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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第13話 呼べない日の手紙

 朝いちの風はやわらかかった。港の音は遠く、昇降口のガラスは指先の温度を静かに返す。教室へ入ると、黒板の右下に並んだ九つの点はそのままで、線にならず、止まっている。輪郭を薄くした名前は昨日のまま、半分の名前は机の手前で静かに光った。先生は通路の椅子に座らず、今日は黒板の前に立つ。目でだけ「いつもどおり」を合図して、最初のチャイムを待った。

 十秒は僕。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に声は置かない。置かないまま、視界の端に九つの点を並べた。終わった瞬間、教室の戸がノックされる。事務の先生が顔をのぞかせ、小さな封筒を一つ、先生に手渡した。表面には、細いボールペンの字で宛名が書かれている。

 白鐘ユナ様

 ○○市立第二中学校 三年一組気付

 空気がわずかに動いた。先生はすぐに封筒を伏せ、チョークの置き場の横に置いた。開けない。開けないのに、教室の全員が中身の重さを知ったような顔をした。先生は短く言う。

 「授業は授業。昼休みに五分、話す」

 一限の英語は単語テストで、二限の理科は回路図の演習だった。前の列の男子がふと鉛筆を落とし、拾いながら小さく「白鐘」とつぶやいたのが聞こえたが、それ以上、何も起こらない。起こさない。十七番の席の背もたれは、今日も丸く、丸いまま皆の視線を受け止めている。

 昼休み、先生は黒板の前に立った。封筒はまだ開いていない。机の上で白い長方形が光に薄く反射している。

 「封は俺が切る。中身を読むかどうかは、ここで決める。読まない選択もある。返す、という選択もある」

 カリンが小さく手を挙げた。

 「差出人は表に出ていますか」

 先生は封筒を裏返し、しばらく目を凝らす。それから首を横に振った。

 「差出人名なし。消印は港の南の局。日付は昨日」

 木下が手を挙げる。

 「読まずに返す方法、あるんすか」

 「ある」と先生。「“宛所に尋ねあたりません”の判を押して戻すやり方だ。だが、その判を学校で押す責任は俺にある。押していいかどうかは、お前たちで決めろ」

 教室が静かになった。僕は手を挙げるタイミングを探し、結局、深呼吸だけした。代わりに、後ろのほうで浜崎が手を挙げた。いつもは冗談を先に言う彼が、今日はまっすぐだった。

 「俺、半分だけ読みたいです。誰が出したかによっては、返し方を変えたほうがいいかも。白鐘を知ってた人かもしれない。なら、返すにしても、返し方を間違えたくない」

 「半分の読み方は」とカリン。「方法を先に決める。全部読まない。宛名と最初の一行だけ。もしその一行に、個人の深い話があったら、すぐ閉じる。もし“返す”の手がかりだったら、そこだけ使う」

 先生は封筒を持ち直し、頷いた。

 「全員、いいか。いまから開ける。俺が読み上げるのは宛名と最初の一行だけだ。それ以上は読まない。読み上げる前に、十秒をやる」

 僕らは立たずに、席で背中を伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先で、先生が封を切った。小さな音。中から白い便箋が一枚だけ出てくる。折り目は浅く、紙は薄い。先生は便箋の上部だけを見やすい位置に持って、静かに読んだ。

 「宛名……白鐘ユナ様。——一行目。“また、海を見に行こう”」

 そこで先生は便箋を閉じた。僕の胸の中で何かが小さく鳴った。黒板の右下の九つの点が、目の奥で一瞬だけ線になりかける。ならないように目をそらす。顔を上げると、十七番の席の背もたれは丸いままだった。

 先生が低い声で言う。

 「これ以上は読まない。——返し方を決めよう」

 倉田が手を挙げた。

 「俺、返したい。返すときに、“海”って言葉だけ、生かせないかな。額縁みたいに、空の四角で囲って返すとか」

 「郵便は形式のほうが強い」とカリン。「正式に返送して、“届かなかった”を差出人に渡す。その上で、私たちのやり方で別の返し方を作る。二本立て」

 先生は頷いた。

 「正式な返送は俺がやる。押印も、封の仕方も学校のやり方に合わせる。——もう一つはお前たちの内側のやり方だ。午後、やってみろ」

 五分の話はそれで終わった。弁当のふたの音が戻り、ペットボトルのキャップが回る。僕は味が薄い卵焼きを口に入れ、かすかに甘い匂いを鼻で確かめた。甘さは弱いのに、長く残る。

 午後、授業は普通に進んだ。普通の途中で、僕の内側だけが少し速い。放課後、先生が封筒に学校の返送印を押すのを見届けてから、僕らは教室の後ろに集まった。内側の返し方を決める。カリンがノートに四角を描き、矢印を二本、左右にのばす。

 「左は“海”。右は“額縁”。真ん中に“十秒”。封筒は使わない。紙も使わない。音も使わない。——返すのは“行こう”のほうの気持ち。行きたい、を持ち帰ってもらう」

 木下が腕を組む。

 「具体的には何すんの」

 「場所を選ぶ。海に近いのは裏庭の棒。額縁に近いのは音楽室の扉前。両方をつなぐ通路として、廊下の窓際に“短い十秒”の地点を三つ置く。通る人は知らない。通らない人も知らない。私たちだけが通って、置いて、忘れる。最後に棒の前で“また、海を見に行こう”の形を息で作って、忘れる」

 「言葉にしないで?」

 「しない。言葉は返送の封筒に任せる。私たちは形だけ返す」

 僕は頷いた。形だけ返す、という言い方がうまく胸に入る。形は声より軽い。軽いから、遠くへ行ける。遠くへ行けるものは、戻ってこなくてもいい。

 段取りを簡単に決めて、僕らは教室を出た。廊下の窓際に小さな目印を三つ。床に触れず、目でだけ覚える。最初の地点で十秒。吸って、吐いて、止める。止めたところに、封筒の四角を思い描く。四角はすぐに空気に戻る。二つ目の地点で十秒。今度は額縁の四隅の金具の光り方を思い出す。三つ目の地点で十秒。海の白い線を遠くに置く。置いたまま、音楽室の扉へ。

 扉の前で一度だけ立ち止まり、鍵盤の端の白を思い出す。音は鳴らない。鳴らないまま、裏庭へ出る。棒は短い影を落とし、土の上には小さな石がいくつか浮き出ていた。風は弱く、港の音はさらに遠い。

 棒の前で、三人で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に、便箋の一行を形だけ作る。声にはしない。口の形にもならない。形だけ作って、忘れる。忘れた先に、棒の影がやわらかく伸び、すぐに戻る。戻り方は、昨日までと同じだった。昨日までと同じが、今日はありがたい。

 終わった瞬間、背後で足音が止まった。振り返ると、浜崎が立っていた。彼は笑わないで、棒の影の先に視線を落とす。口を開いた声は、いつもより少し低かった。

 「俺さ、白鐘の親戚かと思ってた人に、昔、海で会ったことある。釣りしてるおっちゃんで、“鐘の歌知ってるか”って訊かれて、知らないって答えた。そしたら“知らんままでええ”って笑った。——今日の封筒、あの人じゃないかもしれないけど、あの“知らんままでええ”を思い出した」

 カリンが浜崎の肩を軽く小突いた。

 「それ、最高の返し方だよ。知らないままで返す。知らないまま“また、海を”の気持ちだけ渡す」

 浜崎はうなずき、目をこすった。涙ではない。土埃だと言い張るのが似合う、強がりの仕草だった。

 教室に戻る途中、資料館の司書さんと廊下ですれ違った。彼女は立ち止まらず、目だけで「見ています」を伝えてくる。僕らは頷くだけ頷いて通り過ぎた。見られている、が怖くないのは、見られているものが薄いからだ。薄いものは、壊れにくい。

 夕方の終礼で先生は短く報告した。封筒は正式に返送手続きをする。差出人のところへ“宛所に尋ねあたりません”の印とともに戻るだろう、と。方法の説明はそれだけ。理由は説明しない。説明しないことで、守れるものがある。

 帰り道、港の風が少しだけ強くなった。潮の匂いが浅く鼻に届き、僕はその匂いを覚えておくことにした。覚えた匂いは、いつか薄くなっていくだろう。薄くなっても、起点の感触は残る。残った感触を、呼ばない日の十秒に混ぜればいい。

 夜、手帳に今日の段取りを書いていると、机の端の写真が一度だけ小さく鳴った。倒れなかった。倒れない角度を完全に覚えたのだと思う。写真の裏には何も書かれていない。何も書かれていない裏を見て、僕は便箋の一行を思い出した。

 また、海を見に行こう

 声に出さない。紙にも書かない。思い出しただけで忘れる。忘れたあと、短いありがとうだけ胸の中で言って、灯りを消した。

 翌朝。空は明るく、風は弱い。教室に入ると、黒板の名前は昨日と同じで、輪郭はやわらかく、半分の名前は机の手前で静かに止まっている。九つの点は増えず、線にならないまま。先生は通路の椅子に座り、珍しく少し笑った。

 「返送、受け付けられたって。事務から連絡が来た。あとは向こうへ戻るだけだ」

 十秒は木下。吸って、吐いて、止める。終わりに、僕は呼ばない。呼ばないで、黒板の右下の点を視界の隅で数えた。九。増えないことが、今日は安心になっていた。増やさないで守れるものが、ちゃんとここにある。

 三限の終わり、音楽室から小さな連絡。ピアノの調律が午後に入るという。放課後の十秒は調律の前にやるか、後にやるか。僕らは前にやると決めた。調律の音に、僕らの息を混ぜないために。

 放課後、音楽室の前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。鍵盤の端が光り、譜面台は揃い、扉の外で誰かの足音が一瞬止まって、すぐに去った。去り方が小さく、静かで、良かった。良かった、という言葉を、今日は何度も使ってもいい気がした。

 十七番の席に戻って、机の奥の名札をそっと撫でる。透明の台座の角の欠け目に光が集まる。集まった光は、すぐに散る。散り方がやさしい。やさしい散り方を覚えたら、人の手は乱暴にならない。

 その夜、僕はあの封筒の白さを思い出していた。白は、書かれていないものを受け止める色だ。あの白は、戻っていく。僕らのところにではなく、出してくれた誰かのところへ。戻った白は、きっと別の白に変わる。変わることは、悪くない。変わる白のことを考えながら、僕は眠りに落ちた。

 翌日。港の音は静かで、空は高い。教室はいつもより少し明るかった。十秒は倉田。吸って、吐いて、止める。終わりに、先生が黒板の前に立ち、右下の九つの点のいちばん端を指で軽く押さえた。押さえて、離す。離したあと、点は点のまま。線にはならない。

 先生が言った。

 「やさしく消す日は、いったん保留にする。点は増やさない。——けれど、十秒はやる。粉は返す。歌は忘れる。半分の名前は半分のまま。お前たちの息が場所になる。場所になったら、誰が来ても大丈夫だ」

 うなずきが連なる。拍手は起きない。いらない。拍手は終わりの合図だけど、僕らは終わらない。終わらないまま、今日を進める。

 昼休み、カリンが新聞部のノートに短い見出しを書いた。

 呼べない日の手紙を返す方法

 本文は書かない。見出しだけを残して、ノートを閉じる。閉じたノートの上で、彼女はペンを転がす。転がる音は小さく、今日の教室にちょうどいい。

 放課後、資料館に寄ると、空の額縁は箱の隣に戻っていた。四角の中の空気は安定していて、囲いの外よりも少しだけ静かだった。額縁の前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、僕は心の中だけで一度だけ言った。

 また、海を見に行こう

 声にならない。紙にもならない。言ったことは、忘れる。忘れたあと、額縁の四角の中にうすい揺れが生まれ、すぐに消える。消え方が良かった。良かった、と思えたことが、今日の答えだ。

 帰り道、校門の外で旧市街の女性に会った。彼女はいつものように布袋は持っていない。目だけ柔らかくして、言う。

 「返送、届くでしょう。——あなたたちの返し方も、届いていました」

 「届くって、どういう」

 「届いたときだけ、分かります」

 それ以上は言わず、彼女は去った。歩幅は一定で、足音は静かだった。静かさが背中に長く残った。

 夜、手帳の最後に短く書いた。

 知らないままで返す

 半分のままで置く

 点は点のまま

 書き終えて灯りを消す。耳の奥で、短い音が一度だけ鳴って、すぐに止んだ。止んだところに十秒を置き、名前の輪郭を息で温め、手を離す。離れた手は冷たくなく、ほどよく温かい。ほどよい温かさは、やさしさの温度に近い。近いところで眠る。明日の十秒を持って、また、ここに戻る。


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