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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第15話 海の見える階段

 朝の風はうすく、港のブイはゆっくり上下していた。昇降口のガラスは指先の温度をそのまま返し、手のひらに残る冷たさはすぐ教室の空気に溶けた。黒板の右下には九つの点が並んだまま、線になる手前で止まっている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で小さく光った。先生は通路の椅子に座り、目だけで「いつもどおり」を合図する。合図は短いのに、十分だった。

 十秒は浜崎。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かないで終える。僕は呼ばなかった。呼ばない日は、教室の端まで空気が均等に流れる。窓の外の旗が一度だけはためき、すぐに落ち着いた。十五、十六。板書が始まる。黒板の右下の点は視界の隅に置かれ、そこから今日が整いはじめる。

 一限の途中、事務から放送が入った。午後、海沿いの斜面で土砂の確認作業。先日の雨で段差が崩れかけ、立入禁止テープの張り直しが必要。許可を得た生徒数名で手伝う。安全指導は町内会の方が行う。先生は黒板の隅に短く予定を書き、希望者の手を挙げさせた。

 「四人まで。危ない作業はしない。立て札とテープだけだ」

 木下が迷わず手を挙げ、倉田が続き、僕も挙げた。最後の一人に、吹奏楽部の彼女が小さく挙手する。先生はうなずき、黒板の右下の点に一度だけ視線を置いた。

 「内側の約束は、内側で持っていけ」

 昼休み、カリンが新聞部のノートを開きながら言った。

 「私も行く。記録係。写真は撮らない。メモだけ」

 「ロープの結び、誰か覚えてる?」と木下。

 「ほどける前提の結びなら、裏庭でやった」と倉田。「結んで、返せるやつ」

 「返せるやつ、って言い方が好き」とカリンは笑い、表紙の裏に細い字で「返せる結び」と書き足した。書いたあと、ノートを閉じる。閉じ方にためらいがない。

 放課後、昇降口で軍手を配られ、黄色いベストを羽織る。町内会の人たちに挨拶をし、道具を持って海沿いの坂を下った。空気は塩の匂いが強く、波の音が階段の下から一定の間隔で届く。斜面は草の根がむき出しで、土は乾いているのに脆い。杭が斜めになった場所に近づくと、足裏の感覚が少し変わる。柔らかく沈むところと、薄く固いところが、縞のように交互に並んでいた。

 「ここ、昨日の風で掘られてる」と町内会の男性が言う。帽子のつばに指を当て、杭の向きを示す。「真っすぐじゃなくて良い。強くじゃなく、長く持たせる打ち方がある」

 金槌の音は乾いていて、風に乗って遠くへ行く。僕らは言われたとおりに、立て札の位置を直し、テープを新しい杭に張り替えた。木下が杭を押さえ、僕が軽く踏み込み、吹奏楽部の彼女がテープを張る。倉田はロープの結びを担当した。ほどける前提の結び。見ていると、結ばれた先で余白が小さく呼吸しているみたいに見えた。

 作業の合間、階段の踊り場で短い十秒をやった。吸って、吐いて、止める。止めたところで、波の音と息の音がちょうど重なる。重なったのに、どちらも薄い。薄いまま並んで、すぐに離れた。離れ方がやさしかった。十秒を持ったまま二段だけ降り、もう一度十秒。足音が自然に揃う。揃う音は誰かの緊張を半分持っていく。

 「ここ、額縁に似てる」とカリンがメモに短い線を引いた。「囲っていないのに囲われてる感じ」

 「海の見える階段」と木下。「名前、ダサい?」

 「ダサくて最高」と彼女は笑う。「覚えやすい」

 踊り場の端の錆びた手すりに触れる。冷たさはなく、ざらりとした質感だけが残る。質感はすぐ指から離れて、掌のほうへ広がった。広がり方は、教室の粉の重さと違う。違うけれど、並べられる。並べられるものが増えると、怖さは薄くなる。

 最後のテープを張り終えたころ、坂の下から強い風が一度だけ吹き上がった。立て札のひとつがぐらりと傾き、杭が抜けかける。近くにいた小学生が珍しそうに近づき、テープに触れようと手を伸ばした。僕は声を出さず、手で合図した。来ないで、の合図。間に合わないと思った瞬間、横から倉田がすっと入り、小学生の前で膝を折って目線を合わせる。彼は笑わないで、やわらかい声を出した。

 「こっちはいま大人の仕事。君の近くにも、君専用の海があるよ」

 小学生はきょとんとして、次の瞬間、近くの段に腰を下ろした。段の端から海が斜めに見える。彼は満足したらしく、そのまま砂いじりを始める。木下が傾いた立て札を持ち直し、僕は杭を踏み込んだ。吹奏楽部の彼女がテープの端を張り、ふたたび線がまっすぐになる。線は風で揺れるが、切れない。切れないことに、うすい安堵が広がった。

 一本分のテープを余らせて戻る途中、階段の途中に背中の丸い猫がいた。白と灰のまだら。人を怖がらないタイプらしく、こちらを一度も見ない。カリンが一歩だけ近づいて止まる。猫はあくびをして、階段の陰に消えた。

 「いまの動き、十秒に似てた」とカリン。

 「猫の十秒、強そう」と木下が笑い、倉田が「猫は“忘れる”が上手い」と短く言う。忘れ方の上手さを見た気がして、僕はうなずいた。忘れられる動物は、長く生きる。人間も、たぶん同じだ。

 作業が終わると、町内会の人が缶のお茶を配ってくれた。缶はぬるく、甘さは弱い。甘さが弱いまま、長く残る。ベストを脱ぐと肩が軽くなった。帰り道、いちばん上の踊り場で先生が短く言う。

 「ここで十秒をやる。——“持って移動する”の練習の続き」

 海に背を向けて同じ方向を見る。吸って、吐いて、止める。止めた先に、黒板の右下の九つの点を思い出す。海風で流されないように、点を少し重くする。重くするのは、強くするためじゃない。遠くへ行かないためだ。終わった瞬間、旧市街の女性が階段の陰から現れ、手すりに片手を置いた。布袋は持っていない。

 「……良い持ち方です。階段で十秒を持つのは、昔から上手い子が多かった」

 「昔もやってたんですか」とカリン。

 「ええ。鐘の前だけでなく、海の近くや橋の上でも。——“静かな列”は、道の上でも作れます」

 彼女はそれだけ言って、すぐに去った。足音は小さく、風に混ざって消えた。消え方が良かった。良かった、と今日はよく思う。

 学校に戻ると、教室の空気は少し甘かった。誰かが新しい消しゴムを使ったのだろう。先生は黒板の前で瓶を持ち上げ、ふたを開けずに光にかざした。粉は見えない。見えないけれど、ある。ある、を持って進む。

 「今日は一粒、返さない」と先生。「海で揺れたぶんを、内側に戻す」

 うなずきが静かに連なる。拍手はない。拍手のいらない種類の達成だった。十七番の席は丸い背もたれを見せたまま、誰の名前も呼ばない空気を持っている。持っているだけで、十分だった。

 放課後の音楽室。譜面台は揃い、鍵盤は光る。調律は終わっていて、弦の匂いが薄く残っている。扉を半分開けたまま三人で十秒。息を置いて、忘れる。忘れたあとで倉田が言った。

 「文化祭の最後の音、まだ耳に残ってる。風鈴みたいな」

 「窓枠が鳴った音」と僕。

 「偶然の音は、用意した音より遠くへ行く」とカリン。言いながら胸の前で軽く手を合わせる。合わせた手はすぐ解かれ、音の代わりに空気が整った。

 帰り際、校門の外の掲示板に小さな紙が貼られていた。手書きで、既視感のある字。

 “静かな動きが一番強い”

 ——今日の校長

 引用の紙は誰の仕業か分からない。剥がさない。剥がさないで、覚える。覚えた言葉を、明日の十秒の前に一度だけ思い出す。思い出してから忘れる。その順番で、明日もやる。

 夜。机で手帳を書いていると、携帯が一度だけ震えた。差出人なし。短い三行。

 届きました

 白い封筒

 また、海のほうで

 返事は打たなかった。打たないで、窓の外の暗さを確かめ、目を閉じた。耳の奥で短い音が鳴って、すぐに止んだ。止んだところに十秒を置き、名前の輪郭を息で温め、離す。離れた手のひらは冷たくなく、ほどよく温かい。その温度で眠った。

 翌朝。空はうすい青。十秒は木下。吸って、吐いて、止める。終わりに僕は呼ばなかった。呼ばないで、黒板の右下の九つの点を数える。九。増えないこと自体が、今は合図だ。授業は普通に進み、二限の終わりに資料館からメモが届く。

 海沿いの段に、空の額縁を置きました

 ——午前だけ、誰かが並びました

 額縁が海のほうへ出張している。僕らは放課後に見に行くことにして、昼休みは教室で静かに過ごした。浜崎が弁当を食べながら言う。

 「SNSで“静かな展示が怖かった”って書いてる人、まだいた。俺は、怖がったって書いてくれて良かったと思う」

 「怖がるのは自由だから」とカリン。「“怖い”って言葉が、次の“怖くない”を連れてくるときがある」

 僕はうなずき、透明の台座の角を思い出す。角の欠け目に光が集まり、また散る。散り方はやさしい。やさしい散り方を覚えた人は、乱暴にならない。

 放課後、僕らはまた坂を下った。額縁は踊り場の中央に固定され、四隅の金具が光っている。四角の中には海が入り、水平線は昨日よりまっすぐに見えた。風は弱く、波は規則正しく階段の下を叩く。列はない。ないが、誰かが並んだ匂いが残っている。匂いは目に見えないのに、そこにあると分かる。

 額縁の前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めたところで、吹奏楽部の彼女が息だけの歌を一度だけ置いた。置いて、忘れる。忘れたあと、額縁の中の光がほんの少しだけ揺れる。揺れ方が良い。良い、は今日の中で多く許される。

 終わる頃、坂の上から年配の男性が降りてきた。釣り竿のケースを肩にかけ、帽子のつばが深い。僕らを見て一礼し、額縁を一瞥し、階段の端に腰を下ろした。彼はスマホも出さず、海を見ないで手すりの錆を指で撫でる。撫で方が丁寧で、長かった。僕らは追いかけない。追いかけないで、覚える。覚えたことは紙にしない。紙にしない記録は、場所のほうに残る。

 帰り際、旧市街の女性が踊り場の下に立っていた。顔を上げずに言う。

 「“半分の名前”の半分を、そろそろ戻すかもしれません」

 「戻す?」と僕。

 「台座の位置です。——外に半歩、出し過ぎているかもしれない」

 胸のあたりが少し冷たくなる。出してきたのは僕らだ。半歩の距離に意味を持たせすぎると、呼吸が固まる。固まった呼吸は、優しさを鈍らせる。戻すことは、弱さではない。戻したいと一瞬思って、怖くなる。怖くなることは、間違いじゃない。

 「いつ、戻しますか」

 「階段で十秒を持てた日に」と彼女。「今日でもいい。明日でもいい」

 学校へ戻る。教室の空気は静かで、粉の匂いは弱い。十七番の席に立ち、机の奥の名札を見る。透明の台座は手前に半歩だけ出ている。角の欠けに光が集まり、すぐに散る。僕は手を伸ばさなかった。伸ばさないで十秒。吸って、吐いて、止める。止めたところで、カリンが小さくうなずく。倉田が短く言った。

 「明日、戻そう。半分。半分のままに」

 先生は黒板の前で瓶を持ち、ふたを開けずに言った。

 「戻すのは夜でも朝でもない。授業と授業の間の、短い空白でやる。——“静かな列”を作る。この教室の中で」

 翌日。空は白く、港は静か。十時二十分、休み時間の鐘が鳴る。廊下の足音が遠ざかり、教室の中は僕らだけ。列は作らない。各自の席に座ったまま、同時に十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、席を立たず体の角度だけを変える。視線を十七番の席へ運び、呼ばない。呼ばないで、机の奥の名札に右手を伸ばす。台座をほんの少しだけ内側へ戻す。戻すのは数ミリ。音はしない。戻した指先をそのまま空気に移し、手を引く。倉田が頷き、吹奏楽部の彼女が小さく息を置いた。木下は瓶のふたを指で触れずに撫で、カリンは黒板の右下の点を目だけで一往復した。先生は立たず、通路の椅子の上で十秒を持ち、終わりに短く言う。

 「戻った」

 戻った、という言葉は思っていたより軽かった。軽いなら、持てる。持てるなら、落とさない。胸の奥にうすい温かさが広がる。広がり方は遅い。遅いのに、間に合う。間に合う速さで進む。

 昼休み、資料館からのメモがまた届いた。

 階段の額縁、今朝は風で少し傾きました

 ——直さず、そのままにしています

 直さない、を選ぶのは勇気がいる。けれど、直さないことで守れる形がある。傾いた額縁は、机の写真の白い縁取りに似ていた。白は何も書かれていない。書かれていない白の中に、今日の十秒が薄く座る。

 放課後、生活指導室に呼ばれた。SNSの件で確認があるという。扉を開けると、先生が二人、柔らかい顔で座っていた。

 「“静かな展示が怖かった”という投稿について、誰か責めたりしていないかを確認したかっただけだ」と年配の先生。「怖がった人がいたことは事実。事実は、そのまま置く。——それでいい」

 僕らはうなずいた。うなずくと、先生は黒板の右下の点の話を出した。あの点がここまで長く点のままでいるのは珍しい、と笑う。珍しいことは、間違いではない。珍しいことは、記憶に残りやすいだけだ。

 教室へ戻り、音楽室で十秒。鍵盤の端の白に光が集まり、譜面台の列はまっすぐだ。扉の向こうで足音が止まり、また動く。止まり方も、動き方も良い。良い、と言えることが増えるたび、やさしさは落ちにくくなる。

 帰り道、校門の外で旧市街の女性に会った。彼女は立ち止まり、目だけ柔らかくして言う。

 「半分、戻りましたね。——その半分が、長く残ります」

 「戻して、弱くなりませんか」と僕。

 「ならない。戻した位置が、本当の“半分”だっただけ」

 彼女は去り、足音は風に混じった。胸の中の怖さは小さくなり、代わりに軽さが増える。軽いのに、薄くない。薄くない軽さは、皆で持てる。

 夜。手帳に今日のことを書き、最後に短く残した。

 海の見える階段

 半分を戻す

 点は点のまま

 灯りを消す前、机の端の写真を一度だけ裏返す。白い裏面は何も言わない。言わない白の上に、耳の奥の短い音がそっと置かれて、すぐに消える。消え方が良かった。良かった、と思ったまま目を閉じた。明日の十秒の最初の一呼吸だけを思い描き、呼ばない合図を胸に入れて、眠りに落ちる。

 翌朝。港は静かで、空は高い。教室に入ると、半分の名前はわずかに内側へ戻った位置で、確かに“半分”の顔つきをしていた。黒板の右下の九つの点はそのまま。線にならず、止まっている。止まっているのに、進んでいる。進み方は静かで、強い。校長の言った言葉の通りだ。席につき、背中を伸ばす。十秒は僕。吸って、吐いて、止める。止めた先に、誰の名前も置かない。置かないまま、胸の中で小さく言う。

 ありがとう。半分のままで。

 声にしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに放課後を迎えた。ふつうの中に、静かな見せ場がいくつも立っている。誰も拍手をしない。拍手のいらない見せ場を、今日は何度も通り過ぎた。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整う。整った空気の中で、点は点のまま、確かに明日へ残っていた。

 その晩、港の堤防に寄った。町内会の人が撤去し忘れた古いテープが風に揺れている。切らず、結ばず、ただ十秒を置いて忘れる。帰り道、堤防の階段で年配の釣り人が帽子に手をやってこちらを見た。目が笑っていて、言葉は少ない。

 「また、海のほうで」

 それだけだった。返事はしなかった。しないほうが、届くことがある。家に戻り、写真の白い縁を上にして机に置く。白は何も言わない。何も言わない白の上に、今日の十秒が薄く座り、明日の十秒のための場所を開けて眠った。


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