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十秒で消える君の名前を、僕たちは記録する  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 名前のない写真

 翌朝、レンはアラームが鳴るより先に目を覚ました。

 部屋の中はまだ薄暗かった。カーテンの隙間に、夜と朝の境目のような青い光が滲んでいる。遠くで新聞配達のバイクが坂道を上っていく音がした。町は眠りから覚める直前で、すべてのものが息を潜めているようだった。

 レンは枕元へ手を伸ばした。

 ノートがある。

 黒い表紙のリングノート。開いたまま置いたはずのページは、夜の間に風でめくれたのか、半分ほど閉じかけていた。レンはそれを急いで開く。

 ユナ。

 名前は、まだそこにあった。

 ただし、昨夜よりさらに薄い。赤い油性ペンでなぞったはずなのに、朝の光の中では古い血痕のように褪せていた。指で触れれば消えてしまいそうだった。

 その下に書いた「忘れない」という文字も、少し淡くなっている。

 だが、ページの端に現れた一言だけは違った。

 資料室。

 その文字だけが、夜を越えても濃く残っていた。鉛筆で書かれた細い線なのに、レンが何度も重ねた油性ペンよりはっきりしている。まるで、その言葉だけが紙に深く刻みつけられているようだった。

 レンは時計を見た。

 六時二十一分五十六秒。

 アラームが鳴るまで、あと四秒。

 その数字を見た途端、胸の奥で何かが開いた。

 ユナ。

 名前が、来た。

 昨日と同じように、いや、昨日より少しだけ強く、レンの中にその二文字が浮かび上がった。輪郭は淡い。だが確かにある。眠りの底から、誰かが小さな灯を持って上がってくるようだった。

 ユナ。

 レンは声に出そうとした。だが喉が動く前に、アラームが鳴った。

 電子音が部屋を切り裂く。レンは反射的にスマートフォンを押さえた。その一瞬の間に、名前の感触が崩れた。昨日と同じだ。目が覚めてから十秒ほどしか持たない。手のひらで水をすくっても、指の間から逃げていくように、ユナという名前は意味を失っていく。

 レンはノートに顔を近づけた。

 読める。

 だが、もう名前の温度はない。

 文字としてそこにあるだけだった。

 それでも昨日と違ったのは、胸の痛みの中に、ひとつだけはっきりした感覚が残っていたことだった。

 資料室へ行かなければならない。

 なぜかはわからない。だが、その場所に行けば、消えたものの輪郭に触れられる気がした。

 朝食の席で、母はテレビをつけていた。

 地元局のニュースでは、復興記念式典の話題が流れていた。駅前商店街の再開、仮設住宅から新しい市営住宅への移転、そして町立図書館の再建計画。画面の下には「災害から八か月 未来へ歩む町」とテロップが出ている。

 レンは食パンを手にしたまま、その言葉を見つめた。

 未来へ歩む。

 昨日、掲示板で見たポスターにも似たような言葉が書かれていた。町は忘れない。未来へつなぐ、七つの祈り。美しい言葉だ。何の事情も知らなければ、そう思ったかもしれない。悲しみを乗り越え、みんなで前に進む。テレビの中の町長は、柔らかい表情でそう語っていた。

 だが、レンの目には、その笑顔が薄い幕のように見えた。

 何かを隠すための幕。

「レン」

 母に呼ばれて、レンは我に返った。

「聞いてる?」

「何を」

「今日、学校遅くなるの?」

「少し」

「また図書室?」

「たぶん」

 母は箸を止めた。

「最近、調べ物してるの?」

「別に」

「別に、で遅くなるの?」

 問い詰めるような口調ではなかった。むしろ、恐る恐る触れてくる声だった。その方が、レンには苦しかった。

「式典のこと。学校で資料をまとめるとか、そういうの」

 咄嗟に嘘をついた。

 母はその言葉を聞いて、少しだけ安心したように見えた。

「そう。無理しないでね」

「うん」

「旧校舎の方には、行っちゃ駄目よ」

 レンの手が止まった。

 母はテレビから目を離さずに言った。まるで何気なく付け足しただけのように。

「まだ危ないから。先生たちも言ってるでしょ」

「知ってる」

「本当に、近づかないで」

 その声には、明らかな硬さがあった。

 レンは母の横顔を見た。何かを知っているのだろうか。少なくとも、ただ危険だからというだけの言い方ではなかった。

「旧校舎で、何かあったの?」

 レンが尋ねると、母はようやくこちらを見た。

「何かって?」

「いや。崩れた以外に」

「崩れただけで十分でしょう」

「そうだけど」

「レン」

 母は椅子に座ったまま、両手を膝の上で握った。

「あの日のことを、無理に思い出さなくていいのよ」

 空気が止まった。

 レンは何も答えられなかった。

 母はすぐに目を逸らし、シンクの方へ立った。水道の音が流れる。その音だけが、台所を満たした。

 無理に思い出さなくていい。

 それは優しさなのかもしれない。けれど、レンには別の意味に聞こえた。

 思い出すな。

 そう言われた気がした。

 学校へ向かう途中、レンは追悼碑の前を通った。

 花は昨日と同じ場所に供えられていた。白い菊が少ししおれている。昨夜の風で、花びらが一枚、石の台座に落ちていた。

 削られた跡は、朝の光の中で昨日よりもくっきり見えた。横長に削られたその場所に、レンは目を凝らす。石の表面には、細い線がいくつも残っている。研磨の跡だけではない。文字の端のようなもの。ほんのわずかな深さの違い。見ようとしなければ見えないが、見てしまえば無視できない。

 レンは鞄からノートを取り出した。

 ユナ。

 資料室。

 二つの言葉を確認する。

 そのとき、背後から自転車の音がした。

「早いね」

 カリンだった。

 昨日と同じ制服。同じ自転車。ただ、鞄の荷台に大きめの布袋をくくりつけている。中にはファイルかアルバムのような角ばったものが入っていた。

「そっちこそ」

「旧校舎に行く前に、確認したいものがある」

「何」

「写真」

 カリンは追悼碑の削り跡をちらりと見てから、自転車を降りた。

「昨日のアルバムだけじゃ足りない。行事写真をもっと見る。特に、写真に写っている人数と名簿上の人数が合わないもの」

「写真から人が消えてるかもしれないってことか」

「そう」

「そんなの、何枚もあるのか」

「あると困る。でも、ないともっと困る」

 カリンらしい言い方だった。

「どうして」

「一枚だけなら、加工ミスや偶然で片づけられる。何枚もあれば、パターンになる」

「証拠になる?」

「証拠に近づく」

 カリンは追悼碑の前に立った。七人の名前を順に見て、それから削られた場所に視線を落とす。

「昨日、少し調べた」

「何を」

「追悼碑の設置記録。役場の広報に写真が残っていた。完成直後の写真」

「削られる前?」

「そこまでは写ってない。真正面からの写真で、下の部分が花で隠れてる」

「都合がいいな」

「都合のいい写真は、だいたい誰かにとって都合がいい」

 カリンは淡々と言った。

 レンは苦笑しそうになったが、笑えなかった。

「今日、旧校舎に行くんだよな」

「うん。でもその前に、資料を見たい。写真の中の欠落を確認しておかないと、資料室で何を探すべきかわからない」

「わかった」

「それと」

 カリンは少しだけ言い淀んだ。

「ノート、持ってきた?」

「ああ」

「見せて」

 レンはノートを渡した。カリンはページを開き、文字の薄さを確認する。昨日とは違い、勝手に触れようとはしない。まるで壊れやすい遺物を扱うようだった。

「薄くなってる」

「写真を撮ったけど、画像からは消えてた」

 カリンの手が止まった。

「画像から?」

「スマホで撮ったら、保存された写真には何も写ってなかった。紙には残ってるのに」

「見せて」

 レンはスマートフォンを取り出し、昨夜の画像を開いた。画面には白いページだけが映っている。ページの端の影や紙の皺は写っているのに、文字だけがない。

 カリンは無言でそれを見つめた。

「加工してないよ」

「疑ってない」

「じゃあ、何だと思う」

「わからない」

 いつもの答えだった。だが、今回はその言葉に小さな恐怖が混じっていた。

「ただ、名前そのものが記録を拒んでいるように見える」

「名前が?」

「名前というより、その人に関する情報が」

「どういう意味」

「名簿は塗りつぶされている。追悼碑は削られている。写真は消えている。スマホには写らない。でも紙に手で書いたものだけは、時間がかかって消える」

「だったら手で書き続ければいい」

「うん」

 カリンはノートを返した。

「でも、書いている人が忘れたら終わる」

 その言葉は、朝の空気より冷たかった。

 レンはノートを鞄にしまった。

 学校に着くと、カリンはすぐに図書準備室へ向かった。レンも後に続く。始業までにはまだ時間がある。廊下にはまばらに生徒がいるだけで、教室のざわめきも遠かった。

 準備室の中には、昨日より多くの資料が出されていた。カリンが朝早く来て並べたのだろう。机の上にはアルバムが三冊、行事写真の入った封筒が十数枚、そして学校新聞の縮刷版が置かれている。

「これ、全部見つけたのか」

「昨日、鍵を借りた」

「誰に」

「図書担当の先生」

「何て言って?」

「復興式典で使う写真を探したいって」

「嘘がうまいな」

「必要な嘘は、記録の邪魔にならない範囲で使う」

「それ、誰のルールだよ」

「私の」

 カリンは椅子に座り、写真を年代順に並べ始めた。

「見るポイントは三つ」

「三つ?」

「一つ、人数が合わない写真。二つ、誰かの体の一部だけが写っている写真。三つ、背景が不自然に歪んでいる写真」

「歪んでいる?」

「人物を消したあとに補正すると、背景の線が曲がることがある」

「詳しいな」

「ネットで調べた」

 レンは少しだけ意外だった。カリンがネット検索をしている姿は、あまり想像できない。古い紙と付箋と鉛筆だけで生きているような少女に見えていた。

「じゃあ、超常現象じゃなくて画像加工説?」

「両方見る」

「合理的なんだか、そうじゃないんだか」

「どちらかに決めるのは、全部見てから」

 カリンは一枚目の写真をレンに渡した。

 文化祭の写真だった。教室の壁に模造紙が貼られ、生徒たちが来場者を案内している。レンはその中に自分を見つけた。看板を持っている。表情はやる気がなさそうだ。その隣にカリンがいる。受付の机に座り、来場者名簿らしき紙を見ている。

 そして、机の向こう側に一脚だけ椅子がある。

 誰も座っていないのに、椅子の背に制服のカーディガンがかかっている。

「これ」

 レンは指差した。

「三人目の椅子か」

「たぶん」

 カリンは別の資料を開いた。文化祭の係分担表。受付担当は三人と書かれている。久瀬蓮。朝倉花鈴。三人目の欄は、やはり修正されている。ただし、修正液の上から筆圧の跡が残っていた。

 レンは写真と名簿を見比べた。

「カーディガンだけ残ってる」

「人物は消えても、持ち物までは消し忘れたのかもしれない」

「消し忘れって……」

 言いかけて、レンは口を閉じた。

 人間が加工したなら、その言い方は正しい。だが、もしそうでないなら。もし、記憶や記録そのものからユナが薄れていくような現象が起きているのなら、カーディガンだけが残ったことにどんな意味があるのか。

 カリンは次の写真を出した。

 校外学習。町立資料館の前。昨日見た写真の別カットだった。生徒たちが班ごとに並んでいる。各班三人ずつ。だが、レンとカリンの班だけ二人しか見えない。

「これも」

「うん」

 カリンは写真の端を指した。

「ここ、見て」

 資料館のガラス扉に、かすかな反射が写っていた。

 レンとカリンの間に、もう一人分の影がある。

 輪郭だけだった。肩の高さ。髪らしき黒い影。顔は反射で潰れて見えない。だが、そこに誰かが立っていたことはわかる。

 レンは喉が渇くのを感じた。

「写ってる」

「消しきれてない」

「これ、拡大できる?」

「紙焼きだから限界がある。でも、スキャンすれば少しは」

「スマホで撮っても消えるんじゃないか」

 カリンは動きを止めた。

「試してみる」

 彼女はスマートフォンを取り出し、写真を撮った。画面を確認する。レンも覗き込んだ。

 写真自体は写っている。

 だが、ガラス扉にあったはずの影だけが消えていた。

 レンとカリンは同時に紙の写真へ目を戻した。

 紙には、まだ影がある。

「これもか」

 レンは呟いた。

 カリンの顔から、わずかに血の気が引いたように見えた。

「デジタル化できない」

「じゃあ、紙の写真を保管するしかない」

「紙も、いつ消えるかわからない」

 レンは昨日のノートを思い出した。薄れていく文字。スマホに残らない名前。

 記録そのものが、ユナを拒んでいる。

 いや、逆かもしれない。誰かが、ユナに関する記録を世界から押し出そうとしている。

 カリンは次々に写真を確認していった。体育祭、地域清掃、資料館見学、避難訓練、文化祭準備。すべてではない。だが、何枚かに不自然な空白があった。どれもレンとカリンの近くにある。椅子。影。手。肩にかかった髪の先だけ。誰かが持っていたと思われるボイスレコーダーの紐。そこにいた人物の本体だけが、少しずつ世界から削ぎ落とされている。

 やがて、一枚の写真でレンの手が止まった。

 それは体育祭のリレーの別カットだった。

 前日に見たものより鮮明だった。レンが転びかけ、前を走る誰かに腕を引かれている。その誰かの顔は、今回も光で飛んでいる。だが、顔以外はかなり写っていた。細い体。白い鉢巻き。膝のあたりまでのスカート。腕を伸ばす姿勢。

 そして、手首に巻かれたミサンガ。

 青と白の糸で編まれた、簡素なものだった。

 レンはその写真から目を離せなかった。

「これを知ってる」

 声が自分のものではないように聞こえた。

 カリンが顔を上げる。

「ミサンガ?」

「たぶん」

「どこで」

「わからない。でも、知ってる」

 レンの頭の奥で、何かが軋んだ。

 夏の匂いがした。体育祭の練習。誰かが校庭の隅でミサンガを結んでいる。カリンが呆れたように、それ校則的にいいの、と言う。少女が笑って、願掛けだから、と答える。

 願いが叶うまで外しちゃ駄目なんだよ。

 その声が、妙にはっきり聞こえた。

 レンは机に手をついた。

「何か思い出した?」

 カリンの声が遠い。

「ミサンガ。願掛け。誰かが言ってた。願いが叶うまで外しちゃ駄目だって」

「その誰かは」

「顔が見えない」

「名前は」

 レンは答えようとした。

 ユナ、と言えばいい。ノートに何度も書いた名前。朝の十秒だけ思い出せる名前。だが、口を開いた瞬間、喉の奥が塞がった。

 言葉が出ない。

 まるで、見えない手で口を押さえられているようだった。

 レンは胸を押さえた。

「言えない」

「無理しないで」

「違う。忘れたんじゃない。言おうとすると、何かに止められる」

 カリンは眉を寄せた。

「昨日は言えた」

「昨日は名前だけだった。でも今は、何かがつながりかけてる。ミサンガとか、体育祭とか、声とか。たぶん、その人のことを思い出しながら名前を言おうとすると、引っかかる」

「情報が増えるほど、抵抗が強くなる?」

「そんな感じ」

 カリンはすぐにメモを取った。

「現象として記録しておく」

「僕は実験体か」

「違う。共同調査者」

「それ、少しましに聞こえるな」

「ましに言った」

 カリンの口元がわずかに緩んだ。

 その小さな表情に、レンは少し救われた。彼女も怖いのだ。怖いからこそ、記録という形に押し込めようとしている。自分と同じように、消えていくものを前にして、何かにすがろうとしている。

 始業のチャイムが鳴った。

 カリンは資料を手早く封筒に戻した。

「続きは放課後」

「旧校舎?」

「その前に、一つだけ確認したい場所がある」

「どこ」

「写真部の保管庫」

「写真部?」

「行事写真のネガやデータが残っているかもしれない」

「スマホで消えるなら、データも駄目なんじゃないか」

「だからこそ確認する。紙とデジタルで差が出るなら、それ自体が手がかりになる」

 レンは頷いた。

 教室へ戻る途中、廊下の窓から旧校舎が見えた。

 旧校舎は、仮設校舎から少し離れた敷地の奥にある。立入禁止のフェンスに囲まれ、正面玄関には黄色いテープが張られている。崩落で校舎の北側が潰れ、屋根の一部はまだ青いシートで覆われている。窓ガラスはほとんど外され、壁には亀裂が走っていた。

 かつてはそこが日常の場所だった。

 廊下を走って怒られ、掃除をさぼって見つかり、テスト前に友人と愚痴を言い合った場所。何でもない日々が詰まっていた建物。それが今は、町の奥に残された傷のように見える。

 レンはその校舎を見て、胸の中に小さな引っかかりを覚えた。

 資料室。

 ノートに現れた言葉。

 そこに行けば何かがわかる。だが、何かわかるということは、何かを思い出すということでもある。

 母の言葉がよみがえる。

 あの日のことを、無理に思い出さなくていいのよ。

 なぜ母は、あんなことを言ったのか。

 レンは考えながら教室に入った。

 授業中、黒板の文字はほとんど目に入らなかった。教師の声が水の中から聞こえるように遠い。ノートを開いても、そこに書くべき内容がわからない。代わりに、レンはページの端に小さく同じ言葉を書いた。

 ユナ。

 資料室。

 ミサンガ。

 写真。

 書くたびに、文字がわずかに揺れるように見えた。錯覚だ。そう思いたかった。だが、ユナという二文字だけは、他の文字よりインクの乗りが悪い。シャープペンの芯が紙の上を滑る。筆圧を強くしても、線が定着しない。

 昼休み、森下が弁当を持って近づいてきた。

「お前、最近変じゃね」

 レンはノートを閉じた。

「何が」

「何かずっと考えてる。授業中もぼーっとしてるし」

「いつもだろ」

「いや、いつもはもっとやる気なさそうにぼーっとしてる。今はなんか、死人みたいにぼーっとしてる」

「例えが悪い」

「あ、悪い」

 森下は本当にしまったという顔をした。去年の崩落以降、この町の生徒たちは「死」という言葉の扱いに微妙に慎重になった。慎重になりすぎて、かえって不自然になることもある。

「なあ、森下」

「何」

「去年の体育祭、覚えてる?」

「覚えてるよ。お前、リレーで転びかけただろ」

 レンの心臓が跳ねた。

「覚えてるのか」

「そりゃ覚えてる。めっちゃ笑ったし」

「誰かに手を引かれた?」

「え?」

「僕が転びかけたとき、誰かが前から引っ張っただろ」

 森下は箸を止めた。

「どうだったかな」

「覚えてない?」

「いや、お前が転びかけたのは覚えてる。でも、誰が助けたとかは……」

 森下の眉間に皺が寄る。

「変だな」

「何が」

「今、何か思い出しそうだった」

「誰を」

「わかんねえ」

 森下は困ったように笑った。

「何か、女子だった気はする。でも顔が出てこない。名前も。お前と仲良かったやつ?」

「僕が聞いてる」

「だよな」

 森下は頭をかいた。

「まあ、写真とか見ればわかるんじゃね? 体育祭の写真、廊下に貼ってなかったっけ」

「どこに」

「旧校舎の二階。写真部の掲示板。あ、でも旧校舎だから今は無理か」

 レンは森下を見た。

「写真部の掲示板?」

「うん。写真部っていうか、記録委員みたいなのが貼ってたやつ。地域記録整理係? そんな名前の」

「それ、知ってるのか」

「名前だけ。お前もやってなかった?」

 森下は何気なく言った。

 レンは黙った。

「おい、どうした」

「いや」

「やってたよな? たしか、朝倉と……」

 森下の声が止まった。

「誰だっけ」

 教室のざわめきが遠のいた。

 森下は真剣に思い出そうとしていた。眉を寄せ、箸を弁当箱の上で止めたまま、空中を見る。

「いたよな、もう一人」

「いた?」

「たぶん。なんか、いつも録音機持ってた女子。あれ、何で名前出てこないんだろ」

「顔は」

「ぼやけてる。変だな。知ってる気がするのに」

「その子、災害で亡くなった?」

 森下の表情が強張った。

「お前、何言ってんの」

「いいから」

「知らねえよ。亡くなったのは七人だろ」

「本当に七人か」

「そう聞いてる」

「聞いてるだけだろ」

 森下は困惑した顔でレンを見た。

「レン、お前、大丈夫か」

 その言葉に、レンは口を閉じた。

 大丈夫か。

 朝、母も似たようなことを言った。カリンも言った。みんな、レンの異変に気づく。だが、異変が起きているのはレンの中だけではない。森下も今、もう一人の存在を思い出しかけた。なのに、名前も顔も出てこない。

 これは個人の問題ではない。

 町全体から、ユナが抜け落ちている。

 放課後、レンはすぐに図書室へ向かった。

 カリンはすでに準備室で待っていた。机の上には、朝見た写真のうち数枚が並べられている。さらに、写真部の古い鍵らしいものが置かれていた。

「鍵、借りられたのか」

「写真部の顧問に」

「理由は」

「復興式典で使う写真を探したい」

「またそれか」

「便利だから」

 カリンは立ち上がり、鍵を手に取った。

「行こう」

 写真部の保管庫は、仮設校舎ではなく旧校舎の敷地近くにある小さなプレハブ倉庫だった。災害後に運び出した機材や写真を一時保管しているらしい。鍵を開けると、中は湿気と埃の匂いで満ちていた。棚にはアルバム、古いカメラ、三脚、段ボール箱が詰め込まれている。

 カリンは迷わず「二〇二四年度 体育祭」と書かれた箱を探し当てた。

「よくわかるな」

「昨日、リストを見た」

「準備が良すぎる」

「準備しないと怖いから」

 その一言で、レンは何も言えなくなった。

 二人は倉庫の床にしゃがみ込み、写真を一枚ずつ確認した。デジタルデータが入っているはずのメモリーカードも見つかったが、学校の古いノートパソコンで開いてみると、問題の写真だけが破損していた。サムネイルにはレンとカリンが写っている。しかし開こうとするとエラーになる。

 一方で、紙焼き写真には異変が残っていた。

 体育祭のリレー写真。文化祭の受付写真。地域学習の資料館前。旧校舎の廊下で、三人分の影が伸びているのに、写っているのは二人だけの写真。

 カリンはそれらを封筒に分けていく。

「紙は残る。デジタルは消える」

「でも紙も少しずつ変になってる」

「完全ではないけど、紙の方が抵抗してるのかもしれない」

「紙が?」

「人が直接触れた記録だから」

 カリンは一枚の写真を手にした。

「誰かが撮って、印刷して、裏に名前を書いた。そこには記録した人の意思がある。デジタルデータは、情報としては正確でも、意思が薄い」

「それ、科学的じゃないな」

「うん」

「君でもそういうこと言うんだ」

「言いたくないけど、今はそれくらいしか説明がつかない」

 レンは写真の山を見た。

 消えた少女。

 残された手。

 影。

 椅子。

 ミサンガ。

 どれも不完全な証拠だった。だが、不完全なものがこれだけ集まると、逆に強い輪郭を持ち始める。そこに誰かがいたという事実だけが、写真の欠落から浮かび上がってくる。

 倉庫の奥の箱を動かしたとき、レンは一冊の小さなアルバムを見つけた。

 表紙には何も書かれていない。市販のポケットアルバムだった。中には十数枚の写真が入っている。学校行事ではなく、日常の写真だった。

 旧校舎の廊下。

 資料室の机。

 段ボール箱を運ぶレン。

 書類を分類するカリン。

 そして、机の上に置かれたボイスレコーダー。

「これ」

 レンはカリンを呼んだ。

 カリンは近づき、アルバムを覗き込んだ。

「地域記録整理係の写真……」

「誰が撮ったんだ」

「わからない」

 ページをめくる。

 何枚も、同じ空白があった。

 レンとカリンが机を挟んで向かい合っている。その間に、誰かのノートが置かれている。レンが段ボール箱を持ち上げている。その隣に、箱の反対側を支えているはずの誰かの手だけが写っている。カリンが本棚の前に立っている。その隣の棚から、誰かが取り出したらしいファイルが半分だけ浮いたように写っている。

 そして最後の写真。

 三人で写っているはずの写真だった。

 旧校舎の資料室。窓から夕方の光が差し込んでいる。机の上には古い町史と、ボイスレコーダーと、紙の束。レンは椅子に座り、面倒くさそうに頬杖をついている。カリンは資料に付箋を貼っている。

 二人の間に、ぽっかりと人ひとり分の空間がある。

 その空白の手前に、青と白のミサンガだけが落ちていた。

 レンは写真から目を離せなかった。

 耳の奥で声がした。

 ――願いが叶うまで外しちゃ駄目なんだよ。

 今度は、昨日よりはっきりしていた。

 笑い声。紙の匂い。夕方の光。少女がボイスレコーダーを持ち上げ、こちらに向ける。

 ――はい、記録開始。今日の担当はレンくんです。

 レンは苦笑する。

 ――面倒くさい。

 少女が笑う。

 ――面倒くさいことほど、残しておかないと消えちゃうよ。

 その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

 レンは膝をついた。

「レン!」

 カリンが肩を支えた。

 倉庫の床が傾いたように見える。息がうまく吸えない。頭の中で、忘れていた音がいくつも重なっていく。ボイスレコーダーの小さな起動音。紙をめくる音。雨が窓を叩く音。誰かが、急いで、と叫ぶ声。

 そして、自分の声。

 ユナ、そのファイルを持って逃げろ。

 レンは目を見開いた。

「今、何か聞こえた」

「何を」

「僕の声」

「何て」

「ユナに、ファイルを持って逃げろって」

 カリンの顔色が変わった。

「ファイル?」

「わからない。でも、そう言った」

「それ、災害の日?」

「たぶん」

 レンは額に手を当てた。記憶はまた閉じかけている。今つかまなければ消える。そう思い、必死に言葉にした。

「資料室。雨。揺れたあと。僕と、カリンと、ユナがいた。たぶんファイルを持ってた。町史とか、古い災害の記録とか」

 カリンはすぐにメモを取った。手が震えていた。

「ほかには」

「ユナが、何か言ってた」

「何を」

「名前が……」

 そこで途切れた。

 レンは歯を食いしばった。

 名前が、何だ。

 名前が消える。

 名前を残す。

 名前がないと。

 言葉の欠片が頭の中で回る。だが、ひとつの文にならない。

「駄目だ」

「無理しないで」

「無理しないと消える」

「でも、壊れたら意味がない」

 カリンの声が、思ったより強かった。

 レンは彼女を見た。カリンは真っ青な顔をしている。それでも、こちらの肩を離さない。

「私は、記録が欲しい。でも、あなたを壊してまで欲しいわけじゃない」

 その言葉で、レンの呼吸が少し戻った。

「悪い」

「謝らなくていい」

「いや、なんか」

「いいから座って」

 レンは倉庫の壁にもたれた。カリンは水筒を差し出す。水を飲むと、喉の奥の硬さが少しずつほどけた。

 しばらくしてから、カリンは最後の写真をもう一度手に取った。

「このミサンガ、探せないかな」

「どうやって」

「もし本人のものなら、どこかに残っているかもしれない。資料室、遺留品、保管箱」

「遺留品……」

 その言葉が重かった。

 ユナは本当に死んだのか。

 追悼碑に名前はない。公式記録にもない。だが、写真の空白が、彼女の不在を叫んでいる。

 レンはミサンガを見た。

 青と白。

 願いが叶うまで外してはいけない、と言った少女。

 その願いは、叶ったのだろうか。

 倉庫の外で、誰かの足音がした。

 カリンが素早く写真を封筒に戻す。レンもアルバムを閉じた。足音は倉庫の前で一度止まり、それから遠ざかっていった。

「時間がない」

 カリンは囁いた。

「旧校舎へ行く?」

「行く。でも、その前にこのアルバムを持っていく」

「持ち出していいのか」

「本当は駄目」

「だよな」

「でも、ここに置いたままだと消えるかもしれない」

 カリンはアルバムを鞄に入れた。

 倉庫を出ると、空は曇り始めていた。朝は晴れていたのに、山の方から黒い雲が降りてきている。湿った風が吹き、仮設フェンスの黄色いテープが音を立てた。

 旧校舎は、すぐそこにあった。

 フェンスの向こう側で、窓のない校舎が静かにこちらを見ている。崩れた北側の壁。青いシート。泥の跡。かつて生徒たちの声で満ちていた場所は、今は記憶を閉じ込めた廃墟のようだった。

 カリンはフェンス沿いに歩き始めた。

「裏に、点検用の隙間がある」

「詳しいな」

「昨日見た」

「本当に一人で行くつもりだったんだな」

「うん」

「危ないだろ」

「そうだね」

 あまりにも素直に認めるので、レンは何も言えなかった。

 校舎裏には、フェンスが少し歪んでいる場所があった。工事関係者が出入りしたのか、地面に足跡が残っている。カリンはそこから体を滑り込ませた。レンも後に続く。

 立入禁止の内側に入った瞬間、空気が変わった。

 外よりも静かだった。町の音が遠い。風の音だけが校舎の割れた窓を抜け、低く鳴っている。地面には砂利とガラス片が散っていた。雑草が伸び、雨水の溜まった窪みが黒く光っている。

 レンは旧校舎を見上げた。

 胸の奥が、ゆっくりと重くなっていく。

 ここを知っている。

 当然だ。去年まで通っていた学校なのだから。だが、それとは別の感覚があった。この建物の中に、レンが自分で閉じ込めた何かがある。それが、内側から扉を叩いている。

 カリンが小さく言った。

「資料室は二階の北側」

「覚えてるのか」

「場所だけは」

「僕も、たぶん」

 二人は割れた昇降口から中へ入った。

 廊下は薄暗かった。窓に板が打ちつけられ、光は隙間から細く差し込むだけだ。床には泥が乾いて固まった跡があり、壁には水が流れた筋が残っている。靴音がやけに大きく響いた。

 一歩進むたび、レンの記憶がざわつく。

 笑い声。

 走る足音。

 遠くで鳴るチャイム。

 雨。

 地鳴り。

 誰かが叫ぶ声。

 カリンも黙っていた。彼女の横顔は硬い。平気なふりをしているが、指先が鞄の紐を強く握っている。

 階段を上がる途中、レンは壁に貼られた古い掲示物を見つけた。

 地域記録整理係 活動報告。

 紙は湿気で波打ち、端が破れていた。だが、見出しだけは読める。下には写真が貼られていたようだが、剥がされた跡がある。画鋲の穴だけが残っている。

 カリンがそれを見つめた。

「写真部の掲示板って、森下が言ってた」

「ここかもしれない」

「剥がされてる」

「誰かが持っていった?」

「あるいは、消した」

 レンは掲示板の下を見た。

 一枚だけ、床に落ちている写真があった。

 埃をかぶっている。踏まれて端が折れている。レンはそれを拾い上げ、指で埃を払った。

 旧校舎の廊下で撮られた写真だった。

 レンとカリンが写っている。二人は掲示板の前に立ち、何かを見ている。そして、二人の間に、また空白がある。

 だが今回は、違った。

 空白の足元に、影が写っている。

 はっきりと、三人分。

 レンの影。カリンの影。もう一人の影。

 その影だけが、こちらを向いているように見えた。

 写真の裏を見る。

 鉛筆の文字があった。

 レン、ユナ、カリン――記録係、開始。

 レンはその文字を見た瞬間、息を忘れた。

「カリン」

「何」

「これ」

 カリンが写真を受け取る。彼女の目が大きく開いた。

「裏に名前がある」

「うん」

「ユナって書いてある」

 カリンの声は震えていた。

 そのとき、廊下の奥で何かが落ちる音がした。

 二人は同時に顔を上げた。

 風ではない。

 資料室の方からだった。

 カリンが息を呑む。

 レンは写真を握りしめた。

 廊下の奥、薄暗い北側に、資料室の扉が見える。

 半分だけ、開いていた。

 昨日、ノートに現れた言葉。

 資料室。

 そこが、今、こちらを待っている。

 レンはカリンを見た。カリンもこちらを見る。どちらも、もう戻ろうとは言わなかった。

 二人はゆっくりと、資料室へ向かって歩き出した。



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