第2話 放課後の音楽室
Ⅰ 午後の余白
翌朝、黄瀬の町は靄の中で始まった。港のクレーンが白くかすみ、漁船のエンジン音が布越しに聞こえる。通学路の坂を登ると、制服の袖がじっとりと湿る。霧はゆっくりと消えるけれど、誰かの記憶を拭うように残り香を置いていく。
僕はカメラを持たずに登校した。フィルムを現像した昨夜の感覚がまだ手の奥に残っている。指先でシャッターを押さえると、押し込むべき“何か”がない。写すべきものと写してはいけないものの境界が、赤い光の残像で曖昧になっていた。
教室の窓際の席に座ると、黒瀬カリンがすでにノートを広げていた。新聞部の見出しの案がびっしり書かれていて、その端にシャープペンで何かを丸で囲んでいる。僕の視線に気づくと、カリンは顔を上げた。
「おはよ、レン」
「……おはよう」
「昨日、来なかったね。音楽室」
「ごめん」
「笹原センセが庇ってくれたけどさ。あたしは庇わないよ」
カリンの声は怒っているようで、どこか怯えてもいる。机の上の丸い印を指で隠すように、ページをめくった。ちらりと見えた文字には「名簿」「欠番」「白鐘」と書かれていた。白鐘——。胸の奥で、昨日の声が揺れる。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴ると、クラスのざわめきが波のように収まっていく。僕は教科書を開くふりをしながら、窓の外を見た。体育館の屋根の向こう、海沿いの防波堤の手前に立っている白いポール。その根元に、誰かが花を供えていた。風で倒れたのか、花束のリボンが片方ほどけていた。昨日、現像した写真のリボンと同じ結び目だった。
——まだ、ここにいるよ。
声は聞こえない。ただ、花の隣で風が形を変えた。
Ⅱ 音楽室の残響
放課後、音楽室のドアを開けると、陽の光が床に斜めの格子を作っていた。カリンがピアノの前に立っていた。白いブラウスの袖を肘までまくり、スカートの裾を椅子の背に引っかけている。窓の外には、崩落した丘の向こうの海が見えた。
「来たんだ。やっと」
「昨日は……」
「いいよ。昨日は昨日で、あたしも動けなかったから」
カリンはピアノの蓋をそっと閉じて、手の甲で額の汗をぬぐった。机の上にはノートが三冊。うち一冊の表紙には赤ペンで《記録者インタビュー》と書いてある。
「これ、読んで」
ノートを開くと、写真部員たちへの聞き取りのメモが並んでいた。倉田、木下、浜崎。それぞれのコメントが簡潔に記されている。
倉田:「集合写真のとき? 六人いた? いや、五人じゃなかった?」
木下:「白いリボン? ああ、風でカリンのリボンがほどけたときのやつだろ」
浜崎:「白鐘? そんな名字、聞いたことねえよ」
ページの隅にカリンの走り書きがあった。
《クラス名簿に空欄あり。二年三組、出席番号17——誰の記録もなし》
僕は顔を上げた。カリンはピアノの前に立ったまま、指先で鍵盤を一音だけ叩いた。薄い音が、木の壁にぶつかって散る。
「ねえ、レン。どう思う? 名簿の欠番。たったひとつだけ、空欄なの」
「たまたまだろ。転校とか」
「でも、学籍データにも、その番号自体が“存在しない”の。つまり、誰かがいた痕跡を、最初から消したみたいに」
カリンはノートを閉じて、僕に向き直った。その瞳の奥に、確信と恐怖が同居している。新聞部の彼女がここまで震えるのを、初めて見た。
「それでね、昨日、町の資料館に行ったの。去年の崩落事故の記事を全部調べた。犠牲者の名前、二十三人。行方不明者、ひとり。でも、その名前がどこにも書かれてない」
「……白鐘、ユナ?」
「うん」
音楽室に風が入ってきた。窓辺のカーテンが膨らみ、ピアノの弦がかすかに震えた。風の音の中に、かすかな囁きが混ざった気がした。まだ、ここに——。
僕は耳を塞いだ。だが、声は内側にいた。
Ⅲ 取材ノート
翌日、昼休み。カリンと僕は資料室にいた。校舎の北端にある古い木造の一室。古新聞が束ねられ、表紙の上から薄い埃が舞う。カリンはマスクを外して新聞を広げた。指先で活字をなぞりながら、小さくつぶやく。
「ねえ、レン。これ、見て」
広げた紙面の中央に、地元紙の記事があった。
《黄瀬高校裏山崩落 写真部員ら巻き込まれる》
本文には、こうあった。
……当時、写真部の生徒たちは校舎裏で撮影をしており、
教員の誘導で避難したが、一名が行方不明となった。
当局は翌日まで捜索を行ったが発見には至らず——
カリンが指で行をたどる。
「ここ、“一名”って書いてあるでしょ。でも名前がない。
あのね、地方紙って、犠牲者名を伏せることもあるけど、
行方不明者の名前を出さないなんて、普通ありえない」
「つまり、最初から——」
「そう。最初から、存在しないことにされた」
ページの端が指に当たって、軽く切れた。血の赤が紙の黄ばみに滲む。
カリンはポケットからハンカチを出して、軽く押さえた。
「レン。あなた、覚えてる? その子の声とか、話したこと」
「……覚えてる。断片だけど」
「どんな声?」
僕は答えに迷った。思い出そうとすると、脳の奥で海が鳴る。
波の向こうから少女の声が届く。ゆっくり、透明で、どこか懐かしい。
けれど単語を掴もうとすると、音が砕ける。
言葉が、音より先に消えてしまう。
「……風の音に似てた。夏の午後、誰もいない教室で窓を開けたときの風。そんな声だった」
カリンは目を閉じた。
「——あたし、その声、聞いたことある気がする」
「いつ?」
「たぶん、昨日。音楽室で一瞬だけ。ピアノが鳴ったあと」
その言葉に、背筋が冷えた。
僕は新聞の束を閉じて、棚に戻した。
Ⅳ 写真と記憶
放課後、写真部の部室に戻ると、笹原先生がいた。
椅子に座り、古いフィルムのケースを手にしている。
その隣には、僕が現像した昨日の写真が一枚置かれていた。
「これ、どこで撮った」
「裏庭です。事故の前の日」
先生は写真を光にかざした。
白いリボンの少女が窓辺に立っている。光は彼女の輪郭を透かし、ガラス越しに空の層が重なっている。
先生はしばらく黙って見つめてから、ゆっくりと写真を机に置いた。
「この校舎ができる前、ここは教会だった。
地震で崩れて、跡地に学校が建った。
——白鐘って名字、昔この町にあった家だ。鐘を鋳造してた職人の一族。
最後の娘が、土砂に飲まれて消えた。
その年の夏だ。……三十年前の話だがな」
僕は息を止めた。
写真のリボンが、風に揺れているように見えた。
「つまり先生、その“白鐘”って……」
「お前たちの見ている少女と、同じ名前だ。
でも三十年の差がある。おかしいだろう?」
先生は煙草を一本取り出して、火を点けずに指の間で転がした。
煙のない煙草から、わずかに薬品の匂いがした。
「写真ってのは、時間を閉じ込める。
だが、ときどき逆流する。
誰かの“撮りたい”って想いが強すぎると、過去が呼応するんだ。
そうして、閉じ込めたものが、呼吸を始める」
「呼吸……?」
「記録者の呼吸に合わせて、過去が息を吹き返す。
お前、昨夜、何を聞いた?」
「……声を」
「そうだろうな」
先生は立ち上がり、現像液の棚の前に歩いた。
薬品の瓶のラベルがかすれ、文字が判読できない。
ラベルのひとつに薄く“白鐘”と書かれていた。誰の字かは分からない。
「レン。写真の中の彼女は、お前が現像をやめないかぎり、そこにいる。
だけど、ずっと閉じ込めておくと、やがて外に出たくなる。
記録とは、呼吸を止めないための棺だ。
お前が開けるたびに、彼女は息をする」
先生はそう言って、部屋を出ていった。
残された写真が、机の上でわずかに光を返した。
Ⅴ 放課後の約束
翌日。
黄瀬高校の掲示板に、新しいプリントが貼られていた。
《地域文化祭・写真展示募集》と書かれている。
応募作品のテーマは“この町の記憶”。
カリンがそれを見つけて、目を輝かせた。
「レン、これ出そうよ。あの写真」
「……やめたほうがいい」
「どうして?」
「写ってる。——写っちゃいけない人が」
カリンはしばらく黙っていた。
「でも、もし本当にその人が“消された”なら、見せることが供養になる。
記録は、救いにならなくても、立ち直りにはなるんでしょ?」
笹原先生の言葉を思い出す。立ち直り。
でも、立ち直った足で、また転ぶかもしれない。
「やめよう、カリン。あれは——」
「ねえ、レン。あたしね、昨日の夜、夢を見たの」
「夢?」
「誰かがピアノを弾いてた。曲名は分からないけど、聞いたことあるメロディ。
そして、音が途切れるたびに、誰かが言うの。『まだ、ここにいるよ』って」
胸の奥で何かが弾けた。
僕は言葉を失い、ただ彼女を見つめた。
「その声、風みたいだったでしょ」
カリンの目が大きく見開かれた。
「——どうして分かるの?」
「僕も、聞いたから」
二人の間の空気が、ゆっくりと凪いだ。
教室の外から、下校のチャイムが鳴る。
鐘の音は、遠くの海に溶けていった。
Ⅵ 夜の掲示板
夜、家に帰る途中、学校の前を通りかかった。
フェンス越しに掲示板が見える。昼間カリンが見ていた文化祭のポスターが、風に揺れていた。
その下に、一枚の写真が貼られているのに気づいた。
白黒の写真。校舎の裏庭。傾いた夕陽。
——昨日、僕が現像した一枚だ。
だが、貼った覚えはない。
近づくと、写真の余白に小さな文字があった。
「白鐘ユナ——もう一度、この町を見せて」
僕は息をのんだ。
風がフェンスの向こうから吹いて、写真がわずかに震えた。
その瞬間、写真の中の窓の影がゆらりと動いた。
ガラスの奥に、誰かの肩の線。
白いリボンが、音もなく結ばれていく。
「……やめろ」
声に出しても、風がすぐにさらう。
それでも言わなきゃならなかった。
やめろ、という言葉は、呼びかけと同じ形をしている。
僕は写真を剥がそうと手を伸ばした。
だが、紙は風に合わせて後ろへ逃げる。
指先が届かない。
フェンスの金網が、声を弾く。
そのとき、背後から足音がした。
振り返ると、カリンが立っていた。
白いワンピースの上にカーディガンを羽織り、手にはカメラ。
レンズの先が僕の顔に向けられている。
「レン。動かないで」
シャッターの音が夜を切った。
カリンはカメラを下ろし、息を整えた。
「撮れた……ちゃんと、写った」
「何が——」
「ほら、見て」
液晶の小さな画面に、フェンス越しの写真が映っている。
だが、その中の風景には、僕しかいない。掲示板も、写真も、白いリボンも消えている。
そこにあるのは、僕だけ。
カリンは唇を噛んだ。
「おかしい……確かに、見えてたのに」
「カリン。もう帰ろう」
「待って」
彼女はもう一度シャッターを切った。
今度は僕の隣の空間に向けて。
撮ったあと、画面を見て、息を呑んだ。
「……誰か、いる」
画面の中、僕の肩のすぐ後ろに、
ぼんやりと白い影。髪をまとめ、細いリボンが光っている。
顔は見えない。
だが、僕には分かった。
白鐘ユナ。
カリンが震える声で言った。
「レン。——あたし、彼女を記事にする」
「やめろ」
「だって、これが真実でしょう。消された人がいるなら、
その存在を取り戻すことが、記者の仕事だよ」
「違う。取り戻すんじゃない。写しちゃいけないんだ」
「どうして? 怖いの?」
「怖いんじゃない。……悲しいんだ」
カリンは息を詰めたまま、ゆっくりカメラを下ろした。
二人の間の風が止まり、夜の音が遠のく。
遠くの防ChatGPT:思考時間: 5sごめん、いまの返信は途中で切れてた。
第2話をきちんと通しで約12,000文字にしてお届けし直します。
(AI要素は引き続きナシ。第1話の語り口と世界観を継承します。タグや表記ルールも前回どおり。)
第2話 放課後の音楽室(約12,000字)
Ⅰ 午前の白
翌朝の黄瀬は白かった。港のクレーンも、堤防の標識も、霧の膜の向こうで輪郭だけを残している。登校路の坂を上ると、制服の袖がじっとりと湿って、肘のあたりで重たくなる。靄は体の外側からだけじゃない。肺の奥にも薄くたまって、吸うたびに鈍い冷たさを一さじずつ落としていく。
今日はカメラを持たないで来た。昨夜、赤い光の下で現像したときの“手の奥”の感覚が、まだ指の骨の間に挟まって残っている。机に置いた右手のひらで、シャッターの形を無意識になぞってしまうと、押し込む先がどこにも見つからず、空を押してしまったような気持ちになる。押すべきものと、押してはならないもの。名前のつかないふたつが、朝からずっと肩を並べている。
教室の窓際の席に腰をおろすと、黒瀬カリンはすでにノートを広げていた。新聞部の見出し案が鉛筆の線でびっしりと並んでいる。線はときどき二重になったり、濃さを変えたり、息をしているみたいに強弱がある。端に、小さな丸で囲まれた文字がひとつ。僕が視線を落とすと、カリンは顔を上げた。
「おはよ、レン」
「……おはよう」
「昨日、音楽室、来なかったね」
「ごめん」
「笹原センセが『見てない』って言ってくれたから、セーフ。でも、あたしは庇わないよ」
言葉は棘みたいに聞こえるけど、目は刺してこない。怒っている顔ではない。怯えている顔でもない。両方が半々。混ぜると透明になる色ってある。彼女の目は、そういう色をしていた。ページをめくる指が、鉛筆の粉で少し黒くなっている。見ないふりをしていた丸の中の文字は、ちらりとだけ目に入った。「名簿」「欠番」「白鐘」。白鐘——胸の奥の、昨夜の声の場所が、薄く波打つ。
始業のチャイムが鳴る。音は天井から落ちるのではなく、床から滲む。教科書を開いたふりで、窓の外を見る。体育館の屋根の向こう、防波堤の手前のポールの根元に、小さな花束がひとつ。リボンが片方だけほどけて、湿った地面に端が貼りついていた。結び目の形が、昨夜現像した写真のそれと似ている。似ている、というだけで、同じではない。違いは、匂いの層に宿る。
——まだ、ここにいるよ。
文字にすれば十字。音にすれば一息。言葉としては現れないまま、朝の光の粒のなかに混ざっていた。
Ⅱ 音楽室の入口で
放課後の音楽室は、午後の残り香で満ちていた。窓から入る光が床に格子を描いて、譜面台の足がその上で影を四つに割る。ピアノの蓋は半分だけ開いていて、中の弦が金色に光っていた。カリンはその前に立って、鍵盤に触れもしないで、鍵の並びを目でなぞっている。
「来たんだ、やっと」
「昨日は……」
「いいよ。昨日は昨日。こっちも取材の相手が捕まらなかった」
笑いそうで笑わない声。机の上にノートが三冊。いちばん上の表紙に、赤ペンで《記録者インタビュー》。カリンはそれを僕に押しやって、椅子を足で引いて座らせた。
「読む」
命令形は、彼女が怖いときの拠りどころだ。僕はノートを開いた。写真部の部員に聞いたという短いメモが並んでいる。倉田、木下、浜崎。それぞれの言葉は短くて、穴が多い。穴は、息をするために空いているのか、記憶が落ちるために空いているのか、読んだだけではわからない。
倉田:「集合写真? 五人だったよ。六? あれ、五人じゃなかったっけ」
木下:「白いリボン? カリンのだろ。風でほつれて、結び直してた」
浜崎:「白鐘? そんな名字、聞いたことねえ。いや、ベル? 何それ」
ページの隅に走り書きがある。
《二年三組・出席番号17=欠番。学籍台帳に“番号自体なし”の記録。転入・転出履歴にも該当なし。》
丸で囲まれた矢印が三本。カリンは僕の顔色を見る癖がある。読んでいるときの顔が白くなる、って前に言われたことがある。
「ねえ、レン。どう思う?」
「どう、って」
「欠番。番号ごと消えてるの。最初から『いなかった』みたいに」
「たまたまじゃないの?」
「“たまたま”は記事にならない。『おかしい』は記事になる」
新聞部の言葉で、彼女は自分を守る。守るときの声は、かえって薄く震える。彼女はピアノの鍵盤の白いところにそっと触れて、一音だけ押した。薄い音が部屋に広がって、木の壁に当たって、さらに薄くなって戻ってくる。
「昨日ね、資料館に行って、崩落事故の記事を全部見た。犠牲者二十三人。行方不明者ひとり。で、名前がどこにもない」
「……白鐘ユナ」
「そう」
窓辺のカーテンが風を孕んで膨らむ。膨らんだ布の陰影の形が、人の肩の線に見えた。見えただけ。見えただけは、まだ現実じゃない。だけど、現実より長く残ることがある。
「記事に——」
「する気?」
「する。彼女を。『消された人』を記事にする」
「やめたほうがいい」
「どうして?」
どうして、と聞かれて、答えを持っていないことに気づく。怖いから、悲しいから、って言葉は理由の形をしているのに、根っこを持っていない。根っこのない理由は、風で飛ぶ。飛ぶけど、落ちるところがいつも同じで、そこに溜まっていく。
「——ねえ、レン。昨日、音楽室で、誰かの声が聞こえた気がする」
「どんな声」
「風みたい。窓の隙間を通る細い音。『まだ、ここにいるよ』って」
喉の奥が熱くなった。僕は頷いた。頷くと、耳の内側で小さな穴が開く。そこから風が一本、出たり入ったりする。
Ⅲ 昼の資料室
昼休み、資料室。古新聞の束は、縛ってあっても、紙の枚数だけ時間の匂いを持っている。埃の匂いは記憶の粉だ。指先で触ると、指紋の溝に入り込んで、夕方になっても残る。
「ね、これ」
カリンが開いた記事の見出しは、見覚えのある字体で太かった。地元紙の見出し。事故の紙面。写真部の文字。本文を指で追っていく。追う指の爪の先が薄く光る。
……写真部の生徒らは教員の誘導で避難したが、一名が行方不明。翌日まで捜索が行われたが発見されず——
「名前がないでしょ」
「ない」
「行方不明者の名前を出さないなんて、普通はないのに」
普通、という言葉が、紙の上で一瞬だけ軽く浮いた。ふつう。ふつう、ふつう。口のなかで転がすほど薄くなる。
「レン。覚えてる? その子の声とか、話したこと」
「覚えてる。断片だけ」
「どんな?」
「夏の放課後の風みたい。窓を開けると、カーテンの裾がちょっとだけ持ち上がるくらいの強さの」
カリンは目を閉じて、頷いた。頷くと、髪が頬に触れる。触れて、戻る。
「——あたし、多分、その声、聞いた」
「音楽室で?」
「うん」
図書委員が机の並べ替えをしている音が遠くでしている。椅子の脚が床を引っかく音は、昔のスキーの映像みたいに、最後のところで音が細くなる。
Ⅳ 先生の話
放課後、部室。笹原先生は椅子に座って、煙草に火をつけないまま、指の間で回していた。火をつけない煙草は、約束を先延ばしにするための棒だ。
「これ、どこだ」
「裏庭。事故の前の日」
白黒の一枚。窓辺の白いリボン。先生は写真を斜めにし、光の当たり方を変えながら見た。見る角度で、彼女の笑い方の角度が変わる。変わっても、笑っている。
「この校舎の前は教会だった。鐘があった。鐘を鋳る家がこの町にあってな、白鐘って名字はそこから来ている。三十年前の土砂で、最後の娘が呑まれた。鐘も折れた。鐘の音は、折れる」
僕は息を飲んだ。写真のなかのガラスが音を返す。返す音は聞こえない。見えるだけ。
「三十年前の話と、いまの写真の彼女が、同じ名前。変だろう」
「変です」
「写真は時間を閉じ込める。だが、時々、時間が出てくる。閉じ込めるほうが先か、出てくるほうが先か。どっちでもいい。記録者の呼吸が、ふと過去と同期すると、出てくるほうが勝つ」
「呼吸が、同期」
「昨夜、お前、何を聞いた」
「声を」
「そうだ」
先生は引き出しから小さな瓶を出した。ラベルは剥がれかけて、端にだけ文字が残っている。白と、鐘。誰の字かわからない。先生は瓶を戻した。戻すときの音は、空洞に何かが触れる乾いた音。
「レン。記録は棺だ。救いじゃない。だが、人が立ち直るあいだ、呼吸を守ることはできる」
「立ち直った足で、また転ぶ」
「そう。だから、棺に蓋をするときは、手を添えろ」
先生は立ち上がった。背中の線は、赤い光よりも濃い。
Ⅴ 掲示板の前で
放課後。校門の外の掲示板に、新しい紙が貼られていた。《文化祭・写真展示募集》。テーマは“この町の記憶”。カリンはそれを見て、振り返りざまに僕の腕をつかんだ。
「出そう」
「やめよう」
「どうして」
「写ってる。写っちゃいけないものが」
「消された人を、もう一度この町に見せることが、ダメ?」
「見せるって、誰に」
「世界に」
世界。大きい言葉を出すと、足場が滑る。滑るけど、彼女は踏ん張る。
「——昨日、夢を見たの」
「どんな」
「ピアノの音が止まるたびに、『まだ、ここにいるよ』って」
喉の奥の穴が広がる。風が通る。通りすぎる。そのあとに残るのは、通ったという感覚だけ。
Ⅵ 夜のシャッター
夜。学校の前。フェンス越しの掲示板に、一枚の写真が貼られている。僕が現像したはずの一枚。貼った覚えはない。余白に小さく書かれた文字。
白鐘ユナ——もう一度、この町を見せて。
「やめろ」
自分の声が風に混ざってほどける。写真は風に合わせて揺れる。揺れるたびに、窓の反射がずれて、白いリボンの角度が変わる。角度が変わるたびに、名前のない音が鳴る。
背後で足音。振り返ると、カリン。手にカメラ。
「動かないで」
シャッターの音。夜が一瞬だけ固まって、すぐに崩れる。カリンが画面を見せる。僕だけがそこにいる。掲示板も写真もない。空白。空白は強い。強いけれど、理由を要求する。
「もう一枚」
カリンは僕の肩の横の空間にレンズを向ける。シャッター。画面の隅に、白い影。髪をまとめ、細いリボン。顔は、見えない。
「——彼女を記事にする」
「やめろ」
「記者だから」
「友だちだから、やめろ」
言葉がぶつかって、割れて、床に散る。拾えない。拾うと切れる。切れても拾うほど、いまは強くない。
Ⅶ 音楽室ふたたび
翌日。放課後。音楽室。窓から風。譜面台の列。ピアノの蓋。カリンは椅子に座って、譜面のない譜面台を見ていた。そこに譜が載っているふりをして、目を動かしている。目は、読みたい。読みたいものがないとき、人は読みたいふりをする。
「今日は逃げなかったね」
「逃げても、ここに戻ってくる」
「うん。そういう場所、必要」
カリンは鞄から一枚のコピーを出した。学校の学籍台帳の一部。数字が並んでいる。十五、十六、——十八。十七が抜けている。抜けていることが、黒い穴になって紙の真ん中に開いている。
「ね」
「見える」
「ねえ、レン。これ、どういうふうに記事にしたら、いちばん傷が少ないかな」
傷の少ない記事、という言葉は、矛盾を抱いたまま立っている。記事は、切る。切って形を見せる。切らずに形は見えない。だけど、切った瞬間に血が出る。出た血で、紙は湿る。
「名前を出さない。写真も出さない。けど、空白について書く」
「空白」
「『名前を書かないことを選ぶ』ってことについて」
カリンは頷いた。頷いたあと、顔を上げる。頷きと顔上げの間に、ひと呼吸ある。呼吸は、間だ。
「——ねえ。昨日、音楽室に、誰か来た?」
「来た。笹原先生」
「先生以外」
首を横に振る。振った瞬間、ピアノの弦がかすかに響いた。誰も触っていないのに。風は止んでいる。止んでいる風の代わりに、誰かの視線が弦を撫でる。撫でられた弦は、ほんの少しだけ、うれしそうに鳴る。
「あたし、昨日の夜、ここで練習してたとき、ピアノの蓋が勝手に少しだけ開いた」
「風じゃなくて?」
「風、なかった」
「そのあと」
「『まだ、ここにいるよ』って」
耳の内側の穴が、またひとつ増える。穴は痛くない。痛くないけど、そこから世界が出入りする。
Ⅷ 現像室の約束
夜。現像室。赤い光。薬品の匂い。水の冷たさ。手順をひとつずつ、声に出さないで確認する。フィルムは新しい。昨日とは別の。裏庭の別角度。写ってないかもしれない。写っていてほしくない。でも、写っていてほしい。相反する願いは、現像液の表面で薄い波を立てる。波はすぐに鎮まる。鎮まったと思うと、また立つ。
現像が終わって、コンタクトプリント。白い紙の上に影が浮かぶ。浮かんで、揺れて、定着で固まる。四列目の真ん中。白いもの。斜めのリボン。肩。頬の右側の小さな傷。笑っている。
僕はトングを置いた。指先の震えが、道の上の立て看板みたいに、風で揺れつづける。写真を水から上げる。水滴が床に落ちる。落ちる音は、夜の音楽だ。扉に、軽いノック。二回。
「神木」
笹原先生。扉を開ける。先生は赤い光のなかでも顔色を変えない。
「また撮ったのか」
「はい」
「見せろ」
見せる。先生は見て、笑わない。笑わないときの先生は、言葉を選ぶ速度が落ちる。
「棺の蓋を開けるときは、手を添えろと言ったな」
「はい」
「誰の手だ」
「僕の手」
「そうか」
先生は、壁にもたれて腕を組んだ。
「新聞部が動いてる。黒瀬だ。お前は、あいつの前で、曖昧にするな。曖昧は、記事にされると刃になる」
曖昧、という言葉の輪郭は、刃の輪郭に似ている。似ているが、握り手がない。握り手は、こちら側で作るしかない。
Ⅸ 町の掲示板
週末。町の掲示板。文化祭のポスターの隣に、誰かの手書きの紙。
「空白を、空白のまま見よう。」
字は大人の字。太くて、まっすぐで、揺れない。誰が書いたのか、見当はつかない。貼った人の背の高さが紙の位置に出る。僕の目より少し高い。笹原先生の身長に近い。けれど、先生はこんな言い回しはしない。先生なら、もっと意地悪い言い方をする。
ベンチに腰かける。曲がった脚のベンチ。座面の端に、細い白い糸。指で触ると、するりと抜けて、風に乗って飛んだ。糸はリボンの縁の糸に似ている。糸を追う風は、海に向かっている。海は、名前を受け取らない。
歩道の向こう側で、老人が掲示板を見上げていた。帽子のつばの影で表情は見えない。やがて老人は小さくうなずいて、独り言のように言った。
「鐘の娘は、まだ帰らんのう」
僕は立ち上がって、老人に近づいた。
「鐘の娘?」
「昔の話じゃ。白鐘や。鐘を打つ家。最後の娘が土で消えてしもうてな。ああ、よう笑う子じゃった」
「知ってるんですか。その子を」
「ここいらの者は、皆、誰かしら知っとるもんじゃ。誰も名前を言わんだけでの」
「どうして、言わないんですか」
老人は空を見た。雲が薄く裂けて、光が海に落ちる。
「言うと、また呼んでしまうけのう」
呼ぶ。呼ぶという言葉は、祈りにも呪いにもなる。老人はそれを分けない。分けないまま、帽子のつばに指を添えて、去っていった。
Ⅹ 記事の初稿
週明け。新聞部室。印刷の匂い。コピー機の熱。カリンはパソコンの前で、見出し案を書いては消し、消しては書いている。モニタの隅に、昨日の掲示板の写真。手書きの紙の文字が、画面の中でも太い。
「読んで」
彼女は画面を僕に向けた。初稿のタイトルはこうだった。
「空白という名の証言——黄瀬に残る“欠番”の話」
本文には名簿の欠番のこと、記事に名前がないこと、資料館のこと。写真は出さない。名前も出さない。空白について書く。空白を、空白のまま見ようとする試み。
「どう?」
「好き」
「記事に『好き』は要らない」
「『正しい』より強いときもある」
カリンは笑った。笑うと、左の口角だけ小さなえくぼが出る。見せようか、と言いかけて、やめる。写真に撮って見せると、笑いの性質が変わってしまう気がした。
「出すね。明日の号で」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「……あたしも」
ふたりの怖さは、別の方向を向いている。同じ場所で、違う風を受けている感じ。重ねると、風は渦になる。渦は、中心に静けさを作る。
Ⅺ 風の真ん中
夕方。校舎裏。裏庭。ガラス。空の層。同じ場所に立つ。同じ角度で空を見る。昨日と違うのは、手にカメラがないこと。カメラがないと、目がカメラの真似をする。フレームを勝手に作って、切り取る。切り取ったつもりで、何も切れていない。
——まだ、ここにいるよ。
声は、風と音の間。音にする前の、息の温度。言葉になる前の、舌の位置。僕はうなずく。うなずくと、世界が一度だけピントを外す。外れて、戻る。そのさの差だけ、涙腺が熱くなる。泣かない。泣くと、彼女は遠くなる。泣かないで、笑うと、近くなる。笑えない。笑えないから、近くにも遠くにも行けない。
「レン?」
振り向くと、カリン。譜面の束。音楽室から持ってきたらしい。風で角がめくれる。めくれた角が、光る。
「ここにいると、歌いたくなる」
「歌えばいい」
「歌うと、来るかな」
「誰が」
「彼女が」
カリンは喉の奥で声を作り、途切れ途切れのメロディを置いていった。知らない曲。だけど、知っている気がする。曲は、知らないまま覚えていることがある。覚えているまま知らないこともある。音は、ガラスで反射して、もう一度こちらに戻ってくる。その戻ってきた音は、最初の音より少しだけ短い。
曲が途切れた。風が一層。ガラスの向こう。白いもの。斜めのリボン。肩。笑い。右頬の小さな傷。僕は息を吸った。吸いながら、目を閉じた。目を閉じると、世界のほうが目を開ける。開けた世界のほうが、こちらを見る。
「——まだ、ここにいるよ」
カリンが小さく言ったのか、風が言ったのか、分からない。分からないことは、記録できない。けれど、残る。
Ⅻ 夜、紙になる
夜。印刷機。ガシャガシャと紙が吐き出される音。新聞部の部屋。カリンは表紙の試し刷りを手に取り、肩の力を抜いた。紙は軽い。軽いけれど、今夜に限って少し重い。重さは、名前の重さじゃない。空白の重さだ。
「出すよ」
「ああ」
「怒られるかも」
「怒られたら、それを記事にすればいい」
「ふふ。レン、そういうときだけ強い」
カリンは笑って、出ていった。僕は部屋にひとり残って、窓を少しだけ開けた。夜の匂い。インクの匂い。二つの匂いは、仲が悪くない。風が紙の角をめくり、また戻す。そのたびに、紙は命みたいな音を立てる。
——まだ、ここにいるよ。
耳の穴を、風がやさしく撫でた。返事をしないで、窓を閉める。返事をすると、世界が勘違いする。返事をしなくても、世界は勘違いする。でも、いまは、しない。
終章 放課後の音楽室
翌日の放課後。音楽室。窓の格子。譜面台。ピアノ。カリンは鍵盤に触れないで、鍵盤の上に手を置いた。置くだけで、音は出ない。置くだけで、音が生まれることもある。目を閉じて、彼女はゆっくり言った。
「——まだ、ここにいるよ」
僕は頷いた。うなずきは、小さくても、音が出る。頷く音は、誰にも聞こえない。けれど、誰かに届く。
ピアノの弦が、ふっと震えた。蓋は閉じている。風はない。音は一瞬で消えた。消えた、という音だけが、長く残った。
廊下の向こうから、笹原先生の靴音。ドアが開いて、先生は部屋の真ん中まで来て、立ち止まった。僕とカリンの顔を順番に見て、言う。
「出したな」
「はい」
「怒られたら、記事にしろ」
先生は笑った。笑って、少しだけ眉を下げた。
「空白を空白のまま見た紙は、紙のくせに重い。落とすな」
「はい」
先生が出ていく。ドアが閉まる。音楽室の空気が、また整う。窓の外、海の面が光っている。光っているのに、音はしない。音がしないのに、波は来る。来て、引く。引いたあとの砂の模様は、指の紋みたいだ。世界の指紋。そこに、彼女の名前を書きたい。書かない。書かないという選択は、書くより強い。
鍵盤の上に置いたカリンの手が、ひとつ分だけ前に滑った。白鍵と黒鍵の境目。境目に指を置くと、音は出ない。出ない音を、僕たちはしばらく聴いていた。
——まだ、ここにいるよ。
もう返事をしなくても、分かる。ここに、いる。そういうふうに、僕たちは今日を終える。明日も、そうする。明後日も、そうできたらいい。紙は乾く。インクは匂いを失う。それでも、紙の角は風でめくれる。めくれるたび、世界は少しだけ過去に戻る。戻って、また来る。来るたびに、ここに、いる。




