第十二章 カリンが覚えていたこと
復興記念式典の朝、町は不自然なほど晴れていた。
昨日までの雨が嘘のように、空は青く澄んでいる。山の斜面に張られたブルーシートは朝日を受けて鈍く光り、濡れた道路には白い雲が映っていた。通学路の側溝を流れる水の音だけが、雨の名残をかすかに伝えている。
レンはいつもより早く家を出た。
鞄の中には、黒いリングノート、作業日誌のコピー、地下通路の写真、高倉の名刺、榊先生の証言メモ、旧墓地の名簿の写し、そして青と白のミサンガが入っている。
すべてが紙と布と小さな金属片のようなものだ。
けれど、レンにはそれが一人の少女の体の一部のように思えた。声、字、名前、手首、足跡、残された言葉。ばらばらに散ったものを拾い集め、ようやく人の形に戻そうとしている。
楢原由奈。
今朝、その名前は消えなかった。
目が覚めてから十秒どころではない。顔を洗っているときも、朝食を食べているときも、靴を履いているときも、レンの中にはその名前があった。まだ不安定だ。何かの拍子に薄れる気配はある。それでも、もうただの夢の名前ではない。
名字がある。
声がある。
墓がある。
証言がある。
そして、壁に刻まれた言葉がある。
レンは悪くない。
その言葉を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。
悪くないと言われても、楽にはならない。けれど、ユナがそう残した事実を無視することもできない。罪悪感は、時に自分だけのものではない。誰かが残した言葉まで塗りつぶして、自分を罰することもまた、別の形の傲慢なのかもしれない。
追悼碑の前に、カリンがいた。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、鞄を両手で抱えるように持っている。顔色は白い。だが、目は逃げていなかった。追悼碑の七人の名前をまっすぐ見ている。
レンが近づくと、カリンは振り返った。
「おはよう」
「おはよう」
いつもの挨拶だった。
だが、その朝は少し違って聞こえた。
追悼碑の下部、削られた空白が朝日を受けている。そこにはまだ何も刻まれていない。誰も花を置いていない。町が公式に認めた七人の名前だけが、黒い石の上に整然と並んでいる。
レンはその空白を見た。
「今日、式典だな」
「うん」
「町長も来る」
「三枝さんも来ると思う」
「だろうな」
カリンは鞄から一枚の紙を取り出した。
「昨夜、時系列を整理し直した。あと、安西先生に渡す資料もまとめた」
「寝た?」
「少し」
「また二時間とか?」
「三時間」
「誤差だな」
「記録上は五割増し」
カリンは淡々と言った。
その言い方に、レンは少し笑った。こんな朝に笑えるとは思わなかった。
カリンもほんのわずかに口元を緩めた。
だが、すぐに表情を戻した。
「安西先生とは、式典準備の前に図書準備室で会う。榊先生も来る予定。高倉さんは仕事の都合で来られないけど、昨夜、証言を書面にして送ってくれた」
「いつの間に」
「夜中」
「君、寝てないだろ」
「三時間」
「それはもういい」
カリンは小さく頷いた。
「高倉さんの証言には、三つ重要なことがある。地下通路でレンと私を救助したこと。壁の文字を見たこと。楢原由奈の鞄を役場へ提出したこと」
「鞄」
「うん。役場が持っているなら、開示請求の対象になる。すぐには難しくても、存在を認めさせることができる」
「認めなかったら?」
「高倉さんの証言、榊先生の証言、地下通路の写真を出す」
「戦う準備ができすぎてる」
「怖いから」
その言葉は、もうカリンの口癖のようになっていた。
けれど、初めて聞いたときとは意味が違う。怖いから逃げるのではない。怖いから準備する。怖いから記録する。怖いから、少しでも足元を固めて進む。
レンは、彼女の横顔を見た。
「カリン」
「何」
「昨日のこと、もう一度謝る」
「いい」
「よくない」
「じゃあ、受け取る」
彼女は追悼碑から視線を外さずに言った。
「でも、私も話していないことがある」
レンは息を止めた。
「話していないこと?」
「正確には、話せなかったこと」
「思い出したのか」
カリンは頷いた。
「昨日、地下通路から帰ったあと。壁の文字を見て、少し戻った」
レンは黙って続きを待った。
カリンは、削られた空白を見つめたまま言った。
「私は、ユナを覚えていた」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、強く響いた。
「どういう意味だ」
「名前は思い出せなかった。顔もぼやけていた。でも、完全に忘れていたわけじゃない。どこかで知っていた。私の中に、ずっと残っていた」
「どこに」
「怖さとして」
カリンは自分の手を見た。
「町を離れていた半年間、私は何度も同じ夢を見た。資料室、雨、地下通路。誰かが私を押す。逃げろって。私は振り返る。でも、振り返っても顔が見えない。声だけが聞こえる」
「ユナの声?」
「うん。たぶん、ずっとユナの声だった」
レンは、カリンの横顔を見た。
彼女は泣いていない。けれど、声の奥にかすかな震えがあった。
「私は、夢の中で毎回思うの。戻らなきゃって。でも、足が動かない。誰かが私の背中を押す。私は外へ出る。雨の中に出る。そこで目が覚める」
「それを、今まで言わなかった」
「言えなかった」
「どうして」
「それを認めたら、私はユナに逃がされたことになるから」
カリンは唇を噛んだ。
「生き残った理由が、自分の判断じゃなくて、ユナに押し出されたからだと認めるのが怖かった。私は冷静に調べているふりをしていたけど、本当は最初から知っていたのかもしれない。私だけが外へ出た理由を」
レンは何も言えなかった。
カリンは続けた。
「私が戻ってきたのは、ユナを探すためじゃない。最初は、自分を確かめるためだった。私が見た夢が本当にあったことなのか。私が誰かを置いて逃げたのか。それを知りたかった」
「それは悪いことじゃない」
「そうかな」
「そうだろ」
「でも、ユナのためじゃなかった」
「最初は、だろ」
カリンはレンを見た。
レンは、追悼碑の削られた場所を見た。
「僕だって、最初は自分のためだった。毎朝名前が消えるのが気持ち悪くて、怖くて、自分が何を忘れてるのか知りたかった。ユナのためだなんて、最初から言えない」
「レン」
「たぶん、それでいいんじゃないか」
レンは、言葉を探しながら続けた。
「きれいな理由じゃなくても、そこから始まってもいい。記録は完璧じゃなくていい。続けるのが大事だって、ユナが書いてた」
カリンの目が揺れた。
作業日誌のユナの字。
雑でも続けるのが大事。記録は完璧じゃなくていい。
「そうだね」
カリンは小さく言った。
「ユナなら、そう言うかもしれない」
朝の風が、二人の間を通り抜けた。
カリンは鞄から一枚の写真を取り出した。
森下が見つけた、資料室の写真だった。印刷された紙の中で、三人目の少女の輪郭はさらに濃くなっている。顔はまだぼやけているが、髪の長さ、手首のミサンガ、ボイスレコーダーを持つ指はわかる。
「昨夜、もう一つ思い出した」
カリンは写真を見つめた。
「ユナは、私に言った。『花鈴は記録を疑う係ね』って」
「疑う係?」
「私は、何でもすぐには信じなかった。資料を見ても、写真を見ても、それは本当に正しいのかって言う子だった。ユナはそれを面白がってた」
「今と同じだな」
「うん」
カリンは少しだけ笑った。
「レンは?」
「僕?」
「ユナは、あなたを何係って呼んでたんだろう」
レンは考えた。
記憶の奥に、薄い笑い声がある。
資料室。夕方。三つの紙コップ。ユナがボイスレコーダーを持っている。
――レンくんは、面倒くさがり係。
違う。
その後に何か付け足していた。
――でも、最後まで残る係。
レンは息を止めた。
「最後まで残る係」
「え?」
「たぶん、そう言ってた」
カリンは写真から顔を上げた。
「ユナが?」
「ああ。僕は面倒くさがりだけど、最後まで残る係だって」
口にした瞬間、胸の奥で何かが痛んだ。
最後まで残る係。
それなのに、ユナは残り、レンは助かった。
カリンはその痛みに気づいたのか、静かに言った。
「じゃあ、まだ終わってないんだよ」
「何が」
「最後まで残る係なら、今も続いてる」
レンは追悼碑を見た。
削られた空白。
そこに名前が戻るまで。
最後まで。
図書準備室には、すでに安西先生が来ていた。
彼は落ち着かない様子で、机の上の資料を見ていた。普段はどちらかと言えば事務的な教師だが、今日は明らかに緊張している。旧校舎のことを知らないまま赴任した教師が、突然、町の隠された記録に触れようとしているのだから当然だった。
その隣に、榊先生が立っていた。
榊は昨夜よりも顔色が悪い。だが、来た。
それだけで、レンには十分だった。
「おはようございます」
カリンが挨拶する。
安西は頷いた。
「朝から呼び出してすまない。榊先生からも話を聞いた。正直、まだ全部を理解できていない」
「理解できていなくても、記録はできます」
カリンが言った。
安西は苦笑した。
「朝倉さんらしいな」
「私のこと、まだよく知らないと思います」
「昨日、少しわかった」
安西は机の上に置かれた地下通路の写真を見た。
「楢原由奈さん。榊先生は彼女を覚えている。高倉さんも証言している。久瀬のお母さんも名前を知っている。そして、君たちは資料を持っている」
「はい」
「だが、町は認めていない」
「だから今日、認めさせたいんです」
カリンの声は静かだった。
安西は眉をひそめた。
「式典で何かするつもりか」
レンとカリンは顔を見合わせた。
実際、二人はまだ決めきれていなかった。復興式典の場でユナの名前を出す。それは最も強い方法だ。だが、同時に最も危険でもある。町は混乱する。遺族もいる。七人の名前を悼む式典を、別の目的に使うことになる。
ユナならどうするだろう。
レンは一瞬考えた。
おそらく、ユナは真正面から行くだろう。けれど、ただ騒ぎたいわけではない。彼女は記録者だった。記録は、相手を殴るためだけにあるのではない。消されたものを、正しい場所に戻すためにある。
「式典を壊したいわけではありません」
レンは言った。
「七人を悼むことを邪魔したいわけでもない。でも、そこに入るべき名前が一つ抜けているなら、黙祷の前に知らせる必要があります」
安西は険しい顔になった。
「それは、かなり大きなことだ」
「わかっています」
「町長も来る。報道も来る。生徒も保護者もいる。もし誤りだった場合、取り返しがつかない」
「誤りではありません」
カリンが言った。
彼女は資料を順に並べた。
「榊先生の証言。高倉さんの証言。地下通路の文字。旧墓地の名簿。作業日誌。ボイスレコーダー。写真。母親の証言。これだけ揃って、楢原由奈さんが存在しなかったと言う方が不自然です」
「存在は、そうだろう」
安西は言った。
「だが、追悼碑に載せるべき犠牲者かどうかは、町の正式な判断が必要になる」
「その正式な判断が歪められていたんです」
カリンの声が少し強くなる。
榊が口を開いた。
「安西先生」
「はい」
「彼女たちの言う通りです。楢原由奈さんは、災害の犠牲者です。私は当時の教師として、それを知っていました。そして黙りました」
安西は榊を見た。
「榊先生、それを今日、公に言えますか」
榊は目を閉じた。
長い沈黙のあと、頷いた。
「言います」
空気が変わった。
榊先生が言う。
その一言は重い。レンやカリンだけなら、子どもの暴走として処理されるかもしれない。だが、当時の担当教師が証言すれば、無視するのは難しくなる。
安西は深く息を吐いた。
「わかった」
レンは顔を上げた。
「先生」
「私が校長に話す。式典の前に、少なくとも楢原さんの件について確認の時間を取るよう求める」
「町長には?」
「校長から話すのが筋だろう。ただし、町が拒む可能性は高い」
「その場合は?」
カリンが訊いた。
安西は二人を見た。
「君たちは、生徒代表の動線を知っているか」
「生徒代表?」
「黙祷前に、生徒会長が追悼の言葉を読む。その直前に、司会が犠牲者の名前を読み上げる予定だ」
カリンが目を細めた。
「名前を読み上げる?」
「七人分を」
レンの胸が強く打った。
七人分の名前が、体育館で読み上げられる。
そのとき、八人目の名前がないまま黙祷が始まる。
それを聞いていられるだろうか。
安西は言った。
「本来なら、生徒が勝手に介入していい場ではない。だが、もし学校側が何もできず、名前が読み上げられようとしたら……」
そこで言葉を止めた。
教師として、言ってはいけないことなのだろう。
カリンが静かに引き取った。
「私たちが、楢原由奈の名前を読む」
安西は答えなかった。
否定もしなかった。
榊が低く言った。
「その場合、責任は私も負う」
安西は榊を見た。
「先生だけの問題ではありません」
「そうです。だから、逃げない」
準備室の外で、式典準備の放送が流れた。
『生徒は八時四十分までに体育館へ集合してください』
時間が近づいている。
安西は資料をまとめた。
「私は校長室へ行く。榊先生も来てください」
「はい」
榊は立ち上がった。
出ていく前に、彼はレンとカリンを見た。
「君たちがここまで記録を残してくれたから、私は話せる」
カリンは首を横に振った。
「ユナが残したからです」
榊は、静かに頷いた。
「そうだな」
二人が去ったあと、準備室にはレンとカリンだけが残った。
体育館へ向かうまで、あと十分もない。
カリンは鞄から一枚の紙を取り出した。
「念のため、読む文章を書いておいた」
「いつ?」
「夜中」
「本当に寝てないな」
「三時間」
「もういい」
レンは紙を受け取った。
そこには、短い文章が書かれていた。
この町の災害で亡くなった人の中に、楢原由奈さんという生徒がいました。
彼女は旧校舎の地域記録整理係として、過去の災害記録を調べていました。
彼女の名前は追悼碑にも公式名簿にもありません。
けれど、彼女の声、筆跡、写真、証言、地下通路の記録が残っています。
私たちは、彼女の名前を黙祷から外したくありません。
楢原由奈さんの名前も、ここで呼ばせてください。
レンは読み終えて、しばらく紙を見つめた。
「いい文章だ」
「短い方がいいと思った」
「ああ」
「でも、本当はあなたが読んだ方がいい」
レンは顔を上げた。
「僕が?」
「ユナは、あなたに覚えていてと言った」
「カリンだって」
「私は疑う係。あなたは最後まで残る係」
そう言われると、断れなかった。
レンは紙を握った。
「声、震えるかもしれない」
「震えてもいい」
「途中で止まるかもしれない」
「止まったら、私が続ける」
「いいのか」
「二人で記録係だから」
レンは頷いた。
その言葉だけで、少し足元が固くなる。
体育館へ向かう廊下は、生徒たちで混雑していた。
白いパイプ椅子が整然と並び、前方には町長や来賓の席が用意されている。壇上には大きなパネルが立っていた。
町は忘れない。未来へつなぐ、七つの祈り。
その文字を見た瞬間、レンの手の中の紙が重くなった。
七つではない。
少なくとも、七つだけではない。
生徒たちが席に着く。保護者が後方に案内される。報道関係者らしいカメラも数台入っている。町長はすでに来ていた。壇上横の来賓席に座り、穏やかな笑みを浮かべている。
その近くに、三枝の姿もあった。
三枝はレンとカリンに気づき、かすかに目を細めた。
レンは視線を逸らさなかった。
しばらくして、安西先生が体育館の端から戻ってきた。表情は硬い。
遠くから、彼は小さく首を横に振った。
校長と町は、受け入れなかった。
予定通り式典は進む。
レンは紙を握りしめた。
カリンもその合図を見ていた。
「来る」
彼女が小さく言った。
「ああ」
「名前を読むところで」
「わかってる」
式典が始まった。
司会の教頭がマイクの前に立つ。開会の辞。来賓紹介。町長の挨拶。
町長は、落ち着いた声で話し始めた。
「本日、私たちは大きな悲しみを越え、未来へ歩むためにここに集まりました。去年の災害により、尊い七つの命が失われました。町はその記憶を決して忘れず――」
レンは膝の上で拳を握った。
決して忘れず。
その言葉を、どの口が言うのか。
町長の言葉は続く。
復興。未来。絆。安全な町づくり。犠牲者への祈り。
どれも美しい言葉だった。だが、その美しさが、レンには薄い紙で汚れを覆っているように見えた。
やがて、黙祷の時間が近づいた。
司会がマイクに向かう。
「それでは、去年の災害により亡くなられた七名の方々のお名前を、謹んで読み上げます」
体育館が静まり返った。
レンの心臓が、痛いほど打っている。
一人目の名前が読まれる。
二人目。
三人目。
声が遠くなる。
四人目。
五人目。
六人目。
七人目。
そこで、司会は言った。
「以上、七名――」
レンは立ち上がった。
椅子の脚が体育館の床をこすり、大きな音を立てた。
全員の視線が集まる。
心臓が喉元まで上がってくる。
声が出ない。
隣でカリンも立ち上がった。
彼女が、そっと言った。
「レン」
それだけで、声が戻った。
レンは紙を開いた。
手が震えている。文字が揺れる。
それでも、読める。
「もう一人、います」
体育館にざわめきが走った。
教頭が困惑した顔をする。
安西先生が動きかけ、止まる。
三枝が立ち上がろうとする。
レンは続けた。
「この町の災害で亡くなった人の中に、楢原由奈さんという生徒がいました」
体育館の空気が、明らかに変わった。
名前が、響いた。
楢原由奈。
その瞬間、どこかで誰かが小さく息を呑んだ。
レンは続ける。
「彼女は旧校舎の地域記録整理係として、過去の災害記録を調べていました。彼女の名前は追悼碑にも公式名簿にもありません。けれど、彼女の声、筆跡、写真、証言、地下通路の記録が残っています」
「久瀬くん、座りなさい」
教頭の声が飛んだ。
レンは止まらなかった。
「私たちは、彼女の名前を黙祷から外したくありません」
声が震えた。
その先が詰まった。
カリンが、一歩前に出た。
「楢原由奈さんの名前も、ここで呼ばせてください」
体育館は静まり返った。
三枝が壇上横から歩き出そうとした。
そのとき、別の声が響いた。
「楢原由奈さんは、確かに存在しました」
榊先生だった。
体育館の後方に立っていた彼が、声を張った。
「私は当時の担当教師として、彼女を知っています。彼女は災害当日、旧校舎にいました。そして私は、その名前が公式記録から外されたことを知りながら沈黙しました」
ざわめきが一気に広がった。
町長の顔から笑みが消えた。
三枝が榊の方を睨む。
安西先生も立ち上がった。
「私も、資料を確認しました」
安西の声は震えていた。
「学校として、楢原由奈さんの存在について再調査を求めます」
その言葉が、体育館の中に落ちた。
もう、子どもの暴走ではなくなった。
教師が二人、立った。
レンは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
完全に勝ったわけではない。町はまだ認めていない。追悼碑に名前が戻ったわけでもない。
でも、名前は読まれた。
多くの人の前で。
楢原由奈。
誰かが、小さくその名を繰り返した。
後方の席にいた保護者の中からだった。
また別の誰かが言った。
「楢原さん……?」
「そういえば、いたような」
「地域記録の子?」
ざわめきの中で、ユナの名前が少しずつ広がっていく。
カリンが、レンの隣で小さく息を吐いた。
「戻ってる」
レンは頷いた。
「ああ」
式典は、中断された。
教頭が慌てて進行を止め、校長と町長が壇上裏へ下がる。三枝は険しい顔で安西先生と榊先生に何かを言っている。報道関係者のカメラが動き始める。生徒たちは騒然としている。
だが、レンにはそのすべてが少し遠く感じられた。
彼の視線は、壇上のパネルに向いていた。
七つの祈り。
その言葉の下に、空白がある。
そこに、今、見えない文字がひとつ刻まれた気がした。
楢原由奈。
式典のあと、レンとカリンは職員室へ呼ばれた。
当然、叱責もあった。危険区域への立ち入り、資料の無断持ち出し、式典の進行妨害。どれも事実だった。だが、安西先生と榊先生が同席し、資料の存在を説明したため、話は単純な処分では済まなくなった。
校長は青ざめていた。
町長と三枝は別室にいた。報道機関が騒ぎ始め、保護者からも問い合わせが入っているらしい。楢原由奈という名前を知る人が、少しずつ名乗り出ているという話も聞こえてきた。
夕方、ようやく解放されたとき、二人はぐったりしていた。
校舎を出ると、空は茜色だった。
追悼碑の前には、数人の生徒が立っていた。
森下もいた。
彼はレンに気づくと、片手を上げた。
「すごかったな」
「怒られた」
「だろうな」
森下は追悼碑を見た。
「さっき、ここで名前言ってみた」
「名前?」
「楢原由奈。そしたら、なんか思い出した。体育祭のとき、お前を助けた子。俺、見てたわ。白い鉢巻きで、めっちゃ笑ってた」
レンの胸が熱くなった。
「顔は?」
「まだぼんやり。でも、昨日よりは見える」
森下は照れたように笑った。
「たぶん、戻ってきてるんだろ」
カリンが静かに頷いた。
「うん」
そのとき、追悼碑の前に一人の女性が近づいてきた。
レンの母だった。
仕事を抜けて来たのか、制服のカーディガンを羽織ったままだ。目は赤い。だが、表情は昨日までより少しだけ決まっていた。
母は追悼碑の前で立ち止まった。
そして、小さく言った。
「楢原由奈さん」
レンは母を見た。
母は続けた。
「ごめんなさい」
それは、誰に聞かせるための謝罪でもなかった。
けれど、追悼碑の削られた空白に、静かに届いたように見えた。
夜、レンは自室でノートを開いた。
今日の出来事を書き残す。
式典で、楢原由奈の名前を読んだ。
カリンも読んだ。
榊先生が証言した。
安西先生が再調査を求めた。
町は止めようとした。
でも、多くの人が名前を聞いた。
森下が体育祭のユナを思い出した。
母が追悼碑の前で名前を呼んだ。
書き終えたあと、レンは写真を見た。
資料室の三人の写真。
そこには、もうほとんど少女の姿が見えていた。
顔は、まだ少しぼやけている。
それでも、笑っていることはわかった。
肩より少し長い髪。
白い鉢巻きではなく、資料室では髪を耳にかけている。
手にはボイスレコーダー。
手首には青と白のミサンガ。
レンは、そっと名前を呼んだ。
「楢原由奈」
写真の中の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。
錯覚でもよかった。
レンはノートの最後に書いた。
カリンは、ユナを覚えていた。
僕も、少しずつ覚えている。
町も、少しずつ思い出し始めている。
まだ足りない。
でも、名前は呼ばれた。
ペンを置く。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
明日から、町はきっと動く。反発もある。三枝も黙ってはいない。ユナの鞄を取り戻さなければならない。公式記録を変えさせるには、もっと多くの証拠がいる。
それでも、今日、名前は体育館に響いた。
声だけではない。
紙だけではない。
夢だけではない。
多くの人の耳に、楢原由奈という名前が残った。
レンはミサンガを手に取った。
青と白の糸は、まだ切れていない。
名前を返すまで。
願いは、まだ終わっていない。




