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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第3話 鐘の娘

Ⅰ 紙の朝


朝、昇降口の前に人だかりができていた。

新聞部の号外が、金属のラックに束ねて差し込まれている。紙はまだ少し温かく、インクの匂いが通学路の湿気と混ざっていた。見出しは、昨日の夜カリンが最後まで迷って書き直した言葉——


空白という名の証言

黄瀬に残る“欠番”の話


写真はない。空白について、空白のまま書いてある。校内のざわめきはいつもよりも半音高く、靴音が廊下の壁で軽く跳ねた。


「読んだ?」

肩越しにカリンの声。

新聞束のいちばん上を一枚引き抜き、僕に押しつけてくる。


「読んだ。……好きだ」

「記事に『好き』は要らないって言ったよね」

「でも、要るときもある」

「今日くらいは、要るかも」


カリンは、昨夜より少し軽い顔をしていた。眠れていないはずなのに、目はよく動く。目がよく動くときの彼女は、紙よりも風に似る。


昇降口を抜けると、廊下の掲示板の前で先生たちが話していた。誰かが指で紙面の段落をなぞり、誰かが首を傾げ、誰かが腕を組んだ。賛否は音にならない。だが、音にならないままの重みが、朝の空気に分散していくのがわかった。


一限目が始まる前、笹原先生が顔を出した。

「読んだ。……落とすなよ」

それだけ言い残して、また顔を引っ込めた。

落とすな。紙は軽いが、落ちると音を立てる。音は消えるが、落としたという事実は消えない。


教室で席につくと、斜め前の浜崎が号外を広げた。

「なあ、『欠番』ってなんだ。漫画の用語?」

木下が肩をすくめる。

「出席番号が一個飛んでるって話だろ。あったっけ、そんなの」

倉田が首をひねる。

「いや、四月の初日に点呼で“十七”って聞いた気がする。……違う?」

三人の会話は輪郭を持たないまま揺れ、輪郭がないこと自体が不安を増幅させていく。見えないものは、大きくなる。


カリンは僕を見た。

「ぜんぶ、始まっちゃった」


始まったものは、止められない。止めると、潰れる。動かし続けるしかない。呼吸のように。


Ⅱ 投書


昼休み、新聞部のポストに封筒が入っていた。

白い、何の飾りもない封筒。切手も消印もない。校舎の中で誰かが入れたのだ。

カリンが部室でそっと開ける。封筒の口を切る音は、紙を縦に細く割る音。中から、方眼紙を破った小さな紙片と、折り畳まれた便箋が出てきた。


便箋には、乱れの少ない字で、こう書かれていた。


新聞、読みました。

写真は出さないでくれて、ありがとう。

私は三十年前、鐘の家の近所に住んでいました。

あの夏の土砂の翌朝、坂のベンチに白いリボンが一つ落ちていました。

私はそれを拾って、押し入れの箱に入れました。

昨夜、新聞の見出しを見たあと、その箱を開けたら、

リボンは新しい匂いがしました。

もし必要なら、お見せします。

ただし、名前は出さないでください。

——匿名


カリンは、深く息を吸い、吐いた。

「……来た」

声が震えなかったのは、震えの代わりに紙が震えたからだ。方眼紙の小片には簡単な地図が描かれている。町の南、旧市街の裏路地。家の位置に×印。昼の光ではなく、夕方の斜めの光線を前提に描かれた線。長く生きてきた手の線だ。


「行こう、レン。今日の放課後」

「授業サボる?」

「放課後。約束は守る」

新聞で約束を破らなかった彼女は、自分の時間でも破らない。そうやって彼女は自分を守る。守るための正しさと、守りたいもののあいだに、細い橋を渡す。


Ⅲ 鐘の道


放課後、旧市街は風の通り道になっていた。海側の坂を下り、商店街の裏に入る。アーケードの匂いは、スパイスと古い段ボールの混合。路地の角を曲がるごとに、昭和と平成と令和の層が薄く重なって剥がれ、壁のペンキに時間の地図が見えた。


地図の×印の家は小さな二階建てだった。玄関の上に擦りガラス。引き戸。風鈴。風鈴は鳴らない。風が風鈴を避けて通る。避けられた音は、別のどこかで鳴る。


インターホンを押すと、すぐに足音。年配の女性がドアを少しだけ開け、僕たちの顔を順番に見た。僕たちが名乗ると、女性は頷き、チェーンを外してドアを広く開けた。


「新聞、読みました。……来ると思っていました」


居間は涼しかった。畳の匂いと、古い木の箪笥の匂い。テーブルの上に箱がひとつ。茶色い箱に、細い紐がかけてある。女性は紐をほどき、蓋を開け、古い包み紙を丁寧にめくった。中から、白いリボンが出てきた。


白かった。

三十年前の白というより、今朝の白。

端にごく小さな擦れ。真ん中に指で結んだ跡。

近づくと、紙に書いてあった通り、新しい匂いがした。洗い立ての布の匂いとも違う。海の匂いとも違う。

——写真の暗室で、乾いた印画紙を初めて箱から出した瞬間の匂い。


カリンが小さく息を呑んだ。

女性は言う。

「拾ったのは、土砂が止んだ翌朝です。坂のベンチの脚が曲がって、座面に泥が載っていました。その泥の上に、これがありました。……誰のものか考える前に、手が動いていました」

女性は笑った。「どうして拾ったのか、今でも分かりません」


「鐘の家のこと、覚えていらっしゃいますか」

カリンが尋ねる。

女性は頷いた。

「ええ。白鐘さんは、近所でも腕のいい職人さんでした。最後の娘さんはね、よく笑う子で、よく走る子で、よくすべる子。坂の下まで一気に行って、また一気に戻ってくる。白いリボンをしていたかって? していましたよ、よく」


「名前を、言えますか」

言った瞬間、部屋の空気が一度だけ薄くなった。

女性は視線を畳に落とし、数秒ののちに、静かに首を振った。

「——言ったら、呼ぶでしょう。あの子は、呼ばなくても来るのに」


女性は箱の蓋を閉めず、僕たちにリボンを差し出した。

「見せると書いたけれど、渡すとは書いていません。だから、渡しません。けれど、見ているあいだは、あなたたちのものです」


見ているあいだ——。

そう言われて、僕はわずかに震えた。

“記録”の時間と“所有”の時間が、はっきり分けられたように思えた。


カリンはそっと指でリボンの端を持ち上げた。

布は軽いが、軽いものほど指先に重みの痕跡を残す。

彼女はそこで止めた。結び目を作らない。輪を作らない。布を布のまま、空中に置く。


「——まだ、ここにいるよ」


耳の奥の穴を風が抜ける。声は、女性のものではない。カリンのものでも、僕のものでもない。部屋の四隅に溜まっていた空気が、ひとつだけ若い温度になって揺れた。


女性は微笑んだ。

「やっぱり、来ますね。呼ばなくても」


Ⅳ 鐘の跡地


家を辞してから、僕たちは坂を上がって学校の裏手に出た。旧教会跡——今の校舎が建つ前、この土地に鐘があった。

夕方の光が傾き、校舎の影が裏庭に細長く伸びる。ガラスに空の層。右側の窓の端。僕が何度も立った場所。目を閉じると、世界が目を開ける。


カリンが言った。

「鐘って、折れるの?」

「先生は折れるって言ってた」

「音は?」

「折れるっていう音は、どうだろう」

「たぶん、鳴ったまま、止まる」


鳴ったまま、止まる音——。

言葉にしてみると、胸の奥で何かがようやく形を得る。

鳴り続けているのに、誰もそれを“鳴っている”と認識しない。認識しようとすると、音は一瞬で消える。

消えた、という音だけが残る。


校舎の裏の土に、わずかな窪みがあった。土の色がそこだけ明るい。掘り返した跡ではない。誰かがそこに、何かを置いて、またどかした跡だ。

僕はしゃがんで、指で土を撫でた。土は乾いている。枯れた草の芯が混じっている。

カリンが、息を吸った。

「レン。ここ、鐘の足?」


僕は首をかしげた。確信はない。だが、確信よりも近い何かが、指先から腕を上がって胸に来る。土に手を置くと、鼓動が伝わる。自分の鼓動か、土の鼓動か、境目が曖昧になる。


「写真、撮る?」

「撮らない」

「どうして」

「撮ると、切れる。今は、切らないで、置いときたい」


カリンは頷いた。

「じゃあ、覚える」

彼女は目を閉じた。

覚えるために目を閉じる。

忘れないために目を閉じる。

閉じた目の裏に、土の色と、窪みの形と、風の温度が、そのまま置かれていく。


風が、白いものの端をかすめた。

見上げると、校舎の四階の窓の内側に、白の斜め。

リボン。

——いや、光の筋。

見間違いでも、見間違いのまま残る。

僕は目をこすらなかった。こすると、世界は正しくなる。正しさは、時々、残酷だ。


Ⅴ 鐘の話(証言)


夕方、図書室。地元史の棚。段ボール箱に「旧教会関係」と手書きのラベル。中から、古いアルバムと、町内会の回覧板の残骸。黄ばんだ紙に、達筆の文字。


「白鐘家、鐘鋳の最終。娘、ユ——」


名前の途中でインクが薄くなる。

指でなぞると、指先が黒くなった。

カリンが回覧紙の写真を指差す。

教会の写真。白い壁。鐘楼。屋根の上で、三人の男が何かを支えている。足場の板が斜めに渡されている。

写真の端に、小さく白いリボンのようなもの。

風が吹けば、こういうものは、どの時代の写真にも写る。

それでも、写ったという事実は、見る人の数だけ意味を増やす。


図書室の司書さんが声を潜めて近づいてきた。

「あなたたち、新聞、見ましたよ」

「ありがとうございます」

「わたし、三十年前、教会の裏の家に住んでいたんです。鐘の音は、本当に“止まった”んですよ」

司書さんは目を閉じた。

「鳴ったまま止まった、というより——鳴っている音が、急に“遠くになった”。遠くになった音は、聞こえるけど、届かない。届かない音は、思い出になる。思い出になってしまうと、もう名前が付けられない。だから、皆、名前を言わない」


カリンがペンを動かす。

「“遠くになった音”。記事に使っても?」

「名前を出さないなら」

「もちろん」


司書さんは笑った。

「あなた、良い記者ね。名前を出すことと、真実を出すことは、別だから」


Ⅵ 教室の空白


翌日。二年三組。昼休みの終わり、誰もいない教室。

名簿は黒板の端に貼られている。番号が並ぶ。十五、十六、——十八。

十七の位置に、白いチョークで小さく点が打たれていた。

点は、誰かの躊躇だ。

点は、誰かの呼吸だ。

点は、誰かの「ここ」。


僕は黒板消しを手に取り、点に触れないように周りだけを軽く払った。

チョークの粉が舞い、点の上に降りて、点を少しだけ柔らかくした。

柔らかい点は、残る。


教室のドアが開いた。

浜崎が顔を出し、「おーい、レン」と手を振る。

「購買行くけど、パンいる?」

「……カレーパン」

「了解」


彼が出て行くと、空気が元の形に戻る。

元の形、という言葉は嘘だ。元の形なんて、ない。

さっきまでの形が、もう“元”であるだけだ。


席に戻ると、机の中に何かが触れた。

手を入れると、冷たい紙。

取り出すと、写真の切れ端が一枚。

白黒。窓。肩。斜めの白。

切断面が、雑。

誰かが慌てて切った、あるいは、切らざるを得なかった。

裏には、鉛筆で、薄く、


「——ナ」

とだけある。

“ユ”の上にチョークの粉がかすかに付いている気がした。

気がしただけ。

気がしただけが、今日は強い。


Ⅶ 鐘の下の歌


放課後の音楽室。

カリンはピアノに向かい、楽譜のない譜面台に指を置く。

「歌っていい?」

「いい」

「題名はない」

「題名は、あとでいい」

彼女は低い声で歌い始めた。

言葉のない旋律。

音と音の間に風が通る。

ガラスが、その風を別の角度で返す。

返ってきた風のほうが、歌っている。


「——まだ、ここにいるよ」


声は、彼女の喉から出たのではなかった。

でも、彼女の喉が震えたのは確かだった。

僕は頷いた。

頷くことは、呼ぶことではない。

ただ、在ることを、在る位置で承認することだ。

承認は、祈りより小さいが、長く残る。


ドアが静かに開いた。

笹原先生が入ってきて、部屋の真ん中で立ち止まった。

「鐘の娘、という題で、文化祭の展示をやれ」

唐突な提案は、先生らしい。

「写真は、出さない。空白だけを並べる。写真の余白、黒板の十七、ベンチの曲がった脚、ラベルの剥がれた薬瓶、点になった名前。——それを『見に来た人の記憶』で満たしてもらう展示だ」

先生は、ピアノの上に資料館の地図を置いた。

「場所は、旧教会の跡地の廊下の奥。鐘が鳴った“遠さ”が分かる場所にしろ」


カリンが目を光らせる。

「タイトルは?」

先生は笑った。

「『記録者はまだ、夢を見ている。』だ。——お前たちの、だろう?」


僕は胸の奥でゆっくり頷いた。

展示は棺ではない。

展示は、棺の蓋の上に置く白い布だ。

そこに手を置いて、息をそろえるための。


Ⅷ 準備


翌日から、放課後の廊下は作業場になった。

段ボールに黒い紙を貼り、余白だけを切り抜いてフレームを作る。

黒板からこぼれたチョークの粉を、小瓶に集めてラベルを剥がす。

ベンチの曲がった脚を模した線を針金で作り、薄い紙を針金に渡して影だけを吊るす。

写真は、出さない。

出さない代わりに、見る側の“中”で現像されるように、暗さと匂いと温度を配置する。


「この瓶、ラベルどうする?」

「剥がす」

「全部?」

「端だけ残す。読めそうで、読めないくらい」

「名前は?」

「書かない」

「書かない、ね」


“書かない”という選択が、最初は空疎に思えた。

でも、一日目の終わりには、その空疎の形が確かな輪郭を持った。

輪郭は、触れた指のほうに残る。


掲示用の紙に、導入の一文を書いた。

カリンのペン先が迷いなく走る。


「ここには、写っていないものだけがあります。」


その下に、僕が小さく書き添える。


「空白を、空白のまま見てください。」


Ⅸ 匿名の差し入れ


二日目の夕方、作業の合間に靴音が止まった。

旧市街で会った女性だ。

紙袋を下げている。

「差し入れ。冷たいお茶と、——これ」

紙袋の底から、小さな箱。

箱の中には、白いリボン。

昨日見たものと、同じに見える。

でも、違う。

違うけれど、同じ。

女性は言う。

「渡すとは書いていないと言ったけれど、……預けるとは書いていませんでした。これは、預けます。返さなくても、いい」


「いいんですか」

「わたしのところに置いておくと、匂いが遠くなってしまいそうで」

彼女は微笑んだ。

「若い人の手にあると、匂いは近くなる」


カリンと僕は、同時に頭を下げた。

箱の蓋は閉めなかった。

箱が開いている間、リボンはここにいる。

箱を閉じても、ここにいる。

在る/ない、が、少しずつ意味を入れ替える。


Ⅹ 夜の稽古


展示の“通し稽古”をした。

灯りを落とし、廊下の突き当たりから順に歩く。

黒いフレームの余白。

剥がれたラベルの瓶。

点だけの名簿。

曲がった脚の影。

最後に、箱の中のリボン。

——写真はない。

でも、写真の“重さ”だけがある。

重さは、足音の歩幅に表れる。

自分の歩幅が、さっきより半歩短いことに気づく。

短くなる歩幅は、怖さのせいではなく、敬意のせいだ。


廊下の奥で、ピアノの弦がひとつだけ震えた。

誰も、鍵盤に触れていない。

僕とカリンは顔を見合わせ、笑った。

笑いは、呼ぶ言葉より、近くまで届く。


「——まだ、ここにいるよ」


返事はしない。

返事をしなくても、言葉はそこにとどまる。

とどまった言葉は、展示の空気の一部になる。


Ⅺ 開く前夜


文化祭の前夜。

廊下は静かで、貼り紙の角がわずかに反っている。

風が、夜の匂いを少しだけ持ち込む。

僕は、導入の紙の下の余白に、小さく点をひとつ打った。

十七の位置と同じ高さ。

誰にも分からない、僕だけの印。

印は、僕の中の黒板だ。


カリンが横で、箱の蓋を半分だけ閉めた。

半分。

完全でも、未完成でもない位置。

「このくらいがいい」

「うん」

「開けたくなるし、閉めたくなる」

「そうだね」


足音。

振り向くと、笹原先生。

腕に何か細長いものを抱えている。

布に包まれた棒。

先生はそれをそっと床に置き、布を外した。

——折れた鐘の舌だった。

錆びて、でも、形は残っている。

重さが空気の重さを変える。

先生は言った。

「図書室の倉庫の奥だ。誰も触らなかった。……置いとけ」


「ありがとうございます」

「鐘の音は、鳴って止まる。止まって、鳴る。——客が、その違いを連れてきてくれる。お前たちは、場所を用意しとけ」


先生は去った。

床に置かれた舌は、光を持たない。

光を持たないもののほうが、夜には場所を持つ。


Ⅻ 開く朝


文化祭の朝。

生徒会のアナウンスが流れ、体育館の歓声が風に運ばれる。

僕とカリンは、廊下の入口で立って、来場者をゆっくり通した。

「写真はありません。どうぞ奥へ。

 ここには、写っていないものだけがあります」

カリンの声は落ち着いていて、少しだけ柔らかくなっていた。

新聞の見出しを読む声とは違う、人に場所を渡す声だ。


最初に来たのは、旧市街の女性だった。

箱の前で立ち止まり、リボンを見て、目を閉じ、微笑んだ。

次に来たのは、司書さん。

黒板の点の前で、頷いた。

老人が来た。

「鐘の娘は、まだ帰らんのう」と小さく言い、折れた舌に指を添えた。

指が添えられた金属は、音を持たないまま、音の形だけを廊下に広げた。


人は、写真がなくても、思い出の中で現像を始める。

鼻の奥に薄い匂いが集まり、皮膚が一枚だけ若くなる。

目が濡れ、笑って、黙って、立ち去る。

立ち去ったあとに残った空気は、来たときよりも少しだけ重い。

重い空気は、廊下の温度を一度下げる。

下がった温度は、展示の“輪郭”になる。


正午を少し過ぎた頃、カリンが僕の袖を引いた。

「——見て」

廊下の真ん中。

誰もいない空間。

光が、斜めに一本、結ばれた。

髪の線。

肩。

細い白。

笑っている。

右頬の小さな傷。

僕は息を吸い、吐いた。

吸った息が、廊下の空気にほどける。

ほどけた空気に、言葉が一つ、混ざった。


「まだ、ここにいるよ」


返事をしないで、僕たちは点を見た。

十七の位置。

導入の紙の下。

名簿の隙間。

鐘の舌の影。

リボンの結び目の手前。

すべての“手前”が、一瞬だけ同じ地点で重なった。


終章 鐘の娘


閉館のアナウンスが流れ、廊下の灯りが一段だけ落ちた。

来場者が途切れ、静けさが戻る。

僕とカリンは入口の紙を外し、黒いフレームの埃を払った。

箱の蓋を半分閉じ、半分開けた。

先生が折れた舌を布で包み直す。

誰もいない廊下に、足音がひとつ。

僕らは同時に振り向いた。

誰もいない。

でも、在る。

音にもならない笑いが、壁に薄く当たってほどけた。


「——まだ、ここにいるよ」


それは、ここにいる人たち全員の声に聞こえた。

消された人のための声ではなく、ここで息をしている全員の呼吸の合奏。

鐘は、鳴ったまま、止まる。

止まったまま、鳴る。

その両方を、僕たちは今、同じ廊下で聴いている。


カリンが空を見た。窓の外、夕雲が細く裂けて、光が海に落ちる。

「レン」

「なに」

「次の号、タイトル決まった」

「どんな」

彼女は少し考えてから、笑って言った。


「『鐘が止まった日の遠さ——空白の町で、名前を呼ばないという選択』」


「長い」

「長くていい。短い言葉は、今日は、あなたが書いて」

僕は頷いた。

黒いペンで、導入の紙の下の余白に、小さく書いた。


「ここにいる。」


それだけで、廊下の温度が半度上がった。

上がった温度は、今日の最後の証拠になる。

証拠は、紙より軽いが、夜より長く残る。

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