いていた。職員室に。差出人なし。お前宛て」
封を切る。中には短いメモが一枚。紙は薄い。色は少しだけ古い。文字は、昨日の「呼ばないで」と同じ筆跡。
きょうは、呼んでよかった
あしたは、呼ばないで
今度は句点がある。句点があるときの気持ちは、昨日よりも落ち着いている。僕はメモを手帳に挟んだ。先生は肩の力を抜き、廊下の端を振り返った。
「鐘は、鳴りっぱなしではいられない。鳴らない時間があるから、次に鳴る。お前が呼ぶか呼ばないかは、明日お前が決めろ。決めて、記録しろ。お前が『棺の蓋に添える手』だ」
「はい」
教室に戻る前、音楽室の前を通った。扉は閉まっている。中から、誰かが椅子を引く小さな音。僕は立ち止まり、耳を澄ます。音は止まり、風の音に混じる。扉は開けなかった。開けないで、いることを選んだ。
昼休み、旧市街の女性が学校に来た。受付で名前を名乗らず、展示の廊下にまっすぐ向かった。誰かに呼ばれたのかもしれないし、誰も呼ばなかったのかもしれない。彼女は箱の前で立ち止まり、蓋を少し持ち上げた。白いリボンは、昨日より白かった。匂いは新しい。彼女は蓋を戻し、僕たちのほうに振り返った。
「名札、届いたでしょう」
「はい」
「名字だけ。——あの子は、名字のほうが先に帰ってくるんです」
彼女は微笑んだ。その微笑みは、祈りの手前にある許しの形をしていた。
放課後、教室に戻ると、黒板の名前の右側に、誰かが小さく線を足していた。白鐘ユナのナの下一画が、ほんの少し伸びている。気づく人は少ないだろう。けれど、見つけた人には分かる。ここに誰かがいて、ここに誰かが戻ってくると信じていることが、線の延長として残っている。
帰り道、坂のベンチに座る。曲がった脚が、足首に柔らかい冷たさを伝える。ベンチの端に、細い白い糸が一本落ちていた。拾い上げる。風に預ける。糸は空に消える。消えた場所が、今日の終わりの座標になる。
家で手帳を開き、書く。今日呼んだこと。何も起きなかったこと。机の中の名字。封筒のメモ。旧市街の女性の笑い。黒板の線の延長。書いていると、窓の外で短く雨が降った。すぐに止んだ。止んだ雨の線は、窓ガラスに細い白を残した。
明日の朝、僕は呼ばない。手帳の最後にそう書いて、ペンを置く。呼ばないで、という声が、今日は理由になった。呼びたい気持ちは、理由の一歩手前に置く。置いた場所を忘れないために、僕は小さく点を打つ。点は、誰にも見えないけれど、僕には見える。
部屋の電気を消す。天井の木目は暗く溶け、耳の奥の小さな穴だけが風を覚えている。眠りに落ちる前、遠くで何かが鳴った。鐘ではない。ピアノでもない。たぶん、心臓だ。たぶん、世界だ。鳴って、止まり、また鳴る。僕はその合間に目を閉じ、明日の朝の自分に手を伸ばした。届かない距離を、少しだけ縮めるように。




