第二章 記録係の少女
放課後の仮設校舎は、昼間とは別の建物のように見える。
授業中には、廊下の端から端まで生徒の声が反響し、窓の外では工事車両の音が途切れず、薄い壁越しに隣の教室の笑い声まで聞こえてくる。だが、チャイムが最後に鳴り、生徒たちが一斉に下校してしまうと、プレハブの壁は急に冷たくなる。誰かが消し忘れた蛍光灯の白い光だけが廊下に残り、床に貼られた仮設用のビニールシートが、歩くたびにかすかに鳴った。
レンは、昇降口へ向かう生徒の流れとは逆に歩いていた。
鞄の中には、黒いリングノートが入っている。朝、赤い油性ペンでなぞったばかりの名前。授業中に何度も確認したが、線は確実に薄くなっていた。錯覚だと思おうとするたび、錯覚では済まないほどの変化が紙の上に現れていた。
ユナ。
たった二文字の名前が、ノートからも、記憶からも、誰かの手で拭き取られている。
そんなことがあるはずがない。普通なら、そう思う。紙に書いた文字が勝手に消えるなど、子ども向けの怪談か、安っぽい都市伝説だ。けれど、レンは朝からいくつものものを見てしまっていた。追悼碑の削り跡。避難者名簿の黒塗り。地域記録整理係の名簿から切り取られた一行。カリンの顔に浮かんだ、何かを隠すような硬さ。
それらはすべて、同じ場所へ向かっている。
図書室の扉は半分だけ開いていた。中から、紙の擦れる音が聞こえる。レンが廊下から覗くと、室内には生徒の姿はない。机の上に未整理の本が積まれ、窓際の段ボール箱には「旧校舎図書室」「資料館より移動」「未分類」とマジックで書かれている。埃っぽい匂いがした。古い紙と、湿った木材と、仮設校舎の新しい接着剤の匂いが混ざっている。
その奥に、準備室の扉があった。
「来たんだ」
扉を開ける前に、中から声がした。
カリンは、床に膝をついて古いアルバムを広げていた。昼休みに見たときと同じく、背筋をまっすぐに伸ばしている。黒髪は耳の後ろでまとめられ、前髪が額にかかっていた。白い蛍光灯の光を受けて、肌が少し青白く見える。
「来いって言ったのはそっちだろ」
「来ない人もいる」
「じゃあ、僕は来る人だったんだな」
「そう思った」
カリンはそう言って、机の端に置いてあった椅子を顎で示した。座れという意味らしい。
レンは椅子に腰かけた。準備室は狭い。二人でいると、紙の束と段ボールと人間の呼吸だけでいっぱいになる。壁際には、旧校舎から運ばれてきたらしい木製の本棚があった。棚板は歪み、ところどころに泥の跡が残っている。災害のあと、完全には洗い落とされなかったものだ。
「これ、全部見たのか」
「まだ半分くらい」
「一人で?」
「うん」
「暇なのか」
言ってから、少し失礼だったかと思った。だがカリンは気にした様子もなく、ページをめくった。
「暇じゃないと、忘れられたものは探せない」
その返答は、冗談のようで冗談ではなかった。
机の上には、年代順に分けられたファイルがいくつも置かれていた。学校新聞、卒業アルバムのコピー、行事写真、避難訓練の記録、地域資料館のパンフレット、町の広報誌。すべての資料に、カリンの几帳面な字で付箋が貼られている。
――災害前・六月・地域学習。
――旧校舎・資料室・参加者不明。
――追悼碑完成式・写真に加工疑い。
レンは一枚の付箋を見て、眉をひそめた。
「加工疑いって、どういうことだ」
「そのままの意味」
カリンは一冊の薄いアルバムを差し出した。表紙には「二〇二四年度 地域学習記録」とある。ページを開くと、生徒たちが町内を歩き、古い商店や神社、資料館で聞き取りをしている写真が並んでいた。
レンはそれを見ても、何も思い出せなかった。
写真の中には自分がいた。制服ではなく、体操服に学校指定のジャージを羽織っている。手にはクリップボードを持ち、どこか面倒くさそうな顔をしている。隣にはカリンがいた。今より少し髪が短く、表情も柔らかい。
その二人の間に、不自然な空白がある。
最初は、たまたま距離が空いているだけに見えた。だが、よく見ると違う。レンの肩は、誰かに触れられているようにわずかに傾いている。カリンの視線も、カメラではなくその空白のあたりに向いている。背景の古い資料館の扉には、人影の輪郭だけがぼんやりと残っていた。まるで、写真から人物だけを切り抜いたようだった。
「何だ、これ」
「わからない」
「わからないのに加工疑い?」
「元データがない。印刷された写真だけ。だけど、人数が合わない」
カリンは別のファイルを開き、地域学習の参加者一覧を見せた。そこには三人一組の班分けが書かれている。
一班、三名。二班、三名。三班、三名。
レンの名前は四班にあった。
久瀬蓮。
朝倉花鈴。
そして、三人目の欄だけ、上から白い修正テープが貼られている。
修正テープの上には、何も書かれていない。
「またか」
レンは呟いた。
カリンは頷かなかった。ただ黙って、次の写真を出した。体育祭の写真だった。グラウンドの白線。赤組と白組の鉢巻き。誰かがリレーで走っている。レンは中ほどの写真で、自分が誰かに手を引かれているのを見つけた。
いや、正確には、手だけが写っていた。
細い手首。白い指。レンの右手を強く引いている。顔は写真の端で光に飛び、見えない。髪の色も、表情もわからない。ただ、その手だけがやけにはっきりと写っている。
レンは息を止めた。
何かが胸の奥で動いた。
土の匂い。グラウンドの熱。誰かの笑い声。息が切れて、足がもつれた。前を走る少女が振り返る。大丈夫、という声。いや、違う。何と言ったのかはわからない。だが、口の形だけが見える。
レ、ン。
名前を呼ばれた。
自分の名前を。
「顔色悪い」
カリンの声で、記憶の断片は途切れた。
「大丈夫」
「大丈夫じゃなさそうだけど」
「この手」
レンは写真を指差した。
「これが、ユナ?」
「可能性はある」
「可能性って言い方、冷たいな」
「断定できないことを断定すると、記録は壊れる」
カリンは淡々と言った。
その言い方に、少し苛立った。こちらは胸を掻きむしられるような感覚に襲われているのに、彼女はファイルの整理でもするように事実を扱っている。
「君はいつもそうなのか」
「何が」
「冷静に、資料みたいに、人のことを見る」
カリンは少しだけ目を伏せた。
「資料は嘘をつかないことがある」
「人は嘘をつくって?」
「人は、忘れる」
その言葉に、レンは反論できなかった。
忘れる。
自分はまさに、忘れている。いや、忘れたことにしているのかもしれない。夢に出てくる名前を、朝の十秒しか保てない。紙に書いても消えていく。追悼碑にあるはずの名前は削られている。誰かが忘れたのではない。誰かが忘れさせようとしている。
だが、その「誰か」の中に、自分が含まれていないとどうして言えるのか。
カリンはさらにアルバムをめくった。
「これを見て」
写真の裏だった。
そこには、鉛筆で薄く文字が書かれていた。古い紙に擦れて、ほとんど消えかかっている。カリンは卓上ライトを近づけ、角度を変えた。文字がうっすらと浮かび上がる。
――レン、ユナ、カリン。
レンはしばらく、それを読めなかった。
読めるのに、意味が頭に入ってこない。
自分の名前。カリンの名前。そして、その間に挟まれた、朝だけ現れる名前。
「この写真、誰が書いた」
「筆跡はわからない。たぶん生徒」
「三人で写ってるってことか」
「本来は」
「本来はって何だよ」
「今は二人しか見えない」
カリンの声は静かだった。
レンは写真を表に返した。そこには、資料館の前に立つレンとカリンが写っている。二人は少し離れている。だが、裏の文字が正しいなら、そこにはもう一人いたはずだ。レンとカリンの間に、ユナがいた。
写真の中央には、やはり空白がある。
ただの背景ではない。そこだけ、空気の密度が違うように見えた。誰かが立っていた痕跡。消しゴムで消されたあと、紙に残るへこみのようなもの。
「おかしいだろ」
レンは言った。
「写真から人が消えるなんて」
「普通はおかしい」
「普通じゃないことが起きてるって?」
「そうかもしれないし、もっと単純かもしれない」
「単純?」
「誰かが写真を加工した。名簿を塗りつぶした。追悼碑を削った。関係者が口を閉じた。それなら、超常現象じゃなくて人間の仕事」
「ノートは?」
レンは鞄からリングノートを取り出した。
「この文字が消えるのも、人間の仕事か」
カリンはノートを受け取らなかった。机の上に置かれたページを見下ろす。赤い油性ペンで書かれた「ユナ」は、朝よりもさらに薄くなっている。まるで紙がインクを拒んでいるようだった。
カリンの表情が、わずかに変わった。
「いつから?」
「たぶん、春休み明けくらいから」
「毎朝?」
「目が覚めてから十秒くらいだけ覚えてる。名前だけ。顔も、声も、たぶんある。でも十秒を過ぎると全部消える。だから書いてる」
「十秒」
カリンはその数字を繰り返した。
「何か心当たりがあるのか」
「あるわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「私も、朝起きたときに変な感じがすることがある。名前までは出てこない。でも、誰かに謝らなきゃいけない気がする」
「誰に」
「わからない」
「ユナに?」
「わからない」
カリンは同じ答えを繰り返した。だが、その目は動揺していた。彼女はわからないと言いながら、もうほとんどわかっているのではないか。レンにはそう見えた。
準備室の外で、下校を促す放送が流れた。薄いスピーカー音が壁越しに歪む。
『校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』
カリンは時計を見た。
「少し急ぐ」
「何を」
「見せたいものがある」
彼女は机の下から、別の封筒を取り出した。茶色い事務用封筒で、角が擦り切れている。表には何も書かれていない。カリンは中から数枚の紙を取り出した。
避難者名簿の別コピーだった。
昼休みに見たものと同じ形式だが、こちらは黒塗りが薄い。おそらく、誰かがコピーを取る前の段階の資料だ。修正の跡が少なく、日付も古い。
「どこで手に入れた」
「資料整理中に、旧校舎図書室の本の間に挟まっていた」
「偶然?」
「偶然に見えるように置かれていたのかもしれない」
「誰が」
「わからない」
カリンはまた、その言葉を使った。だが今度は、無知ではなく警戒を示す言葉に聞こえた。
レンは紙を覗き込んだ。
そこには、災害当日の避難状況が記されている。
旧校舎資料室付近。
確認済み生徒――久瀬蓮、朝倉花鈴。
その下に、もう一人の名前。
インクがにじみ、名字は読めなかった。だが、名前の欄には辛うじて二文字が残っている。
由奈。
レンは喉の奥が詰まるのを感じた。
「漢字……」
「読みは、たぶんユナ」
「名字は」
「読めない。上から水をこぼしたみたいになってる」
レンは紙に顔を近づけた。名字の最初の字は、木偏のようにも見える。次の字はほとんど潰れている。無理に読もうとすると、目が痛くなった。
それでも、名前は残っている。
由奈。
彼女は存在した。
少なくとも、この紙が正しいなら、災害当日、旧校舎資料室付近にいた。レンと、カリンと、もう一人。地域記録整理係の三人。写真の裏に書かれていた三人。
レン、ユナ、カリン。
体の芯が冷えていくのに、指先だけが熱かった。
「どうして、これを昼休みに見せなかった」
レンの声は、自分でも驚くほど低くなった。
「確信がなかった」
「今はあるのか」
「少しだけ」
「これを見たら、僕がどうなるかわからなかったから?」
カリンは黙った。
図星だったのかもしれない。
レンは椅子から立ち上がった。準備室の狭さが急に息苦しくなった。古い紙の匂い。蛍光灯の音。カリンの沈黙。そのすべてが、胸の内側を圧迫してくる。
「僕は何を忘れてる」
「私にもわからない」
「本当に?」
「本当に」
「君は嘘をついてる」
カリンの指が、封筒の端を握った。
「たぶんね」
その返事は、認めたのと同じだった。
レンは言葉を失った。
カリンは逃げなかった。目も逸らさなかった。ただ、ゆっくりと息を吸った。
「私は、全部を覚えていない。でも、忘れていることを知ってる。あなたも同じだと思う」
「同じじゃない」
「同じだよ」
「僕は、ユナの名前を毎朝忘れてる。君は最初から何か知ってて隠してる」
「知ってることと、覚えてることは違う」
「言葉遊びだ」
「違う」
カリンの声が、初めて少し強くなった。
「知識としてなら、資料を読めばわかる。名簿に名前があった。写真に空白がある。追悼碑に削り跡がある。だから、そこに誰かがいた可能性が高い。そう判断できる。でも、覚えているかと聞かれたら、わからない。私の中に、その人の声も、顔も、話した内容も、ほとんど残っていない」
「それでも夢を見るんだろ」
「見る。でも夢は証拠にならない」
「証拠、証拠って」
レンは机を軽く叩いた。
「人が一人消えてるかもしれないんだぞ」
「だから証拠が必要なの」
カリンも立ち上がった。
「感情だけでは、誰も動かせない。町も、学校も、先生も、役場も。みんな、なかったことにしたいものには目を向けない。そこに何かがあったと突きつけるには、残っているものを集めるしかない」
「君は何なんだ」
「何って」
「記者か、探偵か、役場の職員か」
「ただの高校生」
「ただの高校生が、こんな資料を一人で集めるか」
カリンは答えなかった。
その沈黙で、レンは自分が踏み込みすぎたことを知った。だが、もう止まれなかった。
「災害後に転校してきたっていうのも嘘なんだろ」
カリンの瞳が揺れた。
「朝、追悼碑でそう聞いたとき、君は否定しなかった。けどこの名簿には災害当日の君の名前がある。地域学習の写真にも写ってる。つまり、君は前からこの町にいた」
カリンは唇を結んだ。
「どうして嘘をついた」
「嘘をついたわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「誰も、私が前からいたことを聞かなかった」
「詭弁だ」
「そうかもね」
カリンは封筒を机に置き、少しだけ視線を落とした。
「災害のあと、私は一度町を離れた。父の実家に行った。半年くらい。春になって戻ってきた。だから、今の学校では転校してきた生徒みたいに扱われてる。それだけ」
「どうして離れた」
「母が、ここにいられなくなったから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
カリンの声は小さかった。
「私も、いられなかった」
準備室に沈黙が落ちた。
レンは何も言えなかった。責めるべき言葉はあったはずなのに、それを口にする資格が自分にあるのか、わからなくなった。災害のあと、誰がどうやって生き延びたのか。誰が町に残り、誰が離れ、誰が口を閉ざしたのか。それを他人が簡単に裁けるはずがない。
「でも戻ってきた」
レンが言うと、カリンは頷いた。
「気持ち悪かったから」
「何が」
「忘れていくこと」
カリンはアルバムの写真を見た。
「この町にいたこと。誰かと一緒に何かをしていたこと。大事だったはずのもの。そういうものが、毎日少しずつ薄くなる。最初は災害のショックだと思った。でも違った。ほかの記憶は残ってる。嫌なことも、怖かったことも、親の喧嘩も、避難所の匂いも覚えてる。でも、その人に関することだけが抜けていく」
「ユナのことだけ?」
「名前も思い出せなかった。今日、あなたが言うまでは」
レンは机の上のノートを見た。
ユナ。
その文字はさらに薄くなっていた。赤い油性ペンでなぞったはずなのに、まるで十年前の落書きのように淡い。
「なあ」
「何」
「もし僕が毎朝書いていなかったら、この名前は完全に消えてたのかな」
カリンはすぐには答えなかった。
「わからない」
「またそれか」
「でも、書いていたから残った。少なくとも、今日ここまで来られた」
その言葉は、慰めのようにも、記録係の事務的な判断のようにも聞こえた。
レンは深く息を吐いた。
「これからどうする」
「写真をもっと見る。それから、旧校舎の資料室を調べる」
「旧校舎って、立入禁止だろ」
「だから?」
「危ない」
「知ってる」
「それでも行くのか」
「うん」
迷いのない返事だった。
レンは思わず笑いそうになった。冷静で、証拠にこだわり、慎重なようでいて、肝心なところでは無茶をする。カリンという少女の輪郭が、少しだけ見えた気がした。
「一人で?」
「そのつもりだった」
「僕も行く」
「危ないよ」
「知ってる」
「真似しなくていい」
「じゃあ一人で行かせるのか」
カリンはレンを見た。しばらく考えるような間があった。
「来るなら、約束して」
「何を」
「見たくないものを見ても、逃げないこと」
その言葉は、軽くなかった。
見たくないもの。
それが何なのか、レンにはまだわからない。だが、自分の中にその場所があることだけはわかった。夢の奥。記憶の底。ユナという名前が消えていく、その向こう側。そこには、見たくないものがある。
「わかった」
レンは言った。
即答ではなかった。少し時間を置いた。その分だけ、本当の返事になった気がした。
カリンは頷き、アルバムを片づけ始めた。
「今日はもう帰った方がいい。先生に見つかる」
「旧校舎にはいつ行く」
「明日の放課後。取り壊し前の最終点検で、業者が午前中に入る。午後はたぶん警備が薄い」
「たぶん?」
「全部確実なら、こんなことしてない」
カリンはそう言って、封筒を鞄にしまった。
レンもノートを閉じた。だが、閉じる直前にもう一度だけ名前を見る。
ユナ。
読める。まだ読める。
けれど、あとどれくらい残っていられるのだろう。
準備室を出ると、図書室はすでに薄暗かった。西日の残りが窓から差し込み、段ボール箱の角だけを橙色に染めている。廊下に出ると、仮設校舎の静けさが耳に痛かった。
昇降口まで並んで歩いた。
カリンは無駄なことを話さない。レンも何を話せばいいかわからなかった。二人の靴音だけが、ビニールシートの上に小さく響く。
昇降口の掲示板には、復興記念式典のポスターが貼られていた。
町は忘れない。未来へつなぐ、七つの祈り。
カリンはその前で足を止めた。
「これ、嫌い」
突然だったので、レンは少し驚いた。
「ポスターが?」
「言葉が」
「町は忘れない、ってやつ?」
「うん」
「忘れてるくせに?」
カリンは答えなかった。代わりに、ポスターの追悼碑の写真を見つめた。
「忘れないって言う人ほど、何を忘れたか確認しない」
レンはポスターを見た。
七人の名前。
見えない削り跡。
そこにない八つ目の祈り。
「カリン」
「何」
「君はユナを思い出したいのか」
カリンは少し考えた。
「思い出したい」
「怖くないのか」
「怖い」
「じゃあ、どうして」
「忘れたままでいる方が怖い」
その答えは、レンの胸に静かに沈んだ。
昇降口を出ると、空は夕方の色に変わっていた。山の稜線が黒くなり、崩れた斜面に張られたブルーシートが鈍く光っている。工事車両はもう止まっていた。町全体が、息を潜めているように見えた。
カリンは自転車置き場へ向かった。レンは坂道の方へ歩き出す。途中で、カリンの声が背中に届いた。
「レン」
振り返る。
「明日、ノートを持ってきて」
「これ?」
「うん」
「どうして」
「文字が消えるなら、消え方も記録する」
レンは思わず苦笑した。
「徹底してるな」
「記録係だから」
その言葉を聞いた瞬間、レンの頭の奥で何かが弾けた。
記録係。
カリンの声ではない。もっと明るい、少し弾むような声が、その言葉を言っていた気がした。
――じゃあ、私たち三人は記録係だね。
誰かが笑っている。
旧校舎の資料室。積み上げられた古い箱。埃の中でくしゃみをするカリン。面倒くさそうに紙を運ぶ自分。そして、その真ん中にいる少女。顔は見えない。けれど、手には古いボイスレコーダーを持っている。
彼女が振り返る。
口が動く。
レン。
その瞬間、記憶はまた閉じた。
気づくと、カリンが怪訝そうにこちらを見ていた。
「どうしたの」
「今、少しだけ」
「思い出した?」
「たぶん」
「何を」
「三人で資料室にいた。誰かが、私たちは記録係だって言った」
カリンの表情が変わった。
「その声」
「わからない。でも、たぶん……」
レンはそこまで言って、喉が詰まった。
言えば壊れるような気がした。言わなければ消えるような気がした。どちらを選んでも、手の中のものは失われる。そんな感覚があった。
カリンは自転車を押したまま近づいてきた。
「レン」
「何」
「明日、旧校舎に行こう」
「ああ」
「そこで何があったのか、確かめよう」
夕方の風が、校舎脇の仮設フェンスを揺らした。金属がこすれる音がした。その向こうに、旧校舎の屋根の一部が見える。立入禁止の黄色いテープが、夕日の中で細く光っていた。
レンは鞄を握り直した。
その中で、黒いリングノートが重く沈んでいる。
ユナ。
名前はまだ、そこにある。
けれど、明日まで残っている保証はどこにもない。
家に帰る途中、レンは追悼碑の前を通った。朝と同じ場所に花が供えられ、石の表面は夕日を受けて赤く染まっていた。七人の名前が並んでいる。下部の削られた跡は、夕方の光のせいで朝よりもはっきり見えた。
レンはその前に立ち、鞄からノートを取り出した。
ページを開く。
赤い文字は、さらに薄くなっていた。もう油性ペンの跡とは思えない。だが、読める。ぎりぎり、読める。
レンはポケットからペンを出し、もう一度なぞった。
ユナ。
今度は、その下に小さく書いた。
忘れない。
文字を書いた瞬間、背後で砂利を踏む音がした。
振り返る。
誰もいない。
公園のブランコが、風もないのにわずかに揺れていた。夕暮れの中で、鉄の鎖がきしむ。キイ、キイ、と小さな音が鳴る。
レンは追悼碑の削られた部分に目を戻した。
そこに、一瞬だけ白い指が触れているように見えた。
瞬きをする。
もう何もない。
けれど、胸の奥に、かすかな声が残った。
――見つけて。
それが本当に聞こえたのか、ただの記憶の欠片なのか、レンにはわからなかった。
わからないことばかりだった。
だが一つだけ、はっきりしている。
この町には、消された名前がある。
そして、その名前を探すために、明日、レンは旧校舎へ行く。
帰宅すると、母はまだ戻っていなかった。台所のテーブルには、朝の食器がそのまま置かれている。家の中は静かだった。冷蔵庫の低い音だけが響いている。
レンは自室に入り、机にノートを置いた。ページを開いたまま、スマートフォンで写真を撮る。カリンに言われた通り、消え方を記録するためだった。画面の中に、薄い赤字が映る。頼りない。けれど確かにそこにある。
写真を保存しようとしたとき、画面が一瞬だけ暗くなった。
次の瞬間、保存された画像から、文字が消えていた。
レンは息を止めた。
慌ててノートを見る。
紙の上には、まだ文字がある。
ユナ。
忘れない。
だが、スマートフォンの画面には白紙のページしか映っていない。角度を変えても、拡大しても、何も見えない。まるで、カメラだけがその名前を拒んでいるようだった。
レンは椅子から立ち上がった。
心臓が速く打っている。
写真では残せない。
コピーでも、もしかしたら残せない。
記憶も、紙も、機械も、名前を留めるには足りないのかもしれない。
そのとき、机の上のノートに、赤い文字とは別のものが見えた。
ページの端。レンが書いた覚えのない細い線。鉛筆で、かなり薄く書かれている。
レンは顔を近づけた。
そこには、たった一言だけあった。
――資料室。
筆跡はレンのものではなかった。
カリンのものでもない。
それなのに、どこか懐かしい字だった。少し丸く、払いが短い。きっと、笑いながら書いたらこんな字になる。そんなふうに思った。
レンはノートを閉じることができなかった。
窓の外では、町の防災無線が夕方六時の音楽を流している。子どもは家へ帰りましょう、という穏やかな旋律。その音は去年の崩落の日にも流れていたはずだった。誰かが帰れなかった日にも、町は同じ音楽を流していた。
レンは机に肘をつき、しばらくその文字を見つめた。
資料室。
明日行く場所。
ユナがいたかもしれない場所。
そして、レンが何かを忘れた場所。
夜になり、母が帰ってきても、レンはノートを閉じなかった。夕食の味は覚えていない。母が何を話したのかも、ほとんど覚えていない。風呂に入り、部屋に戻り、机の前に座る。名前は少しずつ薄くなっている。だが、資料室という文字はなぜか消えなかった。
眠る前、レンはノートのページを開いたまま枕元に置いた。
そして、声に出して読んだ。
「ユナ」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
読み方は合っている。そう思った。
「忘れない」
それは誓いではなかった。
むしろ、願いに近かった。
眠りに落ちる直前、レンは夢の入口で誰かの声を聞いた。
――十秒だけでいいよ。
少女の声だった。
――十秒あれば、名前は呼べるから。
暗闇の向こうで、誰かが笑った。
レンはその笑い声を知っている気がした。
けれど、目が覚めたときには、きっとまた忘れている。
そう思いながらも、レンは眠った。
枕元のノートには、薄れゆく名前と、消えない一言が残っていた。
ユナ。
資料室。




