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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第12話 点が線になる前に

 朝の空はうすく白かった。港の音が遠く、昇降口のガラスは指先の温度と釣り合っている。黒板の右下には七つの点が横に並んだままで、線になる手前で止まっていた。名前の輪郭はやわらかく、半分の名前は机の奥で静かに光っている。今日の十秒当番は僕、拭く係は木下と吹奏楽部の彼女。先生はいつもの通路の椅子に腰をかけ、手を膝に置いて、目で合図をくれた。

 十五、十六。僕は立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に声は置かない。置かないまま、視界の端に七つの点を置いた。終わったあと、呼ぶか呼ばないか数秒迷い、呼ばないほうに指先が傾く。今日はその傾きに従う。教室は揺れない。揺れないまま、午前の時間が動き出す。

 一限の英語は質問が多かった。先生が板書した短い会話に、クラスの男子が勝手に続きの台詞をつけて笑いが広がる。笑いは軽い。軽いのに、どこかで支えているものがある。十七番の席の背もたれは丸く、その丸さのまま笑いを受け止めていた。

 二限の数学の途中、廊下を消防署の人たちが通った。避難訓練の下見。赤いヘルメットが並んで、窓の外の明るさと混ざる。先生は手を止めず、黒板の右下の点をちらっと見ただけで、また式の続きへ戻った。点はそこにあるだけで、何かを約束してくれる。

 昼休み、新聞部のポストに小さな封筒が入っていた。中身は切り抜きの写真。空の額縁の前で立ち止まる人たちの後ろ姿。顔が写っていない。裏には細い字で短く書かれていた。

 額縁は、帰り道です

 カリンが写真を光にかざし、うなずいた。帰り道。帰る途中に思い出すもの。思い出しかけて、忘れるもの。忘れて、それでも残る触感。額縁の四角は、そういう場所だった。

 放課後、先生から予定の変更が伝えられた。来週の金曜日に決めるはずだった「候補の日」を、一日だけ後ろへずらす。町の防災無線の点検がその日に重なるから。音の大きい日には、やさしく消す練習をやらない。そういう判断だ。

 誰も反対しなかった。反対できない、ではなく、反対することが目的ではないと、皆が分かっていた。先生は黒板の右下に小さな点をひとつ付け足し、七つの横に一拍あけて、八つ目を置いた。点は、たったそれだけで明日のかたちをつくった。

 話し合いのあと、音楽室へ寄る。譜面台は揃い、蓋は半分、鍵盤は薄く光る。僕とカリンと倉田で並び、息を合わせ、形を作って、忘れる。忘れたところで十秒を置く。窓の外を鳥の影が横切り、影だけが床に小さな四角を描いて消えた。影の四角は、額縁の四角と似ていた。似ているのに、別ものだ。似ているものが別のままであることは、世界のやさしさの一部だ。

 帰り道、旧市街の女性が坂の上に立っていて、小さく会釈した。布袋は持っていない。立ち止まらずに通り過ぎるとき、彼女が短く言った。

 「点が線になる前に、もう一つだけ返しましょう」

 「どこで」

 「明日の放課後、裏庭の棒の前で」

 裏庭の棒。最初の日からそこにあった、低くて頼りない鉄の棒。結び目がほどけても責めてこない種類の棒。そこに、もう一つだけ返す。僕はうなずいた。返すことがひとつ増えるたび、怖さは薄くなり、緊張は静かになる。

 夜、家の机で手帳を開き、今日のことを書いた。点が八つになったこと。額縁が帰り道だというメモ。明日の裏庭。書いているうちに、机の端の写真が一度だけ揺れて、倒れなかった。倒れない角度を覚えた写真は、そこにいることに責任を持ち始める。責任という単語は固いけれど、本当はあたたかい。

 翌朝。風は弱く、空は高い。教室の空気はうすく甘い匂いがした。誰かが新しい消しゴムを使ったのだろう。十秒は木下。立たずに背中を伸ばし、吸って、吐いて、止める。終わりに僕は小さく呼んだ。白鐘ユナ。声は短く、届くぶんだけ。窓の外で小さな風が起き、カーテンの端が一度だけ膨らんで、すぐに落ちた。

 午前の授業がおわるころ、資料館から短いメモが届いた。薄い紙に二行。

 額縁は、箱の隣に戻りました

 箱は、来月の展示替えでいちど閉じます

 閉じる。閉じられる前に、僕らはやる。やる、と言っても、何か派手なことではない。十秒を持って、息を置いて、粉を返して、歌を忘れる。うすい作業を重ねる。それが、僕らの方法だ。

 放課後、裏庭の棒の前に集まった。空は少し白い。土の上に小石が少しだけ浮いて、棒の影は短い。旧市街の女性が白い紐を取り出し、三人に渡した。練習用よりも細い。指先が勝手に温めなおす。

 「今日は三本。一本はあなた、一本はあなた、一本はここに置いていきます」

 彼女は棒に最初の紐をひと結びだけして、ほどける前提の結びを作った。僕は二本目を受け取り、吸って、吐いて、止めて、離す。紐は土に落ちず、風に乗らず、ただ消えた。消えたというより、見えなくなる位置へ移った。倉田は三本目を受け取り、指先で軽く撫でてから、棒の陰にそっと置いた。置かれた紐は、影と重なって、見えなくなった。見えなくなる前に、そこにあったことを確認する。確認するのは、誰かの担いにならない程度に。

 「ありがとう」と女性は言った。「今日はこれで十分です」

 十分。十分の手触りを、掌が覚える。過不足のない終わり方。その終わり方を覚えてから、僕らは教室へ戻った。

 戻る途中、掲示板の前で足が止まった。新しい紙が一枚、端に貼られている。細い字。

 線になる前に、忘れてください

 忘れることで、線は点のまま止まる。止まった点は場所になる。場所になったものは、誰かが見つけ、誰かが使い、誰かが返す。返されることで、また点に戻る。

 夜、手帳に今日の返し方を書いた。棒の影と紐。ほどける前提の結び。見えなくなる位置へ移るという言い方。書いた文字は細く、濃すぎず、紙の白は残したまま。紙の白は呼吸の余白だ。余白は、明日を入れておく場所だ。

 候補の日の一日前。黒板の右下の点は八つになって、さらにその右に小さな余白があった。余白は次の点のため、ではなく、点が線にならず止まるための逃げ道に見えた。十秒はカリン。吸って、吐いて、止める。止めた先で、彼女は目を開かず、右手を胸の前で軽く合わせた。音は鳴らない。音が鳴らないまま、教室の四隅がすこし明るくなった気がした。

 昼休み、先生が短い紙を配った。手のひらに収まる幅。紙の上には、三つの項目。

 今日やること

 一、十秒をいつもより短く持つ

 二、粉は返す(戻さない)

 三、半分の名前を、半分のまま置く

 下には空白があって、自由記述欄。皆はそこへ何かを書き、折りたたみ、先生の机へ置いた。僕は一行だけ書いた。

 やさしく、遅く、速く

 矛盾みたいに見える三つの言葉。やさしくするために遅くなって、間に合うために速くなる。体のほうで勝手に両立させる。僕らのやり方は、だいたいそんなふうにできている。

 放課後、教室は静かだった。先生は黒板の前に立ち、右下の八つの点のいちばん端を指で押さえて、離した。離し方が丁寧だ。それだけで、教室の空気は少し整う。先生は瓶の蓋を開け、粉の丘を光にかざした。白い粒の一粒一粒が、今日までの十秒のように見えた。

 「明日、やる。——やらない、も正しい。けれど、明日の朝までは『やる』を持って寝ろ。寝ているあいだに、やめたい気持ちが強くなったら、当日の朝に言いなさい。朝にやめるのは、弱さじゃない」

 先生はそう言って、蓋を閉めた。音はしない。しない音のほうが、長く残る。

 夜は早く来た。港の灯は少なく、風は弱く、雨は降らなかった。僕は十秒を練習し、吸って、吐いて、止めて、呼ばず、呼ばないで寝た。夢の中で誰も来ず、誰も去らず、ただ窓の外の空が淡く明るくなっていくのを見ていた。

 候補の日の朝。空は白く、風はない。昇降口のガラスは指先の温度を返し、昇降口の外の石段は乾いていた。教室の黒板に名前はあり、輪郭はやわらかく、半分の名前は机の手前で半歩だけ外に出ている。先生は通路ではなく、黒板の前に立っていた。目は柔らかく、腕は組まず、手は膝のかわりに黒板消しの横に置いてある。

 十秒は倉田。立たずに背中を伸ばし、吸って、吐いて、止める。止めた先に、誰の声も置かれない。終わった瞬間、先生が短く言った。

 「やる」

 返事はいらなかった。皆、分かっていた。分かっていて、怖がっていた。怖がっていて、進んだ。進み方は、練習で決めた順番どおり。

 まず、粉。吹奏楽部の彼女が紙の端で名前の輪郭の外側をそっと撫で、木下が瓶の口を開け、紙を傾け、粉を返す。音はしない。息を置いて、忘れる。忘れ方は昨日と同じ。忘れたぶんだけ、白い線の存在がはっきり見える。はっきり見えることは、消しやすさの準備でもある。

 次に、半分の名前。僕とカリンが机の奥の名札を両側から持ち、手前へ一センチ引き出す。透明の台座の角に光が集まり、角の欠け目は相変わらず小さい。置いたまま、触らない。触らないで、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、先生は黒板の右下の八つの点の右隣、余白の上に小さな点をひとつ付け足した。九つ。九つ目の点は、線にならずに、また点だった。

 そして、歌。声にはならない、口の形にはならない、息だけの歌を、教室の四隅に薄く置く。置いて、忘れる。忘れたあと、先生が名前の右端の見えない角を、息で温めるように撫でた。白い線は変わらない。変わらないのに、変わって見えた。見えたことは、僕の中の変化だ。教室の変化でもある。

 終わった。終わったあと、誰も座らなかった。立ったまま、呼ばない十秒をもう一度だけ持った。二度目の十秒は、最初より短かった。短いのに深く、深いのに軽い。軽くなったぶんだけ、持てる人が増える。持てる人が増えると、やさしさは落ちない。

 先生が瓶の蓋を閉め、黒板の前で小さく息をついた。珍しく、言葉が遅れて出てきた。

 「今日はここまで。——名前は残した。輪郭はさらに薄くした。半分は半分のまま置いた。よくできた。次にやる日は、決めない。点はもう打たない。点が線になる前に、いったん止まる」

 止まる、という言葉が教室に落ちた。落ちた言葉は跳ねず、床にやわらかく沈んだ。誰も拍手はしなかった。要らない。拍手が要らない種類の完成がある。

 授業は普通に進み、休み時間は普通に笑い、放課後は普通に片づけた。普通が戻ってくると、やわらかく泣きたくなる。泣かないけれど、泣きたい気持ちのほうへ体が少し傾く。傾いたまま、音楽室へ向かった。

 音楽室は静かだった。譜面台は並び、蓋は半分、鍵盤は光る。僕は鍵盤に指を置かず、横に立って、吸って、吐いて、止めた。倉田は目を閉じ、カリンは胸の前で軽く手を合わせる。三人の十秒は重なり、重なったまま離れ、離れたまま重なる。重なり方に作法はない。作法がないことが、作法だ。

 扉の向こうで、誰かの足音が一瞬止まって、すぐに去った。旧市街の女性かもしれないし、違うかもしれない。確かめない。確かめないことを、今日は選ぶ。選ぶことが、返すことの一部だ。

 帰り道、掲示板の端にまた小さな紙が一枚。既視感のある字。

 ありがとう

 半分のまま、長く

 紙は剥がさない。剥がさないで、覚える。覚えたことは、紙より長く残る。長く残ると、やがて軽くなる。軽くなったものは、誰かに渡せる。渡したら、返せる。

 夜、手帳に今日のことを書いた。九つ目の点。線にならないまま止まったこと。輪郭がさらに薄くなったこと。拍手のいらない完成。書き終えるころ、机の端の写真が小さく鳴って、倒れなかった。鳴り方は風鈴に似ていた。窓の外には風鈴はない。ないのに鳴った音は、返す音の親戚みたいで、少し笑ってしまった。

 布団に入る前、携帯が短く震えた。差出人なし。二行。

 もうすこし、このままで

 やさしく、遅く、速く

 僕は返事を打たなかった。打たないで、目を閉じた。耳の奥で短い音が一度だけ鳴り、止まった。止まったところに十秒を置き、名前の輪郭を思い浮かべ、輪郭の外側を息で温め、手を離した。離した手のひらは少し冷たく、冷たさはすぐに体温に戻った。

 翌朝の空は、薄い青だった。港は静かで、クレーンは細い線を空へ伸ばし、昇降口のガラスは指先の温度を返した。教室の黒板には名前があり、輪郭はやさしく、半分の名前は机の手前で静かに止まっていた。点は九つのままで、線にならず、止まっている。止まっているものの前を、人はゆっくり通り過ぎる。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整う。

 その朝の十秒は短かった。短くて、強かった。僕は呼ばず、呼ばないまま、胸の中で小さなありがとうをひとつだけ言った。声にしない。声にしないまま、教室は前へ進んだ。普通は戻り、笑いは軽く、ノートの端はゆるく折れ、瓶は光を受け、点は点のまま。点が線になる前に、いちど止まる。その止まりかたの中に、たしかな進み方が見えた。僕はそれを、今日の手帳の最初の行に書くつもりで、ペンを取り出した。書く手は軽く、軽いのに、落ちない。落ちないのは、皆で持っているからだと思った。


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