9,一緒に朝食を
「ユフィ。なにを考えている?」
詰問の声音ではなく、優しい声音が向けられる。真剣に聞こうとしているかのようにオルガの耳もユフィに向いてぴんと立つ。どこか不安げな使用人たちもユフィを見つめるしかない。
きゅっと拳をつくって、ユフィは視線を下げたまま答えた。
「わ……わたしなどに…勿体ないです。このような待遇を得るに相応しくありません。わたしは……ほんとうは魔法だって……」
声が震えて、長い髪がその表情を隠す。
隣でそれを見つめながら、オルガはそっとその手をユフィの頭に置いた。優しく触れるぬくもりにユフィは見えない中で目を瞠る。
「『王族か高位貴族の令嬢をオリバンス国に』という条件。ノーティル国が停戦協定を受け入れた時点で、その裏を読んでくるだろうと解っていた。こちらが、魔法を望んでいるだろうと読むことは」
「……?」
「だが貴族の一部はともかく、陛下も、俺も、それがすんなり通るなどとは思っていなかった。魔法を望むなら、逆に魔法を使えない者を送ってくるだろうと」
「……!」
あっさりと告げられた言葉に目を瞠り、ユフィの視線が僅か上がる。その驚きは隣のオルガを見ていて、オルガもその視線を受けながらユフィを見つめた。
昨夜、ユフィは一人背負い続けた重荷から解放された。そう思っていた。
けれど、それは違った。過去の己から解放されることはない。傷も、姿勢も。国が押し付けた責任などよりずっと深く長く染みついたそれが、ユフィに今の態度をとらせる。
(君の重荷を、傷を、一つずつでも――)
頭に乗せた手を一度だけゆっくりと動かす。
小さな体であまりにも多くを背負っているユフィが痛ましくて、愛おしくて。
「だがユフィ。ノーティル国は読み違っている」
「読み違い……?」
「そう。陛下が欲しかったのは魔法ではなく、魔法に関する知識だ。どのような令嬢が来てもオリバンス国の民として丁重に遇すると決めている。……もっとも、ユフィが素晴らしい魔法使いであったことは、嬉しい誤算だったんだが」
そう言ってオルガは悪戯めいた表情を浮かべる。ユフィはその言葉にただ驚いた。
(魔法が使えても、使えなくても……。わたしも読み間違っていた……)
オリバンス国王が一枚上手だった。魔法を得るよりも魔法の知識を得ることで国を発展させようと考えているのか、それとも今後また起こるかもしれない戦支度のつもりなのか。どちらかはユフィには判らない。
考えて思い出した。
昨夜オルガはユフィが魔法を使えないと思っていたのだと看破していた。いつからなのかは分からないが、それに対し激昂することもなかった。
それは国王の考えを知っていて、それに賛同していたからなのだろう。
「だからユフィ。君は変わらず、俺の妻だ」
「で、ですが、わたしは……」
公爵子息たるオルガに相応しい身分の令嬢ではない。教養もマナーもなにも持っていない。
言いかけて、咄嗟に口を噤んだ。
(ううん。言ったほうが…いい。そして……そして、ちゃんと陛下にお伝えしてもらって、オルガ様にはちゃんとした奥方を……)
停戦協定の象徴たる自分はもう、どうなってもいいから。
オリバンズ国王の狙いどおりであったとしても、そこには釣り合いが必要なはずだ。だから――……。
「わ…たしは……若旦那様の妻など……相応しくありません。見目も悪くて……教養もマナーも……。条件どおりの娘でも、それでも……実際にそうでなかったとしても、騙すと分かっていて、なにも言えませんでした。だから……」
たどたどしく紡ぐユフィの言葉をオルガはじっと見つめたまま聞いていた。
小柄な身は一層小さくて、その手はずっと震えていて。どうか罰してくださいと言わんばかりの様子に怒りが湧いて仕方ない。
(ノーティル国も、ユフィの両親も、これほどの重荷をよくも背負わせてくれた)
オリバンズ国からの条件を聞き、ノーティル国はすぐに魔法を望んでいると読んだのだろう。ユフィもその条件から裏を読んだのか、それとも国の中央が「魔法が欲しいんだろうがやるつもりはないから魔法を使えないおまえが行け」とでも馬鹿正直に伝えたのか。
後者であるなら、ユフィという個人を無視して一人で責任をとらせればいいという考えだ。
それが国同士の駆け引きであっても、どうしようもなく腹立たしさを覚える。
けれど、目の前のユフィに罪はない。だから胸の内で怒りを殺す。
ユフィは国がなしたことの重大性に気づいている。気づいていて、自分がどうにかしようとして、覚悟を決めている。だから、王との謁見においてもあれほど静かに渡り合っていたのだ。全て本当のことを伝えるために。
己の命より、そちらを優先した。
そうあったそのときのように、今もユフィは正直に全てを伝えようとしている。その上で罰を受けようと。
黙っていることも、嘘を言うこともしないユフィを、オルガはじっと見つめた。
「だ…から……わたしなど放っておいて、きちんとした奥方様をお迎えください。陛下にもきちんとお伝えし――」
「断る」
――否定してはいけない。それは必ず、痛みとなって返ってくるから。
口を挟まずずっと聞き役に徹していたオルガの拒絶は、ユフィの耳には強く鋭い怒りを混ぜた一声のように届いた。小さく肩が跳ね、視線が下がって唇が震える。
考えることなどなにもない。ガタンッと音を立てて倒れる椅子に意識など向かず、数歩離れてすぐに床に頭を擦りつけた。
「で、出過ぎたことを申しましたっ……。申し訳ありません。どうかお許しくださいっ……」
痛々しいほどの悲痛の懇願に、食堂から音が消えた。
オルガも突然のことに言葉をなくし耳と尻尾が固まる。使用人たちも唖然とさせられた。
身体は震え、左手は顔の左を守るように手を添えている。長い髪は床に広がり、汚れなど気にする様子もない。
命乞いをする敵兵のようだと感じつつ、オルガはゆっくりと立ち上がると片膝をついた。宥めるようにユフィの肩にそっと手を置くが、余計に怯えさせたのかぴくりと肩が跳ねる。
(ユフィのこれまでを表すもの、か……)
躾の行き届いた使用人でもよほどのことがない限りこんなことはしないし、ウルフェンハード公爵邸において使用人にこんなことをさせたことはない。
「ユフィ。驚かせたな。すまない。怒ったわけではないんだ。だからどうか身体を起こしてくれ」
できるだけ優しく、なんてことはないのだと伝えるようにオルガは声をかける。それでやっとユフィはゆっくりと身を起こした。
しかし、俯いた顔はまだ変わらない。屋敷へ来てすぐ見せた防御姿勢と顔の左側に手を添えた目の前のユフィを見て、そうさせてきた状況を想像してまた怒りが湧いた。
それでもその怒りは見せない。見せてしまえばきっと、ユフィは自分に向けられた怒りだと思ってしまうだろうから。
(ユフィに必要なのはそうさせた相手への怒りではない。もっと別の方法で、傷つけるなど一切なく、身と心を守ると解ってもらうこと)
身を起こしたユフィを見つめ少し思案の後、オルガは徐に腕を伸ばした。
「きゃっ……!」
その腕はまた軽々とユフィを持ち上げる。そして今度は、席に座り直したオルガの膝の上に落ち着いた。
ぽすんっと座らされ、ユフィはきょとんとしてオルガをうかがう。が、こっそり見ているのに返されるのはまっすぐとした視線。なぜか腰にはふわふわな感触が絡みついている。
「ユフィ。まずは朝食をきちんと食べよう。君は細すぎるから俺はとても心配だ」
「ですが……」
「俺が、そうしてほしい」
これは命令なのだろうか……?
迷うユフィはしかし、オルガがフォークに刺した野菜を口元に向けてきたことできゅっと口を引き結び、逡巡の末、指示には必ず従うという染みついた行動から口を開けた。
しゃきしゃきとした野菜はとても新鮮で、みずみずしさを感じさせる。ノーティル国では見たことのない野菜だが国が違えば食材も違うのだろうかと頭の片隅でそう考える。
満足そうなオルガの笑みをどう見てよいか分からず、降りてもよいのかも分からずおろおろとするばかりだが、ユフィを支えるオルガの腕の力は弱まらないし尻尾も離れない。
「若旦那様、その、わたしは自分で……」
「君は野菜やスープをよく食べるが、たまには肉や魚も食べてくれ。――それから、屋敷内でのことだが、しばらくは君が使用人たちと同様のことをこなすことを許可しよう。はい、口を開けて」
「え、あ」
「ノーティル国とは生活形態も違うかもしれない。そういったことを知るにもいいだろう。もっとも、使用人たちにとって君は俺の妻だから、あまりあれこれと仕事を与えられはしないかもしれないが」
食べさせられ、今後のことをあっさりと話され、ユフィは驚きつつなんとか咀嚼を続ける。
そんなユフィを膝に乗せたまま、オルガは視線を使用人たちに向ける。屋敷の執事とメイド長、ユフィ付きの中でも最年長のメイドは驚いた様子もなく心得たと頷く。三人に任せれば問題はないとオルガはすぐに視線をユフィに戻した。
「この国の教養やマナーも学んではほしいが、それは少し先にしよう。今はこの屋敷と、俺の妻であるということに慣れてほしい」
「ありがとう…ございます……。わがままを申しまして、申し訳ありません」
「妻の要望を叶えるのは当然のことだ。はい。もう一口」
「あっ……」
「それから、教養は後にとは言ったが文字は先に覚えてしまおう。城の書庫室で何かいいものがないか見てくるから、少し待ってくれ」
時折食事を挟みながら大事な話を進めていくオルガになんとかついていきながら、ユフィは何度か頷いた。そんなユフィにオルガも満足そうに頷く。
自分で食べようとしてもさらりとオルガに流されてそのまま食べさせられること少々、ユフィは「もういいのか? まだほんの少ししか食べていないが」と少食を案じるオルガをなんとか説得して朝食を終えた。
オルガにそのまま食堂に連れてこられたので、せめて髪だけでも綺麗に整えようということで一度私室へ戻る。年長のメイド一人を伴い食堂を出たユフィを見送り、オルガは残っている使用人一同を見回した。
ユフィについている人間種のメイドたち。獣人種のメイドたちや使用人、料理長もいる。公爵邸の使用人の総数は決して少なくはないので全員への伝達は執事に任せることにしようと決め、ユフィへ向けたのとはまた違う、屋敷の主としての顔を見せたオルガは一同へ今後の話を始めた。
「先程も言ったとおり、しばらくユフィには仕事をしてもらう。俺の妻だからと妙な気遣いはしなくていいが、加減は間違えるな」
「承知しました」
「で、ですが若旦那様。本当によろしいのですか……?」
おそるおそるというように発言したのはユフィ付きメイドの一人、ミュレスだ。
今朝もユフィが一人こっそり洗濯しているところを見たせいか「昨夜は若奥様にっ……!」と妙な勘違いをしてくれたメイドであるが、悪気があるわけではないので流しておいた。
ミュレスに限らず同様のことを思っている者もいるだろう。その表情や耳、尻尾の動きからそれを読み取り、オルガはひとつ頷いた。
ユフィがこの屋敷でどう過ごすかはユフィ自身が決めることであるのが本来の姿だが、とうのユフィには自己決定権があるという認識があるのかすら怪しい。オルガの指示や許可があることのほうが動きやすいのだろうと見受けられるからこそ、オルガはユフィの行動を許可した。
「彼女はおそらくこの国や、俺たちが思う貴族令嬢としての育てられ方をしていない。行動を見ても解るだろうが、おそらく使用人かそれ以下……。そうであるなら尚更、俺の妻として振る舞えというのは彼女には酷だ。しばらくは今のまま、ゆっくりと学んでもらう」
「……分かりました。そういうことでしたら」
「同時に、この国のことについて話してやってくれ。生活一つもノーティル国とは違うだろう。当然だが、ユフィに関することの口外は禁じる。今は特に」
「「承知しました!」」
使用人の承諾と礼にオルガも頷き、仕事のために一度自室へ戻り支度を整える。
皺ひとつないシャツときちりとした隊服。華美ではなくとも気品ある服装は、見た目とは違って機動性と実践面において実に優れている。そして腰に剣を佩き、オルガは颯爽と私室を後にした。
塵一つ落ちていない廊下を歩けばすぐに、並びに部屋を持つユフィが私室から出てくるのに出くわした。俯いた彼女は見えづらい視界の中でオルガに気づき、そっと壁際へ下がる。
そんな行動を見つめ、オルガはユフィの前までくるとそっとその手を包み込む。
身を整えたユフィは服装こそ動きやすそうな今朝のものと変わりないが、白い髪を綺麗に梳いて背中で軽く結ってある。これからの仕事の邪魔にならないように、かつ、ユフィの顔の左側を隠す役目を損なわないようにだろう。
「これから仕事へ行くんだが、見送ってくれるか?」
「はい」
承諾の言葉に迷いはない。俯き加減で一歩後ろを歩こうとする。
少しの寂しさを覚えた気がしながらも、オルガはそっとユフィの手を引いて歩き出した。手を引かれて戸惑いを見せ、慣れない様子と混乱を感じさせるユフィを見つめながらオルガは階下へ降りる。
握りしめた手は小さくて、弱くて、少しでも力を入れれば壊れてしまいそうで、オルガは慎重に優しく握りしめる。
階下には執事がおり、やってきたオルガとユフィに微笑ましいものを見るように笑みを向けた。
「ではダリオス。あとを任せる」
「承知いたしました、坊ちゃま――いえいえ。若旦那様」
ほっほっと笑うダリオスに肩を竦め、オルガはユフィへ視線を向けた。
自分が放していないのでユフィの小さな手はまだ自分の手の中にある。どうしようかと迷っているのか、忙しなく動くユフィの視線は見えている右目からよく分かる。
その目がオルガを見上げると、すぐに逸らされた。
「ユフィ。いってくる」
「はい。いってらっしゃいませ」
「分からないことや困ったことは誰かに聞くように。そういうものがあるのは当然で、この屋敷の誰も邪険にも思わない。何かあればこの屋敷の執事であるダリオス…こいつに言うか、言いやすいメイドに言うといい」
「……はい」
握られた手が少し熱い気がして、ユフィは視線を彷徨わせた。
オルガは優しい。昨夜は気を遣ったのかと思ったが、今朝からも変わらず…少々心臓に悪いことはあったが、優しいのは変わらない。
(本当に、わたしを妻として置いておくのですか……? それとも、使用人として……?)
自分が言うべきことは伝えた。なのにオルガはなにも変わらない。怒らない。
屋敷の者たちに迷惑をかけても。屋敷にいる価値なんてなくても。使用人のようにしていいと言ってくれた。
(わたしは敵国の人間だから、やっぱり使用人として……? 国王陛下のお話は、どういう……)
まだ、頭が混乱していてよく分からない。何を問えばいいのかも分からない。
どうすればいいのかも、分からない。
分かるのは、仕事をくれるならば頑張ってそれをして、恩返しをしなくてはいけないということ。
「ではいってくる」
「はい……」
仕事へ向かうという馬に乗ったオルガの背を、ユフィは深々と頭を下げて見送った。